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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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優しさの顔をした線引き

 千紗が「ただいま」を言ったのに、言ってないみたいに聞こえた。

 声は出た。音もした。けど、届く前に床に落ちた感じ。玄関マットの毛足が、言葉を吸い込んだみたいな。


「おかえり」


 俺はキッチンで、白湯を沸かしていた。今日の頭の中の五人は、まだ席に着いてない。こういう日は、白湯が先に入口で腕組みしてる。


「……うん」


 千紗は靴を揃え、コートを脱いだ。動作は丁寧。丁寧すぎて、丁寧が鎧になってる。


 受信機、起動。


「刺さった?」


 千紗は、否定せずに小さく息を吐いた。

 その吐息が、答えの形。


「刺さった。

 今日、私、“冷たい”って言われた」


 チッが舌先まで来た。

 俺は歯の裏で止める。今日はチッを外に出すと、千紗の鎧に火花が飛ぶ。


 チッ=ブザー。凹凸。


「凹凸」


 千紗も小さく「凹凸」と言った。合言葉が揃うと、部屋の空気に手すりが生える。


「誰に?」


「同僚。というか、後輩。

 『千紗さんって優しいですよね』って、ずっと言ってくれてた子」


「それが、冷たい?」


「うん。今日、頼まれたの。

 『この資料、私の代わりにまとめてもらえませんか』って。

 締切は明日の朝。内容は、私の担当じゃない」


 千紗は言いながら、指先で鞄の持ち手をくるくる触った。

 爪の先じゃなく、布を回す。苛立ちを内側で吸う儀式。


「で、断った?」


「断った。

 『今夜は自分の担当があるから難しい。明日なら一緒に見れる』って」


「いい返しじゃん」


「そう思った。

 でも、その子、笑って『そうなんだ』って言ったあとに、

 『千紗さんって、優しさで助けてくれる人だと思ってた』って」


 言葉が、優しい形のまま刺すときがある。

 「優しいと思ってた」は、裏返すと「期待したのに」だ。


 千紗は続ける。


「それで私、変に焦って、言い訳しそうになって、

 でも言い訳したら、結局やる流れになる気がして……」


「第三の動き、取った?」


「取れなかった。

 固まって、ただ『ごめんね』って言った」


 ごめんね、は便利だ。

 便利すぎて、線が消える。


 俺はテーブルに鈴を置いて、ちりんと鳴らした。

 武器。刃物じゃない。背中を押す合図。


「さぁ。今日のテーマは、これだな」


「なに」


「“優しさなんかじゃない”の言い直し」


 千紗は眉を上げた。


「言い直し?」


「うん。

 今の断り方、優しくないんじゃなくて、正確だ。

 でも相手の受信機には、『優しさ=助ける』って変換表しか入ってなかった」


「変換表……」


「だから、今日のミスは千紗の“冷たさ”じゃなくて、翻訳不足」


 千紗は少しだけ笑いかけて、途中で止めた。

 笑いに寄せすぎない。今日はまだ鎧の上から触ってる段階。


「でも、相手が傷ついたなら、私が悪い気もする」


「黒か黒か、来た」


「え」


「黒A『私が悪い』、黒B『相手が悪い』。

 その間にスリットを作ろう。

 白を増やすんじゃない。隙間を増やす」


 俺は椅子を一脚引いて、テーブルの横に置いた。座るためじゃなく、選択肢のため。


「今日は“優しさ”の椅子を置く」


「優しさの椅子……」


「うん。

 助けるか、断るか、の二択じゃなくて、

 “助け方の形”を選ぶ。第三の動き」


 千紗は鞄を置いて、やっとソファに座った。

 座れた。鎧のボタンが一つ外れた合図。


 俺は冷蔵庫からりんごを出して、テーブルに置く。


「食感で割る?」


「……割る」


 千紗がかじる。


 シャク。


 音が、部屋の空気に細い切れ目を入れる。

 スリット。呼吸が入る。


「じゃあ、整理しよう。

 千紗が言われた『優しさで助けてくれる人』って、何が入ってる?」


 千紗はりんごを持ったまま考えた。


「……何でも引き受ける。

 夜でもやる。

 自分のことは後回しにする。

 でも笑う」


「それ、優しさじゃなくて……“自己削り”だな」


 千紗は苦笑する。苦笑は、理解の入り口。


「ね。私も思った。

 でも、それを言うと私が嫌な人みたいで」


「嫌な人じゃない。線がある人。

 線は人を守る。千紗だけじゃなく、相手も守る」


「相手も?」


「うん。

 何でも引き受ける人がいると、相手は“お願いしていい”を覚える。

 それが癖になると、相手が自分で立つ機会が減る。

 ……それって優しさじゃないだろ」


 千紗の目が少し大きくなる。

 受信できた顔だ。


「じゃあ、私がやったのは…」


「“助けなかった”んじゃなく、“立たせた”」


「立たせた、か」


「うん。

 優しさって、抱っこじゃなくて、手すりを渡すこともある」


 千紗はりんごをもう一口。シャク。

 眉間の線が、さっきより柔らかい線になる。握れる線。


「でもさ、言い方が難しい。

 断ると、相手が『冷たい』って思うのも分かる」


「だから翻訳する。

 今日のテーマ、“優しさなんかじゃない”の正体はこれだ」


 俺は紙に書いた。


『優しさ(誤訳)=何でも引き受ける

 優しさ(正訳)=線を引きつつ、手すりを渡す』


「手すり」


「凹凸みたいにね。刺さったときに掴める場所」


 千紗は紙を見て、頷いた。


「じゃあ、次に同じことがあったらどう言う?」


「練習しよう。鈴、鳴らす」


 ちりん。


「さぁ。台詞の稽古」


 千紗が少し恥ずかしそうに笑う。


「また稽古」


「稽古が一番強い。

 本番で人は練習した言葉しか出ない」


 俺は“後輩役”の声を作る。ちょっとだけ大げさに。


「千紗さん、これ、今日中に……お願いできますか?」


 千紗の舌先にチッが出かけるのが分かった。

 俺はすかさず言う。


「ブザー」


「凹凸」


 千紗が合言葉を言って、ひと呼吸。


「一手」


 千紗は言った。


「今夜は私の担当があるから、代わりにまとめるのは難しい。

 でも、明日の午前なら一緒に見れる。

 それか、ポイントだけ整理して送ってくれたら、赤入れはできるよ」


 ……それ。完璧に“椅子”がある。

 助けるか断るかじゃなく、助け方の形が選べる。


「最高」と俺は言いかけて、言い方を調整した。褒め方も優しさ。


「いい。すごく、線がある」


 千紗が少し笑う。


「でも、相手は“代わりに全部”が欲しいかも」


「そのときは、もう一段翻訳を足す」


 俺は続けた。


「『あなたを助けたい気持ちはある。でも全部を引き受けるのは、あなたのためにならない』

 この一文、強いけど刺さりやすい。

 だから温度を一つ添える」


 千紗が尋ねる。


「温度?」


 俺は頭の中の五人を呼んだ。

 白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸が、いつもの席にちょこんと座る。


 白湯が「呼吸」と言う。

 紅茶が「言葉を柔らかく」と言う。

 ほうじ茶が「焦げない範囲」と言う。

 コーヒーが「結論を短く」と言う。

 炭酸が「でも元気に!」と泡立つ。


「温度は、紅茶でいこう」


 俺は例文を出した。


「『手伝いたいよ。だから、ここまでは一緒にやる。ここから先はあなたがやる』

 “手伝いたい”を最初に置くと、線が冷たくならない」


 千紗は口の中でその言葉を転がす。


「手伝いたいよ。だから……」


「そう。優しさは“断らない”じゃなく、“伝わる断り方”」


 千紗がふっと息を吐く。

 その吐息が、鎧の隙間から出た温度。


「ねえ、私、今日『ごめんね』って言っちゃったの、失敗だった?」


「失敗じゃない。

 でも“ごめんね”は、相手に『お願いが悪かった』ってサインを送ることがある。

 お願いは悪くない。

 だから次は、『ありがとう』に変える」


「ありがとう?」


「うん。

 『頼ってくれてありがとう。今夜は無理だけど、明日なら力になれる』

 これ、めちゃくちゃ強い」


 千紗の目が、少しだけ明るくなる。

 暗く沈ませない、の方向にちゃんと戻ってきた。


「ありがとう、か。

 確かにそれなら、相手も“頼ったこと”を否定されない」


「そう。

 優しさは、相手の存在を消さないこと。

 だから“全部引き受ける”じゃなく、“形を整える”」


 俺はテーブルの端にメモを置いた。真ん中じゃない。生活の真ん中は守る。


『今日の合言葉:

 優しさ=線+手すり

 台詞:頼ってくれてありがとう

 椅子:赤入れ/一緒に見る/ポイントだけ』


 千紗はそれを見て、笑った。今度はちゃんと笑い。

 炭酸が頭の中で小さくガッツポーズしてる気がした。


「ねえ」と千紗が言う。「それでも『冷たい』って言われたら?」


 いい質問。ここが現実の角。


「そのときは、スリットを作る。

 『冷たいって感じたんだね』って受信して、

 でも線は引き直さない。署名は消さない」


「MY LIFE IS MY LIFEみたいだね」


「そう。

 線を引くのは、人生の署名権。

 優しさの名でサインを奪われない」


 千紗は鈴を手に取り、ちりんと鳴らした。


「さぁ」


「さぁ」


 俺もりんごをかじる。シャク。

 千紗も同じテンポでかじる。シャク。

 二つの音が揃うと、部屋の温度が揃う。ひとつになっちゃえ、じゃなく、ふたりのまま。


 千紗がぽつりと言った。


「私、優しいって言われるの、好きだったんだよね」


「うん」


「でも今日、気づいた。

 優しいって言葉が、私を“便利”にすることもある」


「ある。

 だから今日から、言い換えよう」


「何に?」


「“丁寧”」


 千紗が目を丸くする。


「丁寧?」


「うん。

 『私は優しい人』じゃなく、『丁寧に扱う人』。

 相手も、自分も、仕事も。

 丁寧は、線を含む」


 千紗が笑って、頷いた。


「それ、好き」


「じゃあ、今日の締め。

 フラストレーション番号つける?」


 千紗は少し考えて、指を二本立てた。


「No.2。

 刺さったけど、五までは行かない。

 だって、椅子があるから」


「いい。まだまだ、じゃない。ちゃんと進んでる」


 千紗は最後にもう一度、鈴を鳴らした。


 ちりん。


「さぁ。明日、言う」


「うん。

 頼ってくれてありがとう、って言って、線を引く。

 優しさなんかじゃない。丁寧なんだってば」


 千紗が笑った。


「……最後、急に可愛い言い方するのやめて」


「やめない。照れ隠しは、うちのアトラクションの名物」


「支配人、黙って」


「はいはい」


 部屋は明るいまま。

 線は冷たくない。

 優しさの顔をした“自己削り”じゃなくて、丁寧の手順が残る夜。

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