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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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空っぽの扱い方

 千紗が帰ってきたとき、部屋の温度が少しだけ下がった気がした。エアコンは動いているのに。

 人が持ち帰る空気って、ある。見えないのに、触れる。


「ただいま」


 声はいつも通り。靴を脱ぐテンポもいつも通り。なのに、アンのほうが先に気づいた。首輪の鈴を鳴らさずに、玄関に座って、千紗の顔を見上げた。


 千紗はアンを見て、ほんの少しだけ笑った。笑ったけど、泡が立たない。炭酸じゃない笑い。


「……ねえ」千紗が言った。「今日、空っぽ」


 言い切りが、逆に怖い。

 “空っぽ”は便利な言葉だ。中身の説明を全部省ける。省けるほど、孤独になる。


 俺の受信機が立つ。小さな叫びは、言葉の後ろに隠れる。


「凹凸?」と俺が聞く。


 千紗は頷いた。頷き方が、ゆっくり。風にさらわれないように、首を丁寧に動かす感じ。


「凹凸。刺さった。胸の真ん中、穴」


「手すり、ここ」俺はテーブルの端の鈴に指を置いた。まだ鳴らさない。鳴らす前に置くだけで、落ち着く瞬間がある。


 千紗はソファじゃなく椅子に座った。背もたれを少し立てる。キュ、と床が鳴る。第三の動きが先に空気を整える。

 俺は台所に立って、鍋を火にかけた。質問より先に湯が出る。空っぽの日ほど、湯気が必要だ。


「空っぽって」俺は言う。「何もない、の空っぽ?」


 千紗は少し考えてから首を振った。


「何もない、じゃない。…何かあったはずなのに、全部抜けた感じ」

「抜けた」

「うん。嬉しいも悲しいも怒りも、手触りがない」


 感情が抜けた。

 それは、壊れた証拠じゃない。容量が限界で、いったん排水された可能性。渦の逆バージョン。


 俺の中で「チッ」が鳴った。ブザー。千紗が“空っぽ=ダメ”に滑る気配への警報。


 ブザー→凹凸→一手。


 俺は鈴を鳴らした。チリン。

「さぁ」俺は言う。「空っぽを“悪者”にしない手順、やろう」


「手順…」千紗が苦笑いする。「また編集会議」


「編集会議は、空っぽでも開ける」


 俺は冷蔵庫からりんごを取り出した。食感で割る。空っぽの日は、噛むことが“ここにいる”の証拠になる。


「シャク、いる?」

「いる」千紗は即答した。「今日、口の中が紙」


 りんごを切る。今日は薄め。噛む負担を下げる。空っぽの日に重労働は増やさない。

 千紗がひと切れ噛む。シャク。音が、部屋に線を引く。空白に輪郭ができる。


「空っぽってさ」千紗が言う。「コップみたい」


「コップ?」


「うん。何も入ってない。でも、コップはコップ。…でも私、今日、自分がコップかどうかも怪しい」


 それは、怖い。

 俺は“空っぽ”の下にある“存在の薄さ”の気配を拾う。airy の回路が、ここで顔を出す。


「じゃあ」俺は言った。「コップである証拠を増やそう」


「証拠?」

「うん。空っぽでも“器”は残ってるっていう証拠」


 俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人を呼ぶ。空っぽのときほど、分業の座席が必要だ。


「今日の主役は?」俺が聞くと、千紗は首を傾げた。


「……分かんない」

「分かんない、も答え」俺は言う。「じゃあ、白湯が主役。黙って座ってる係」


 千紗は少しだけ笑った。「白湯、強いね」


「強い。無理に味を付けない」


 俺はメモ用紙を出して、真ん中に一本線を引いた。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。


「左に、今日の表面の言葉」

「……『大丈夫』」千紗が言った。

「右に、中身」

 千紗は少し迷ってから書いた。

「……『分からない』」


 分からない。

 空っぽの正体は、分からない、でいい。分からないのに答えを出そうとすると、嘘になる。嘘は空っぽを増やす。


「今日、何があった?」俺がもう一度聞く。今度は、出来事じゃなく“刺激”を探すために。


 千紗はりんごをもうひと切れ噛んでから言った。


「会議が多かった」

「うん」

「ずっと人の“現実”を聞いてた。風に聞けこの声を、って感じで。みんなの声、受信してた」

「受信機が働きすぎた」

「うん。私の中の受信機、フル稼働して、帰り道で電池が切れた」


 なるほど。空っぽは、故障じゃなく電池切れ。

 電池切れなら、充電の手順がある。


「一手」俺は言う。「空っぽの充電は、“入れる”じゃなく“温める”」


「温める?」

「うん。空っぽに何か詰め込むと、余計に嫌になる。だから、まず器を温める」


 俺は鍋の火を少し強めて、湯気を立てた。ごっちゃ煮スープ。質問より先に湯が出る。

 湯気は、目に見える“温度”。空っぽには、まず温度が要る。


「具体で言うと」俺は言う。「今日は、三つだけでいい」


 俺は紙に書いた。


1. **温かいものを飲む**(白湯でもスープでも)

2. **シャクを一回**(食感で“ここ”に戻る)

3. **一語だけ出す**(『空っぽ』でOK)


「それ、もうやってる」千紗が言った。

「うん。だから今の千紗は、空っぽでも“器”」

「器…」


 千紗はスープの湯気を見て、しばらく黙った。湯気ライト。ステージはなくても、光はある。


「ねえ」千紗が言った。「空っぽって、怖いけど…ちょっと楽でもある」


「うん」俺は頷く。「空っぽは、痛みを止めるときもある。安全装置みたいに」


「安全装置…」

「だから責めない。責めると、装置が壊れて、次は渦になる」


 千紗が小さく笑った。「渦、やだ」


「やだなら、今は空っぽでいい」

「……うん」


 アンがテーブルの下で鳴いて、首輪の鈴がチリンと返事をした。生活の確認音は、空っぽの日でも鳴る。鳴るってことは、ここにいる。


「ねえ」千紗が言った。「今日の合言葉、決めよ」


「凹凸は手すり」

「それとは別に、空っぽ用」千紗は少し考えて、言った。「……“コップ”」


「コップ?」


「うん。私が空っぽになったら、『コップ?』って聞いて」

「で、俺は?」

「『コップだよ』って言って。…それだけでいい」


 俺は笑った。「かわいい仕様」


「かわいさは武器」千紗が少しだけ得意げに言う。

「刃物じゃないやつね」

「そう」


 俺は鈴を鳴らした。チリン。

「さぁ」俺は言う。「今日の締め。コップだよ」


 千紗はスープを一口飲んだ。温度が喉を通っていく。

 それから、少しだけ息を吐いた。


「……コップだ」千紗が言った。

「うん。空っぽでも、コップはコップ」


 空っぽは、ゼロじゃない。

 空っぽは、器が残ってる証拠。

 器が残っているなら、明日の何かは、ちゃんとそこに入る。

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