星は落とさない
千紗が帰ってくる前に、アンがそわそわし始めた。
首輪の鈴が鳴る前に足音の気配を読む。こいつ、受信機の後輩として優秀すぎる。
玄関の鍵が回る音。ドアが開く。
千紗が入ってきて、靴を脱ぎながら言った。
「ただいま。……ねえ、今日、褒められた」
それだけで、部屋の空気が少し軽くなる。褒められた報告は、うちの生活の中で珍しい“自分からの吉報”だ。
「おかえり。どんな褒め?」
「うーん……“千紗さんって、スターですよね”って言われた」
言い終えた千紗が、すぐに顔をしかめた。
「いや、違う。そういう意味じゃない。スターって、あの、そういう……」
「照れてる?」
「照れてる!★」千紗は自分で言って、さらに照れた。「やめて、星とか言わないで」
俺は笑いそうになって、飲み込んだ。ここで笑いすぎると、千紗の照れが“恥”になって縮む。
照れは武器だ。刃物じゃない。背中を押す合図にできる。
千紗は椅子に座った。ソファじゃなく椅子。背もたれを少し立てる。キュ、と床が鳴る。第三の動きが、今日の空気を整える。
アンが足元に来て、首輪の鈴を鳴らした。チリン。生活の確認音。千紗の肩が落ちる。いい方向に。
「凹凸?」と俺が聞くと、千紗は首を振った。
「凹凸じゃない。刺さってない。……でも、変な感じ」
「変な感じは、何の感じ」
「嬉しいのに、怖い」千紗は指でテーブルの木目をなぞった。細い溝。スリットみたいな線。「スターって言われると、落ちたら終わりみたいで」
なるほど。
褒め言葉が、同時に“落下”の想像を連れてくる。星は高いから、落ちると痛い。
俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。千紗が“期待に応えなきゃ”の渦へ滑る気配への警報。
ブザー→凹凸→一手。
今日は刺さってないけど、滑りそう。だから手順は使える。
俺は鈴を鳴らした。チリン。
「さぁ」俺は言う。「“スター”を、落ちない仕様にしよう」
「仕様ってなに」千紗が笑う。「メーカー出た」
「メーカーは、俺と千紗。星の取扱説明書、作る」
「星の取扱説明書」千紗は吹き出した。「なにそれ、恥ずかしい」
「恥ずかしいは正常。恥ずかしいは、照れの燃料」
俺は冷蔵庫からりんごを取り出した。嬉しいときでもシャクは効く。嬉しさが暴走すると、百になる。シャクで区切る。
「シャク、いる?」
「いる」千紗は言って、少しだけ口角を上げた。「今日の口の中、甘い。甘いまま飲み込みそう」
りんごを切る。今日は薄め。軽いシャクは、気持ちの軽さに合わせる。
千紗がひと切れ噛む。シャク。音が明るい。星っぽい。
「で、誰に言われたの」
「後輩」
「どういう流れで」
「私が、ミスった資料を助けたの。直すだけじゃなくて、その子が次に迷わないように“理由”も一行つけた」
理由一行。錨。風に飛ばされない声。千紗はもう手順を自分のものにしている。
「それでスター」
「うん。でもさ」千紗は眉を寄せる。「私、スターじゃなくて、ただ“丁寧”にしたいだけ」
丁寧。欠片1ピースの回路。
褒め言葉が“大げさ”に見えると、千紗は自分の良さを引っ込めそうになる。ここがすれ違いの入口。
俺はメモを出して、真ん中に一本線を引いた。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。
「左に、言われた表面」
「……『スター』」千紗が言った。
「右に、中身」
「……『丁寧に守る人』」千紗が書いた。
「それだ」俺は言った。「スターって、光る人って意味じゃなくて、道しるべって意味にもなる」
「道しるべ…」
「夜道でさ、星って“落ちないから”頼れる」俺は言う。「落ちないのがスターの条件」
千紗が少し黙って、炭酸を開けた。プシュ。泡の音が、照れの膜に穴を開ける。
「じゃあ、落ちない仕様って?」千紗が聞く。
「まず、星を“高い場所”に置かない」俺は言う。「生活のテーブルに置く」
「テーブルに星」
「うん。うちでは、星は“毎日できる一手”のことにする」
「一手…」
俺は鈴を鳴らした。チリン。
「さぁ。今日のスター一手」
千紗は少し考えて、アンを見た。アンは見返して、首輪の鈴を鳴らした。チリン。
千紗が笑って、言った。
「後輩に、今日のお礼を返す。『言ってくれて嬉しかった。でも私は丁寧にしたいだけ』って」
「いい」
「で、星は落ちないって、添える」
「添える?」
「うん。『落ちても大丈夫じゃなく、落ちない手順を作ってる』って」
千紗は言いながら自分で照れて、両手で顔を覆った。
「うわ、だめ。恥ずかしい。キミスター★とか言えない」
「言わなくていい」俺は笑って言った。「“スター”は相手が付けたラベル。千紗は中身の名前を付ければいい」
「中身の名前」
「丁寧に守る人」
千紗は頷いて、椅子をほんの一センチ動かした。キュ。第三の動きが、前へ向く。
そして、スマホを取り出して短く打つ。
『さっきの言葉、嬉しかった。私はスターってほどじゃないけど、丁寧にしたい。だからまた困ったら言って。』
送信。
千紗の肩が、ふっと落ちた。落ちるのは落下じゃない。力が抜ける落ち方。星は落ちてない。
「ねえ」千紗が言った。「私、星って言葉、ちょっと好きになりそう」
「好きになっていい」
「でも、★は付けない」
「付けてもいい」
「付けない!」
俺は笑って、鈴を鳴らした。チリン。
「さぁ、今日の締め。キミスター★」
「言うな!」千紗が笑って、アンを抱き上げた。アンの鈴がチリンチリンと鳴る。
部屋の中に、小さい光が散るみたいに。
スターは、遠くで光るだけじゃない。
生活のテーブルに置ける。
照れを武器にして、明日の一手に変えられる。
そして何より、落ちない仕様にできる。




