日付に住む約束
僕の財布には、現金より先に入っているものがある。
レシート。
しかも、使えないレシートだ。
印字は薄れていて、店名も商品名もほとんど読めない。
読めないのに、日付だけは、なぜかくっきり残っている。
5/27
その四文字は、僕の中で“ただの日付”じゃない。
カレンダーの上の印じゃなく、胸の中のボタンだ。
押すと、ある匂いと音と温度が戻ってくる。
そして今年も、その日が来た。
朝、スマホの通知が鳴った。
カレンダーのリマインド。
自分で設定したものだ。
自分で設定しておいて、毎年びくっとする。
びくっとするのは、忘れたくないのに怖いからだ。
台所では千紗が白湯を飲んでいた。
いつもの朝。
いつもの景色。
いつも通りなのに、僕の胸の奥だけが、ちょっと違う速度で動いている。
「おはよう」
「おはよう。……今日、顔が固い」
千紗はすぐ気づく。
受信機の性能が高すぎる人だ。
僕は一瞬迷ってから、財布を取り出した。
財布を開けて、例のレシートを指でつまむ。
「今日は……5月27日」
言った。
口に出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
縮むのは痛いからじゃなく、温度が上がるからだ。
温度が上がると、息が浅くなる。
浅くなると、叫びが小さくなる。
小さくなると、届かなくなる。
だから僕は、言葉を続けた。
「僕の、ちょっと大事な日で……」
千紗は黙って頷いた。
黙って頷くのは、彼女が“聞く側の速度”に合わせてくれている証拠だ。
「話す?」
千紗が聞いた。
問い方が柔らかい。
“話せ”じゃない。
“話す?”だ。
僕はその優しさが怖い。
怖いけど、今日は逃げたくない。
「……話す」
僕は椅子に座った。
千紗も向かいに座る。
テーブルの上には湯気が立つ。今日も紅茶。
湯気は結論を薄める。薄めると話せる。
「5月27日ってさ」
僕はレシートを見ながら言った。
「昔、僕が……一回、ちゃんと壊れた日」
千紗の眉が少しだけ寄る。
心配の形。
でも暗くしない。
暗くしないで、言葉を繋ぐ。
「壊れたって言っても、派手じゃない。
電車に乗れなくなった。改札の前で立ち尽くして、動けなくなった。
息ができなくて、汗が出て、目の前が狭くなって」
言いながら、僕の指がレシートの角を撫でる。
紙のざらつき。
あの日の手触りが戻る。
「原因は、いっぱい。
残業とか、我慢とか、言えなかったこととか。
でも引き金は、たぶん“いい子”の限界」
千紗が小さく頷いた。
彼女は、僕が“いい子をやめるのが苦手”なのを知っている。
知っていて、急かさない。
「そのとき、僕を拾ってくれたのが……」
僕は少しだけ笑った。
笑うと、喉の固さがほどける。
「駅前のコンビニの店員さんだった。
知らない人。
僕がフラフラしてたら、椅子に座らせてくれて、白湯くれて、
『今日は、帰ったほうがいい』って言ってくれた」
“今日は、帰ったほうがいい”。
あの一言は、武器だった。
刃物じゃない武器。
僕を切らずに、僕の鎖を切ってくれた武器。
「その時の白湯のレシートが、これ」
僕はレシートを見せた。
千紗は指で触れずに、目だけで見た。
大事なものに対する距離の取り方が上手い。
「僕、その日から、毎年この日を“確認の日”にしてる」
「確認?」
「うん。
僕がまだ無理してないか。
我慢を燃料にしてないか。
“帰る”を自分で持って帰れてるか」
千紗はしばらく黙って、紅茶を一口飲んでから言った。
「今年の確認、結果は?」
結果。
答えるのが怖い。
答えると現実になる。
でも、現実にしないと、また同じ日が来る。
「……半分、できてる。半分、危ない」
千紗が頷いた。
「どっちが危ない?」
「仕事。
最近また、断れない癖が戻りかけてる。
あと、家に帰ってきても心が会社にいる日が増えた」
言った瞬間、胸の奥が少し楽になった。
叫びを音にできた。
音にできたら、手すりが出る。
「じゃあ、今日はどうする?」
千紗が聞く。
“どうする”は、未来の入口だ。
僕は財布を閉じて、言った。
「今日は、早く帰る」
千紗が笑った。
「もう帰ってる」
「……じゃあ、今日は、早く“落ちる”」
「落ちる?」
「仕事の自分を、家で終わらせる。
ちゃんと終業する」
千紗は少し考えて、頷いた。
「いいね。じゃあ、終業式しよう」
「終業式?」
「はい。
スマホを置いて、着替えて、手を洗って、
『おつかれさまでした』って言う」
馬鹿みたいだ。
でも馬鹿みたいな儀式ほど効く。
生活は、儀式で回る。
「……やる」
僕が言うと、千紗は立ち上がって、僕のコートを指差した。
「まずそれ。ハンガー」
「はい」
僕はコートを掛けた。
手を洗った。
着替えた。
ソファに座った。
千紗と向かい合った。
「本日の業務、終了しました」
僕が言うと、千紗が拍手した。
拍手が軽い。
軽いのに、胸の奥に響く。
「おつかれさまでした」
「おつかれさまでした」
言い終えた瞬間、僕の体がふっと緩んだ。
緩むと、あの日の改札の冷たさが少し遠くなる。
遠くなるのは忘れたからじゃない。
ちゃんと距離が取れたからだ。
夜、僕は財布からレシートを出して、机の引き出しに入れた。
毎年、5月27日だけは、財布から出す。
財布に入れて持ち歩くと、重くなるから。
重さは必要だけど、ずっとは要らない。
折り畳んで返す怪盗みたいに、僕も自分の記憶を折り畳んで扱う。
千紗が隣で言った。
「レシート、いつか捨てたくなる日が来る?」
僕は少し考えた。
捨てる。
忘れる。
それは怖い。
でも、捨てることが“勝ち”の日もあるかもしれない。
「捨てないと思う。
でも……財布に入れっぱなしにはしない。
今日はここに置く。
必要な時だけ出す」
「うん。
それ、上手」
上手。
その言葉が、胸を温めた。
温めたけど、沈ませない。
沈ませないのが、僕らのルールだ。
千紗が冷蔵庫を開けて言った。
「じゃあ、確認の日のデザート、あるよ」
取り出されたのは、プリンじゃない。
小さなケーキ。
上に、星みたいな飾りが乗っている。
「星」
僕が言うと、千紗が笑う。
「生活に星は要るでしょ」
僕も笑った。
5月27日は、壊れた日で、拾われた日で、確認の日で、
そして今年は、ちゃんと“終業式”をした日になった。
日付は、痛いだけじゃない。
日付は、戻ってくるためのボタンにもなる。
僕はケーキを一口食べて、言った。
「来年も、確認する」
「来年も、ここにいる」
千紗がそう言って、僕の肩に頭を乗せた。
重さが心地いい。
重さが心地いいなら、僕はまだ大丈夫だ。
叫びは小さくてもいい。
今年はちゃんと、僕に届いている。




