踏み出す合図
夜の街は、たまに「やってみろよ」と言ってくる。
ネオンの明るさじゃない。人の歩幅でもない。空気の温度が、そう言う。
金曜の仕事終わり。駅前の雑踏で、私はスマホを握ったまま立ち尽くしていた。
画面には、短いメッセージ。
『今日、来る? 跳べる日だよ』
差出人は真壁。同期で、私の“余裕のなさ”を見抜くのが異様に早い男だ。
跳べる日って何だよ、とツッコミたい。けれど、ツッコミを入れたところで何も変わらない。変わらないのが嫌だから、私はこの画面を見ている。
仕事は、今日も“ちゃんとしてた”。
ちゃんとしてる人のまま、私はいつまで生きるんだろう。
ちゃんとしてるのに、息が浅い。息が浅いのに、笑える。笑えるのに、心は置き去り。
改札を出たところで、また通知が来た。
『ヒール禁止。動ける靴で来い。あと、見学も可。無理させない』
優しい。
優しいから、逃げたい。
逃げたいから、行きたい。
矛盾が、体温みたいに当たり前にそこにある。
私はコンビニに寄って、ミネラルウォーターを一本買った。
準備運動がわりだ。
誰に言い訳してるんだ。自分に決まってる。
駅から二つ先。裏通りのビルの三階。
エレベーターの扉が開くと、低い音が腹に響いた。ドンドン、と心臓の外側から叩かれるみたいなリズム。
扉の横の小さな看板には、英語っぽい単語が並んでいる。読めるのに、読んでないふりをした。
ドアを押す。
空気が変わった。
甘い香り。汗の匂い。ライトの熱。笑い声。
床が、呼吸しているみたいに揺れている。
「おーい! こっち!」
真壁が手を振った。今日の真壁は、会社の真壁より三割くらい軽い。軽いのに、ちゃんと人間の重さを持っている感じがする。
隣には、見知らぬ人たち。年齢も服装もバラバラ。共通点は“ここに来てる”ってことだけ。
「来たんだ」
「……来た」
「えらい。じゃなくて、よく来た」
真壁は、私の肩を軽く叩いて、すぐに手を離した。距離の取り方が上手い。押さない。引っ張らない。ただ、入口の前に立つ。
「ここ、何なの」
「ダンス。って言うと構えるだろ。まあ、音楽で跳ねる場所」
「跳ねる場所……」
「見学でいいって言ったじゃん。飲み物そこ。座るのもそこ。逃げ道もある」
逃げ道。
その単語に、私は少し救われた。
逃げ道があると、人は意外と前へ行ける。崖じゃなくなるから。
フロアの端に、簡単なベンチが並んでいる。そこで休んでいる人もいる。誰も責めない顔で座っている。
私は水を一口飲んで、音の波を眺めた。
中央の輪の中で、みんなが好き勝手に動いている。上手い下手の概念が消えている。
上手い人は、上手い。
でも上手いから偉いんじゃない。楽しそうだから、つい見てしまう。
真壁が私の耳元で言う。
「な。ここは、“ちゃんとしてない人”になっていい場所」
「……私、ちゃんとしてないと不安」
「知ってる。だから連れてきた」
連れてきた、って言葉は少し大げさだ。私は自分の足で来た。
でも、こういうとき大げさな言葉は効く。自分の選択が、誰かの願いでもあるみたいで。
曲が変わった。
合図みたいに、手を上げる人が増える。
床が一段軽くなる。
私の胸が、その軽さを羨ましがる。
真壁が、両手を広げた。
「はい。準備は?」
「何の」
「跳ぶ準備」
「跳ばないって言ったら?」
「それも可。だけど、今日は“跳べる日”だよ」
真壁は笑った。
笑いながら、私を試す目をしていない。
私が“自分で選ぶ”のを待つ目だ。
私は、靴のつま先を見た。
会社で履く靴より柔らかい。
今日はたまたま、歩きやすい靴を選んでいた。自分でも気づかない準備が、もうできていたのかもしれない。
「……見学で」
私は言った。
その言葉を言った瞬間、後悔した。
見学で終わる気がして。
終わるなら、何のために来たんだろう。
真壁が頷く。
「よし。見学から。ステップは“揺れるだけ”でいい」
「ステップとか言うな」
「揺れるだけ。はい」
真壁が、軽く膝を曲げて、ほんの少し身体を上下させた。跳んでない。揺れているだけ。
それが馬鹿みたいに簡単で、でも今の私には難しく見えた。
私は、膝を曲げた。
揺れた。
足の裏が床のリズムに“合わせる”のを覚える。
合わせる、は、仕事の癖だ。
でもこれは違う。合わせる相手が、誰かの機嫌じゃない。音だ。自分の呼吸だ。
揺れているうちに、肩が少し落ちた。
落ちた肩の分だけ、息が入った。
「お」
真壁が小さく言う。
「今の、いい」
「何が」
「顔」
私は、自分の顔がどうなっているか分からない。
でも、分からないほうがたぶんいい。
私はいつも、顔を管理しすぎる。
曲がまた変わった。
今度は、跳ねる合図が露骨だった。
みんなが一斉に、同じタイミングで小さく跳ぶ。
床がほんの一瞬、空になる。
重力が“休憩”する。
その瞬間、胸がぎゅっとなった。
羨ましい。
怖い。
やってみたい。
真壁が、私を見た。
「来る?」
私は、喉が鳴る音を聞いた。
自分の身体の中の小さな動物が、檻の前まで来ている。
「……無理」
言いかけて、止めた。
無理は、いつも私の口癖だ。
無理と言えば、失敗しない。
でも無理と言うたびに、私は少しずつ“できる範囲”を狭める。
私は言い直した。
「……一回だけ」
真壁の目が笑った。
「よし。一回だけ」
真壁は、輪の少し外側へ私を連れていった。中心じゃない。逃げ道がある位置。
周りの人は、こちらを見ない。見ないことで歓迎してくれる。
この“見ない優しさ”が、私にはありがたい。
「合図は、俺が出す」
「合図とか、戦場みたい」
「戦場じゃない。遊び場」
真壁が笑って、手を上げた。
曲のサビっぽいところ。
みんなが一斉に膝を曲げる。
私も曲げる。
「せーの」
真壁が小さく言った。
跳んだ。
本当に、跳んだ。
足の裏が床から離れた。
ほんの一瞬、私は空中の人になった。
着地した瞬間、笑いが漏れた。
声じゃない笑い。息の笑い。
自分でも驚くくらい、軽い。
「……跳べた」
「跳べた」
真壁が、親指を立てた。
私は、次の合図でまた跳んでしまった。
二回目。
三回目。
一回だけの約束は、あっさり破れた。
でも、破れたのが嬉しい約束って、あるんだな。
曲が終わり、息が上がった。
私はベンチに戻って水を飲んだ。心臓が早い。苦しいはずなのに、苦しくない。
疲れの種類が違う。
仕事の疲れは“削れる”けど、今の疲れは“増える”。増える疲れは、ちょっと笑える。
「どう?」
真壁が聞く。
「……悔しい」
「何が」
「今まで、こういうの、避けてたのが」
「いいじゃん。悔しいは前に進む燃料」
燃料。
私は、燃えるのが怖かった。
でも、燃えるにも種類がある。
自分を焼く火じゃなくて、自分を動かす火。
私は、汗で前髪が少し額に張り付いているのを感じた。
気持ち悪いはずなのに、気持ち悪くない。
人間っぽい。生活っぽい。生きてるっぽい。
「ねえ」
私は真壁に言った。
「これ、また来てもいい?」
「もちろん。見学でも跳んでも。
あとさ」
「なに」
「今日は、帰り道も跳んでいい。信号待ちで跳ぶのは禁止だけど」
「当たり前だろ」
二人で笑った。
笑いながら、私は思う。
“準備はいい?”って聞かれると、私はいつも「まだ」って答えてきた。
でも、準備が整う日なんて来ない。
整わないまま、合図が鳴って、身体が先に動く日がある。
今日が、そうだった。
ビルを出ると、夜風が気持ちよかった。
私は歩きながら、さっきの“空になる瞬間”を思い出す。
床がなくなる、じゃない。
床があるからこそ、空が分かる。
駅までの道、私は小さく一回だけ跳ねた。
誰も見ていない。
見ていないから、自由だ。
スマホが震えた。
真壁から、ふざけたスタンプと一言。
『次は“自分の合図”で跳べ』
私は画面を見て、頷いた。
自分の合図。
それはたぶん、言葉じゃない。
胸の奥で鳴る、カチッという小さな音。
私はコートのポケットに手を入れ、少しだけ早足になった。
跳べた日って、帰り道まで軽い。
明日も仕事はある。
でも今日の私は知っている。
床が空になる瞬間は、怖いだけじゃない。
ちゃんと、楽しい。




