プロローグ:井戸
文久二年、夏。
江戸、深川佐賀町。
北辰一刀流・伊東道場は小さな町道場だ。
年の頃十五、六の娘が、竹箒で道場の中庭を掃いている。
伊東道場の一人娘の卯梅である。
頭上からは、鼓膜を劈くような蝉時雨が降り注いでいた。
朝の陽光はすでに鋭く、今日もうだるような暑さになることを予感させる。
娘はふと手を止め、離れへ視線を向けた。
そこには、病床の父・誠一郎がいた。
誠一郎は水戸藩家老に仕える武士だった。
しかし、寄る年波には勝てず、このところは体調を崩して、稽古の方は若い師範たちに任せきりになっている。
離れから漏れ聴こえる湿った咳に、卯梅の表情がわずかに曇る。
彼女は不安を振り切るように首を振り、竹箒を動かした。
道場には、主の薫陶よりも先ず、打ち水が必要なのだ。
卯梅は木桶を抱え、庭の隅にある古井戸へと向かった。
井戸の縁からは、冷ややかな湿り気と、微かな苔の匂いが立ち上っている。
釣瓶を下ろそうと身を乗り出した、その時。
「おーい!おーい」
奈落の底から響くような、くぐもった声が聴こえてきた。
「えっ、なに!?」
卯梅は思わず飛び退いて、竹箒を握り締めた。
「姉ちゃん!ここ、ここ!」
恐る恐る井戸を覗き込むと、わずかな光が届く水面に、泥まみれの少年が腰まで浸かっている。
金澤鎗次郎といって、まだ数えで九つになったばかりの内弟子だ。
「鎗次郎?」
「そうそう!」
「なんでそんなところにいるの!」
「カラスがさあ、菜園のスイカを突いてたの!でさあ、竹刀で追っ払おうとしたら、畝につまずいて、そのまま…」
屈託のない顔で見上げる鎗次郎に、卯梅は天を仰いで深い溜息をついた。
一方、道場の六畳間では、太っちょの師範代、中西登が山のような飯を口に運んでいた。
「師範代がいつまで食ってるんだ。弟子たちはもう板場に揃ってるぞ!」
すでに防具一式をつけたもう一人の師範代、内海次郎が腕を組んで中西を見下ろす。
「まあまあ。俺はお卯梅さんの作る飯だけが生きる楽しみなんだから」
そこへ、若い弟子が一人、報告にやってきた。
「…あの、鎗次郎がまだ来てませんが?」
中西がメザシを頬張りながら振り返る。
「ついさっきまで此処でメシ食ってたぞ?」
内海は眉一つ動かさず、冷淡に命じた。
「あいつは内弟子なんだから、どこかそこら辺にいるだろう。裏を見て来い」
そのとき、道場に卯梅が駆け込んできた。
「大変! 鎗次郎が井戸に落ちた!」
道場は、一瞬静まり返った。
最初に事態を飲み込んだ内海が尋ねる
「…どうしてです?」
卯梅は、鎗次郎から聞いた経緯を説明した。
「怪我は?」
「さ、さあ、なんか元気そうだったけど…」
「情けない!」
中西は、太い腕を組んで憤慨した。
「カラスごときに不覚をとるとは、武門の恥!」
「口の周りにご飯粒つけて、なに偉そうなこと言ってんの!早く助けて!」
卯梅の叱責で、道場の空気は「救助」へと傾き始めた。
武士の理屈など、井戸の底には届かない。
庭の古井戸を、袴の裾を端折った男たちが物々しく囲んだ。
「先生ー!空が丸く見えるよ。黒船の大砲から外を覗いたらこんな感じかなあ」
「…なんて呑気なやつだ」
内海が眉をひそめて中を覗き込む。
「…まあいい。怪我は?」
「うーん…たぶん大丈夫」
中西は井戸の縁に手を掛けて首を突っ込んだ。
「自分で上がってこれんのか?」
「壁が苔でヌルヌルしててさあ」
内海は舌打ちして、釣瓶を下ろした。
「ええい!仕方ない。引き揚げてやるから、その釣瓶につかまれ」
「はーい」
鎗次郎が釣瓶にしがみついたのを確認すると、中西は縄を握り、腰を落とした。
「ぬんッ……!」
中西が太い腕を震わせ、荒い鼻息を吐きながら縄を引く。
ギ、ギギッ……。
しかし、不吉な「ミシリ」という音が響いた直後、滑車が砕け散った。
――ゴン! ガガン!
衝撃音とともに滑車が砕け、破片が井戸の底へと落ちていった。
「いってぇぇ! 何すんだよ!」
底から飛んできた怒声に、内海がまた舌打ちする。
「うるさい!新しい縄を持ってくるから待っとけ!」
「納屋にあったと思うから取って来るわ」
卯梅が泥だらけの縄を抱えて戻ると、中西が井戸の縁に脚をかけてもう一度引っ張りあげる。
が、なかなかうまくいかない。
「な、なんでこんなに重いんだ?」
「滑車がないと重さは倍増するからな」
二人の師範代が攻めあぐねているのを見かねて、卯梅が手を挙げた。
「誰か、力のありそうなひと呼んでくる」
そこへ運悪く通りかかったのが、加納道之助だった。
この道場では若手の有望株だ。
「おう、加納、久しぶりじゃないか。ちょうどいいところに」
中西が手招きすると、加納は端正な顔を強張らせながら、おずおずと近づいてきた。
「…あの、先生方に折り入ってお話が。実は、――」
なにやら重大な決意を切り出そうとした途端、卯梅がその腕をひっつかんだ。
「あと、あと! とにかく、これを持って!」
「えっ、あ、はい。…ナワ?」
事情もわからぬまま、加納は縄の端を握らされた。
内海、中西、加納、そして卯梅。
伊東道場の精鋭が、一本の縄を数珠つなぎに握りしめた。
「いいか、息を合わせろよ。せーので引っ張るからな?」
塾生では次席の立場にある内海がリーダーシップを発揮したところで。
井戸の底から、威勢のいい掛け声が先走った。
「せーのっ!」
「おまえは黙ってろ!!!」
タイミングを外された内海と中西と卯梅が、井戸の底に向かって同時に叫んだ。
「…うわ~。ハハハ、ガンガン響く~」
鎗次郎は呑気に三人のエコーを面白がっている。
「せーのっ!」
内海の号令に合わせ、大人四人が縄を引く。
麻縄が掌に食い込み、焼けるような痛みが走った。
「…上がった!」
中西の叫びとともに、濡れネズミの鎗次郎が、井戸の縁から這い出してきた。
「ああ、助かった」
生還した鎗次郎は、着物も顔も真っ黒だが、ケロリとしている。
大人たちがようやく安堵して、膝を突こうとした、その時。
「…おーい。誰かおらぬか」
離れの奥から、低い声が響いた。
全員が反射的に背筋を伸ばす。
「薬を飲むから水を持ってきてくれんか」
「は、はーい」
道場主の声に卯梅が平静を装って応じる。
近ごろ父が気を揉んでいる外交問題と、いま自分たちが繰り広げているドタバタ劇の落差を想って、卯梅は奇妙なおかしみが込み上げてくるのを感じた。
フッと微笑んで、新しい桶を手に取る。
すると鎗次郎が足元に転がっていた釣瓶をひょいと拾い上げ、
水を吸った自分の道着の裾を、その中へ力いっぱい絞った。
「これ、持っていってやんなよ」
一同は顔を見合わせ、それから内海が鎗次郎の肩に手をおいた。
「お前は、もう破門な?」




