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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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26/29

日付に住む約束

 僕の財布には、現金より先に入っているものがある。


 レシート。

 しかも、使えないレシートだ。

 印字は薄れていて、店名も商品名もほとんど読めない。

 読めないのに、日付だけは、なぜかくっきり残っている。


 5/27


 その四文字は、僕の中で“ただの日付”じゃない。

 カレンダーの上の印じゃなく、胸の中のボタンだ。

 押すと、ある匂いと音と温度が戻ってくる。


 そして今年も、その日が来た。


 朝、スマホの通知が鳴った。

 カレンダーのリマインド。

 自分で設定したものだ。

 自分で設定しておいて、毎年びくっとする。

 びくっとするのは、忘れたくないのに怖いからだ。


 台所では千紗が白湯を飲んでいた。

 いつもの朝。

 いつもの景色。

 いつも通りなのに、僕の胸の奥だけが、ちょっと違う速度で動いている。


「おはよう」


「おはよう。……今日、顔が固い」


 千紗はすぐ気づく。

 受信機の性能が高すぎる人だ。

 僕は一瞬迷ってから、財布を取り出した。

 財布を開けて、例のレシートを指でつまむ。


「今日は……5月27日」


 言った。

 口に出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 縮むのは痛いからじゃなく、温度が上がるからだ。

 温度が上がると、息が浅くなる。

 浅くなると、叫びが小さくなる。

 小さくなると、届かなくなる。


 だから僕は、言葉を続けた。


「僕の、ちょっと大事な日で……」


 千紗は黙って頷いた。

 黙って頷くのは、彼女が“聞く側の速度”に合わせてくれている証拠だ。


「話す?」


 千紗が聞いた。

 問い方が柔らかい。

 “話せ”じゃない。

 “話す?”だ。

 僕はその優しさが怖い。

 怖いけど、今日は逃げたくない。


「……話す」


 僕は椅子に座った。

 千紗も向かいに座る。

 テーブルの上には湯気が立つ。今日も紅茶。

 湯気は結論を薄める。薄めると話せる。


「5月27日ってさ」


 僕はレシートを見ながら言った。


「昔、僕が……一回、ちゃんと壊れた日」


 千紗の眉が少しだけ寄る。

 心配の形。

 でも暗くしない。

 暗くしないで、言葉を繋ぐ。


「壊れたって言っても、派手じゃない。

 電車に乗れなくなった。改札の前で立ち尽くして、動けなくなった。

 息ができなくて、汗が出て、目の前が狭くなって」


 言いながら、僕の指がレシートの角を撫でる。

 紙のざらつき。

 あの日の手触りが戻る。


「原因は、いっぱい。

 残業とか、我慢とか、言えなかったこととか。

 でも引き金は、たぶん“いい子”の限界」


 千紗が小さく頷いた。

 彼女は、僕が“いい子をやめるのが苦手”なのを知っている。

 知っていて、急かさない。


「そのとき、僕を拾ってくれたのが……」


 僕は少しだけ笑った。

 笑うと、喉の固さがほどける。


「駅前のコンビニの店員さんだった。

 知らない人。

 僕がフラフラしてたら、椅子に座らせてくれて、白湯くれて、

 『今日は、帰ったほうがいい』って言ってくれた」


 “今日は、帰ったほうがいい”。

 あの一言は、武器だった。

 刃物じゃない武器。

 僕を切らずに、僕の鎖を切ってくれた武器。


「その時の白湯のレシートが、これ」


 僕はレシートを見せた。

 千紗は指で触れずに、目だけで見た。

 大事なものに対する距離の取り方が上手い。


「僕、その日から、毎年この日を“確認の日”にしてる」


「確認?」


「うん。

 僕がまだ無理してないか。

 我慢を燃料にしてないか。

 “帰る”を自分で持って帰れてるか」


 千紗はしばらく黙って、紅茶を一口飲んでから言った。


「今年の確認、結果は?」


 結果。

 答えるのが怖い。

 答えると現実になる。

 でも、現実にしないと、また同じ日が来る。


「……半分、できてる。半分、危ない」


 千紗が頷いた。


「どっちが危ない?」


「仕事。

 最近また、断れない癖が戻りかけてる。

 あと、家に帰ってきても心が会社にいる日が増えた」


 言った瞬間、胸の奥が少し楽になった。

 叫びを音にできた。

 音にできたら、手すりが出る。


「じゃあ、今日はどうする?」


 千紗が聞く。

 “どうする”は、未来の入口だ。

 僕は財布を閉じて、言った。


「今日は、早く帰る」


 千紗が笑った。


「もう帰ってる」


「……じゃあ、今日は、早く“落ちる”」


「落ちる?」


「仕事の自分を、家で終わらせる。

 ちゃんと終業する」


 千紗は少し考えて、頷いた。


「いいね。じゃあ、終業式しよう」


「終業式?」


「はい。

 スマホを置いて、着替えて、手を洗って、

 『おつかれさまでした』って言う」


 馬鹿みたいだ。

 でも馬鹿みたいな儀式ほど効く。

 生活は、儀式で回る。


「……やる」


 僕が言うと、千紗は立ち上がって、僕のコートを指差した。


「まずそれ。ハンガー」


「はい」


 僕はコートを掛けた。

 手を洗った。

 着替えた。

 ソファに座った。

 千紗と向かい合った。


「本日の業務、終了しました」


 僕が言うと、千紗が拍手した。

 拍手が軽い。

 軽いのに、胸の奥に響く。


「おつかれさまでした」


「おつかれさまでした」


 言い終えた瞬間、僕の体がふっと緩んだ。

 緩むと、あの日の改札の冷たさが少し遠くなる。

 遠くなるのは忘れたからじゃない。

 ちゃんと距離が取れたからだ。


 夜、僕は財布からレシートを出して、机の引き出しに入れた。

 毎年、5月27日だけは、財布から出す。

 財布に入れて持ち歩くと、重くなるから。

 重さは必要だけど、ずっとは要らない。

 折り畳んで返す怪盗みたいに、僕も自分の記憶を折り畳んで扱う。


 千紗が隣で言った。


「レシート、いつか捨てたくなる日が来る?」


 僕は少し考えた。

 捨てる。

 忘れる。

 それは怖い。

 でも、捨てることが“勝ち”の日もあるかもしれない。


「捨てないと思う。

 でも……財布に入れっぱなしにはしない。

 今日はここに置く。

 必要な時だけ出す」


「うん。

 それ、上手」


 上手。

 その言葉が、胸を温めた。

 温めたけど、沈ませない。

 沈ませないのが、僕らのルールだ。


 千紗が冷蔵庫を開けて言った。


「じゃあ、確認の日のデザート、あるよ」


 取り出されたのは、プリンじゃない。

 小さなケーキ。

 上に、星みたいな飾りが乗っている。


「星」


 僕が言うと、千紗が笑う。


「生活に星は要るでしょ」


 僕も笑った。

 5月27日は、壊れた日で、拾われた日で、確認の日で、

 そして今年は、ちゃんと“終業式”をした日になった。


 日付は、痛いだけじゃない。

 日付は、戻ってくるためのボタンにもなる。

 僕はケーキを一口食べて、言った。


「来年も、確認する」


「来年も、ここにいる」


 千紗がそう言って、僕の肩に頭を乗せた。

 重さが心地いい。

 重さが心地いいなら、僕はまだ大丈夫だ。

 叫びは小さくてもいい。

 今年はちゃんと、僕に届いている。

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