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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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9/25

踏み出す合図

 夜の街は、たまに「やってみろよ」と言ってくる。

 ネオンの明るさじゃない。人の歩幅でもない。空気の温度が、そう言う。


 金曜の仕事終わり。駅前の雑踏で、私はスマホを握ったまま立ち尽くしていた。

 画面には、短いメッセージ。


『今日、来る? 跳べる日だよ』


 差出人は真壁。同期で、私の“余裕のなさ”を見抜くのが異様に早い男だ。

 跳べる日って何だよ、とツッコミたい。けれど、ツッコミを入れたところで何も変わらない。変わらないのが嫌だから、私はこの画面を見ている。


 仕事は、今日も“ちゃんとしてた”。

 ちゃんとしてる人のまま、私はいつまで生きるんだろう。

 ちゃんとしてるのに、息が浅い。息が浅いのに、笑える。笑えるのに、心は置き去り。


 改札を出たところで、また通知が来た。


『ヒール禁止。動ける靴で来い。あと、見学も可。無理させない』


 優しい。

 優しいから、逃げたい。

 逃げたいから、行きたい。

 矛盾が、体温みたいに当たり前にそこにある。


 私はコンビニに寄って、ミネラルウォーターを一本買った。

 準備運動がわりだ。

 誰に言い訳してるんだ。自分に決まってる。


 駅から二つ先。裏通りのビルの三階。

 エレベーターの扉が開くと、低い音が腹に響いた。ドンドン、と心臓の外側から叩かれるみたいなリズム。

 扉の横の小さな看板には、英語っぽい単語が並んでいる。読めるのに、読んでないふりをした。


 ドアを押す。

 空気が変わった。

 甘い香り。汗の匂い。ライトの熱。笑い声。

 床が、呼吸しているみたいに揺れている。


「おーい! こっち!」


 真壁が手を振った。今日の真壁は、会社の真壁より三割くらい軽い。軽いのに、ちゃんと人間の重さを持っている感じがする。

 隣には、見知らぬ人たち。年齢も服装もバラバラ。共通点は“ここに来てる”ってことだけ。


「来たんだ」


「……来た」


「えらい。じゃなくて、よく来た」


 真壁は、私の肩を軽く叩いて、すぐに手を離した。距離の取り方が上手い。押さない。引っ張らない。ただ、入口の前に立つ。


「ここ、何なの」


「ダンス。って言うと構えるだろ。まあ、音楽で跳ねる場所」


「跳ねる場所……」


「見学でいいって言ったじゃん。飲み物そこ。座るのもそこ。逃げ道もある」


 逃げ道。

 その単語に、私は少し救われた。

 逃げ道があると、人は意外と前へ行ける。崖じゃなくなるから。


 フロアの端に、簡単なベンチが並んでいる。そこで休んでいる人もいる。誰も責めない顔で座っている。

 私は水を一口飲んで、音の波を眺めた。


 中央の輪の中で、みんなが好き勝手に動いている。上手い下手の概念が消えている。

 上手い人は、上手い。

 でも上手いから偉いんじゃない。楽しそうだから、つい見てしまう。


 真壁が私の耳元で言う。


「な。ここは、“ちゃんとしてない人”になっていい場所」


「……私、ちゃんとしてないと不安」


「知ってる。だから連れてきた」


 連れてきた、って言葉は少し大げさだ。私は自分の足で来た。

 でも、こういうとき大げさな言葉は効く。自分の選択が、誰かの願いでもあるみたいで。


 曲が変わった。

 合図みたいに、手を上げる人が増える。

 床が一段軽くなる。

 私の胸が、その軽さを羨ましがる。


 真壁が、両手を広げた。


「はい。準備は?」


「何の」


「跳ぶ準備」


「跳ばないって言ったら?」


「それも可。だけど、今日は“跳べる日”だよ」


 真壁は笑った。

 笑いながら、私を試す目をしていない。

 私が“自分で選ぶ”のを待つ目だ。


 私は、靴のつま先を見た。

 会社で履く靴より柔らかい。

 今日はたまたま、歩きやすい靴を選んでいた。自分でも気づかない準備が、もうできていたのかもしれない。


「……見学で」


 私は言った。

 その言葉を言った瞬間、後悔した。

 見学で終わる気がして。

 終わるなら、何のために来たんだろう。


 真壁が頷く。


「よし。見学から。ステップは“揺れるだけ”でいい」


「ステップとか言うな」


「揺れるだけ。はい」


 真壁が、軽く膝を曲げて、ほんの少し身体を上下させた。跳んでない。揺れているだけ。

 それが馬鹿みたいに簡単で、でも今の私には難しく見えた。


 私は、膝を曲げた。

 揺れた。

 足の裏が床のリズムに“合わせる”のを覚える。

 合わせる、は、仕事の癖だ。

 でもこれは違う。合わせる相手が、誰かの機嫌じゃない。音だ。自分の呼吸だ。


 揺れているうちに、肩が少し落ちた。

 落ちた肩の分だけ、息が入った。


「お」


 真壁が小さく言う。


「今の、いい」


「何が」


「顔」


 私は、自分の顔がどうなっているか分からない。

 でも、分からないほうがたぶんいい。

 私はいつも、顔を管理しすぎる。


 曲がまた変わった。

 今度は、跳ねる合図が露骨だった。

 みんなが一斉に、同じタイミングで小さく跳ぶ。

 床がほんの一瞬、空になる。

 重力が“休憩”する。


 その瞬間、胸がぎゅっとなった。

 羨ましい。

 怖い。

 やってみたい。


 真壁が、私を見た。


「来る?」


 私は、喉が鳴る音を聞いた。

 自分の身体の中の小さな動物が、檻の前まで来ている。


「……無理」


 言いかけて、止めた。

 無理は、いつも私の口癖だ。

 無理と言えば、失敗しない。

 でも無理と言うたびに、私は少しずつ“できる範囲”を狭める。


 私は言い直した。


「……一回だけ」


 真壁の目が笑った。


「よし。一回だけ」


 真壁は、輪の少し外側へ私を連れていった。中心じゃない。逃げ道がある位置。

 周りの人は、こちらを見ない。見ないことで歓迎してくれる。

 この“見ない優しさ”が、私にはありがたい。


「合図は、俺が出す」


「合図とか、戦場みたい」


「戦場じゃない。遊び場」


 真壁が笑って、手を上げた。

 曲のサビっぽいところ。

 みんなが一斉に膝を曲げる。

 私も曲げる。


「せーの」


 真壁が小さく言った。


 跳んだ。

 本当に、跳んだ。

 足の裏が床から離れた。

 ほんの一瞬、私は空中の人になった。


 着地した瞬間、笑いが漏れた。

 声じゃない笑い。息の笑い。

 自分でも驚くくらい、軽い。


「……跳べた」


「跳べた」


 真壁が、親指を立てた。

 私は、次の合図でまた跳んでしまった。

 二回目。

 三回目。

 一回だけの約束は、あっさり破れた。

 でも、破れたのが嬉しい約束って、あるんだな。


 曲が終わり、息が上がった。

 私はベンチに戻って水を飲んだ。心臓が早い。苦しいはずなのに、苦しくない。

 疲れの種類が違う。

 仕事の疲れは“削れる”けど、今の疲れは“増える”。増える疲れは、ちょっと笑える。


「どう?」


 真壁が聞く。


「……悔しい」


「何が」


「今まで、こういうの、避けてたのが」


「いいじゃん。悔しいは前に進む燃料」


 燃料。

 私は、燃えるのが怖かった。

 でも、燃えるにも種類がある。

 自分を焼く火じゃなくて、自分を動かす火。


 私は、汗で前髪が少し額に張り付いているのを感じた。

 気持ち悪いはずなのに、気持ち悪くない。

 人間っぽい。生活っぽい。生きてるっぽい。


「ねえ」


 私は真壁に言った。


「これ、また来てもいい?」


「もちろん。見学でも跳んでも。

 あとさ」


「なに」


「今日は、帰り道も跳んでいい。信号待ちで跳ぶのは禁止だけど」


「当たり前だろ」


 二人で笑った。

 笑いながら、私は思う。


 “準備はいい?”って聞かれると、私はいつも「まだ」って答えてきた。

 でも、準備が整う日なんて来ない。

 整わないまま、合図が鳴って、身体が先に動く日がある。

 今日が、そうだった。


 ビルを出ると、夜風が気持ちよかった。

 私は歩きながら、さっきの“空になる瞬間”を思い出す。

 床がなくなる、じゃない。

 床があるからこそ、空が分かる。


 駅までの道、私は小さく一回だけ跳ねた。

 誰も見ていない。

 見ていないから、自由だ。


 スマホが震えた。

 真壁から、ふざけたスタンプと一言。


『次は“自分の合図”で跳べ』


 私は画面を見て、頷いた。

 自分の合図。

 それはたぶん、言葉じゃない。

 胸の奥で鳴る、カチッという小さな音。


 私はコートのポケットに手を入れ、少しだけ早足になった。

 跳べた日って、帰り道まで軽い。

 明日も仕事はある。

 でも今日の私は知っている。


 床が空になる瞬間は、怖いだけじゃない。

 ちゃんと、楽しい。

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