好きの暴走を飼いならす
彼女には、モンスターが住んでいる。
住んでいる、というより、元気よく居候している。冷蔵庫を開ける音に反応して、収納の奥から跳び出してくるタイプのやつだ。
そして厄介なことに、そのモンスターは僕にだけ見える。たぶん。
「見て! 今日の私、めっちゃやる気! わかる? 空気が違う!」
玄関で靴を脱ぎながら叫ぶ千紗は、すでに“違う空気”をまとっていた。髪をまとめるゴムがいつもよりきゅっと強い。目がキラキラしている。手には、買い物袋。袋の中からは、謎の布と、星柄のシールと、プリンの容器が顔を出していた。
僕の中の受信機が鳴る。
これは、来る。
今夜は来る。
「うん、違う。……何か企んでる?」
「企みって言わないで! 計画! 夢! ロマン!」
言い切った瞬間、彼女の背中で、見えない尻尾がぶんっと振れた気がした。僕だけに見えるモンスターの尻尾だ。
このモンスターは“好き”が増えると体積が増える。勝手に。黙って。無許可で。
モンスターの名は、たぶん「わくわく」。
ただし制御装置がない。
千紗はキッチンへ走り、袋の中身をテーブルに並べ始めた。
「これね、壁に貼るやつ! 星! ここ、寂しいでしょ? 寂しいのはよくない! 生活に星が足りない!」
「生活に星が足りない……って何」
「大事なことだよ?」
彼女は真顔で言う。
真顔の勢いは、僕の防御をすり抜ける。
僕は仕事帰りのコートをハンガーに掛けながら、心の中でメモした。
※本日の注意
・星
・壁
・プリン
・モンスターの気配強
千紗のモンスターが暴れる日は、わりと幸福だ。幸福だけど、油断すると部屋が改造される。改造された後に「どう?」と聞かれて、僕はうっかり正直に「びっくりする」と言ってしまい、その結果、千紗がしゅんとする。
しゅんとすると、モンスターは別の個体に変異する。
名前は「しょんぼり」。
こっちは小さくて、胸に刺さる。
だから僕は、学んだ。
モンスターには取扱いがいる。
取り扱いのポイントは、否定しない。けれど、野放しにもしない。
つまり、凹凸を手すりにする。
「千紗、質問」
「なに!」
返事が速い。尻尾がもう一回ぶんって振れた。
「星を貼るのは賛成。だけど、どこに、どれくらい貼る計画?」
「えっとね、ここからここまで、こう、星の川!」
「川」
「うん。天の川。生活の天の川。夜、帰ってきたら、うわ〜ってなるやつ!」
“うわ〜”が喜びの“うわ〜”か、困惑の“うわ〜”かで、人生は分岐する。
僕はテーブルの上のシールを見た。
星が多い。想像以上に多い。
この量は、天の川というより、銀河系だ。
僕の中で悪魔が囁く。
「止めろ。これは侵略だ」
天使も囁く。
「喜んであげて。彼女の好きはきれいだよ」
どっちも正しい。正しいが二つあると、人は固まる。
固まらないように、僕は手すりを出す。
「凹凸」
合言葉を言うと、千紗の手がぴたりと止まった。
彼女はそれを、ちゃんと合図として受け取る。ここが、彼女のすごいところだ。モンスターがいても、飼い主としての責任感がある。
「刺さった?」
「刺さったというより……圧がすごい」
「圧は愛だよ?」
「圧は圧だよ」
千紗が一瞬むっとして、それから笑った。笑いながら、深呼吸した。
モンスターの尻尾の動きが、少しゆっくりになる。
「じゃあ、調整する。どのくらいなら“うわ〜”がいい方になる?」
彼女が聞く。
これだ。これが大事だ。
モンスターがいる人は、たまに自分の勢いを自分で怖がる。怖がってるときに「やめて」と言うと折れる。だから「調整しよう」と言う。
「……天の川、細めで。壁の真ん中に一本。星も大きいの少し、小さいのは控えめ」
「控えめって、星にも控えめあるの?」
「ある。あるってことにする」
千紗はシールを指で仕分けし始めた。
大きい星、五つ。
小さい星、……数えないことにした。
「よし。じゃあ、“生活の天の川・スリム版”!」
宣言した瞬間、モンスターは消えないけど、ちょっと小さくなった気がする。
僕の胸も、ちょっと軽い。
作業が始まった。
千紗は脚立代わりの椅子に乗り、僕は下で台紙を渡す係。
星を貼るという行為は、驚くほど静かな共同作業だった。
シールを剥がす音。壁紙に乗るときの小さな擦れ。千紗の「ここ、どう?」という声。
たまに僕が「もう少し右」と言う。
そのたびに彼女は「了解!」と返す。
了解、という返事が、やけに頼もしい。
モンスターの手綱は、こういうところで握れるんだと思った。
十分ほどで、壁の真ん中に細い星の川ができた。
夜の部屋の中に、控えめな銀河が一本。
たぶん、いい。
“うわ〜”が、いい方だ。
「どう?」
千紗が椅子から降りて、僕の横に立つ。
目がキラキラしている。
でもさっきより、落ち着いてる。
わくわくモンスターが、きちんとお座りしている顔だ。
「うわ〜……いい」
「いい方のうわ〜?」
「いい方のうわ〜」
千紗が勝ち誇ったようにガッツポーズをした。
その拍子に、袋の奥からまた別の何かが出てきた。
小さな布。
星柄。
そして、リボン。
嫌な予感がする。
僕の受信機が、二回鳴った。
「次、これ。クッションカバー。変える。季節は星」
「季節は星って何」
「春は桜、夏は海、秋は月、冬は星。合理的」
合理的って言葉、こういうときに使うんだ。
千紗のモンスターは、理屈で暴れる。厄介だ。
でも、その理屈が可愛いときもある。僕はそれを認めてしまっている。
認めると、負ける。
負けると、部屋が星になる。
いや、星になっても別にいいのかもしれない。
問題は星の数だ。
「千紗」
僕は、もう一回手すりを出す前に、別の方法を試した。
モンスターに餌を与える方法だ。
餌は、受け取れるサイズの肯定。
「星、好きなんだね」
千紗が、きょとんとした。
次に、ふっと笑った。
「うん。好き。
小さい頃、夜に怖くなると、窓の外に星があると安心した。
だから、部屋にも星があると、安心する」
その言い方は、モンスターじゃなくて、飼い主の声だった。
僕は少しだけ胸が詰まって、でも暗くしない。暗くしないのが、この家のルールだ。
「じゃあ、クッションカバーは、今夜は一個だけ」
僕は言った。
“好き”を受け取った上で、制限を提案する。
「一個?」
「一個。増やすなら、次の週末。星は増えると流星群になる」
「流星群は最高だよ?」
「最高は、計画して浴びたい」
千紗が笑いながら、渋々頷いた。
「……わかった。じゃあ一個。
あ、プリン食べる? 星作業のご褒美」
プリン。
モンスターの餌が、また別の形で来た。
僕は頷く。
「食べる」
テーブルに並んだプリンのふたを開けると、千紗がスプーンを渡してくる。
プリンは、いつもの味。
いつもの味は、暴れるモンスターを落ち着かせる。
僕はスプーンを口に運びながら、壁の星の川を見た。
「……これ、夜に帰ってきたら、確かにうわ〜ってなる」
「でしょ。生活に星は要る」
「要るかも」
千紗が満足そうに頷いた。
そして、不意に真面目な顔になった。
「ねえ」
「うん?」
「私のモンスター、うるさい?」
きた。
わくわくの裏に隠れていた、小さいしょんぼりが顔を出す瞬間。
こういう時に「うるさい」と言うと、しょんぼりは巨大化して部屋を飲み込む。
僕は受信して、ちゃんと返す。
「うるさい日もある。
でも、うるさいってことは、生きてるってことだし……」
言葉を探して、僕は続けた。
「僕に届く形で出してくれるなら、助かる。
届いたら、僕が“いい方のうわ〜”に調整する」
千紗が、目を丸くした。
それから、笑った。
この笑いは、モンスターじゃなくて千紗の笑いだ。
「なにそれ。
じゃあ、あなたは私の“怪物担当”だね」
「担当って言うな」
「だって仕事みたいに頼もしいから」
僕は苦笑して、もう一口プリンを食べた。
甘さが、ちょうどいい。
星の川も、ちょうどいい。
ちょうどいいって、たぶん努力の味だ。
夜、歯を磨き終えた僕は、リビングの灯りを少し落とした。
壁の星が、やわらかく浮かぶ。
天の川・スリム版。
確かに“うわ〜”だ。いい方の。
千紗がソファに座って、クッションカバーを一個だけ星柄に替える。
モンスターの尻尾が、嬉しそうにふわふわ揺れる。
でも、暴れてはいない。
お座りして、僕の隣にいる。
「ねえ」
千紗が言う。
「明日も貼っていい?」
「だめ」
「即答!」
「即答できるところは即答する。凹凸の手すり」
「じゃあ、週末!」
「週末」
千紗がガッツポーズをして、僕の肩に頭を乗せた。
重さが、心地いい。
重さが心地いい時、モンスターはただの“好き”になる。
僕は壁の星を眺めながら思った。
彼女の中の怪物は、たぶん可愛い。
可愛いのに、時々強すぎる。
だから僕は、手すりを作る。
星の数を調整する。
プリンで餌を与える。
そして、届いた叫びは受信する。
それが、僕の暮らしのヒーローごっこだ。
マントはないけど、星の川はある。
それだけで、明日も案外いける気がした。




