言葉になる前を拾う
叫びは、たいてい小さい。
大声で「助けて」と言える人は、もう助かり始めている。
本当に危ないのは、笑いながら「平気」と言う人だ。
そういう人の「平気」は、叫びの梱包材で、なかみはだいたい折れかけている。
僕は、その梱包材の音を聞き分けられるようになりたくて、今夜も屋上にいた。
市役所の隅の小さな部署。防災担当。
格好よく言えば「街を守る仕事」。
実際は「貼り紙を作る仕事」と「電話の取次ぎ」と「年に数回、訓練で走る仕事」だ。
僕は“走る側”がわりと好きだった。
走ると、考え事が一旦止まる。
止まると、呼吸が戻る。
呼吸が戻ると、余計なことを言わずに済む。
屋上は風が冷たく、空は曇っている。
街の灯りが雲に反射して、空が薄く明るい。
僕は折りたたみ椅子に座り、片耳イヤホンを押さえた。
今夜は、地域の無線訓練がある。
形式は簡単。「こちら○○、受信良好」みたいなやつ。
みんな慣れていて、声も元気で、たまに笑いが混ざる。
そういう夜は平和だ。平和の確認は、地味に大切だ。
「こちら桜ヶ丘、受信良好」
「こちら中央、風が強いです」
「こちら北町、マイク近い、近いって」
会話は軽い。
軽い会話の中に、ときどき“軽くない沈黙”が混ざる。
僕はそれを拾う係だ。拾って、必要なら繋ぐ係。
イヤホンの奥で、チッと短いノイズが鳴った。
そのノイズが、普通のノイズに聞こえなかった。
胸の奥の受信機が、微かに振れる。
「……こちら、第三ブロック」
声。
女の人。
でも、名乗りがない。普段なら名乗りは真っ先に出る。
訓練は段取りでできている。段取りが崩れると、そこに“現実”が混ざる。
「第三ブロック、こちら市役所。どうぞ、名乗ってください」
僕はできるだけ穏やかに、でも明確に言った。
訓練では、声の温度が大事だ。温度が高すぎると焦りが伝染する。低すぎると安心が届かない。
「……すみません、えっと、名乗るほどじゃ……」
名乗るほどじゃない。
それは、遠慮の形をした叫びだ。
名乗るほどじゃないことなんて、ない。誰だって名乗っていい。助けが必要なら、なおさら。
僕は椅子から立ち上がってしまった。
立ち上がると、足が先に動きたがる。
でも走る前に、聞く。受信が先だ。
「名乗るほどじゃない、でもいいです。今、困ってること、ありますか」
少し間が空いた。
その間が、長い。
長い間は、言葉の前の深呼吸だ。言うか言わないかの境目。
「……あの、訓練ですよね」
「はい、訓練です」
「訓練、なんですけど……」
“なんですけど”が、引っかかった。
訓練の“なんですけど”は、訓練じゃない。
「……うちの母が、さっきから、返事しなくて」
言葉がやっと形になった。
叫びが、声になった。
声になった時点で、半分助かっている。
あとは繋ぐだけだ。繋げるように、段取りをつくる。
「場所は第三ブロック内ですか」
「はい。家の中です。
声かけても、返事がなくて……寝てるのか、分からなくて」
夜。高齢の母。返事なし。
僕の頭の中で手順が走る。
ここで「救急車を」と言うのは簡単だ。
でも、彼女の声には“呼ぶのが怖い”が混ざっている。大ごとにしたくない。迷惑をかけたくない。そういう遠慮が、命取りになる。
だから僕はまず、声の背中を押す。
「今の状況、訓練ではなく実際の相談として扱います。大丈夫。迷惑じゃないです。
今、扉は開きますか。鍵は?」
「開きます。鍵は……開いてます」
「ご近所さんに声をかけられますか。家の外に誰か、いますか」
「……隣の人、いるかも」
声が少し震えた。
震えるのは、もう限界が近い証拠だ。
僕は言う。短く。強く。優しく。
「今、隣の方を呼んでください。スピーカーのままでいいです」
「……え、はい」
ガサガサと音がする。扉の音。足音。
無線越しに生活の音が入ってくる。
生活の音が入ると、現実が立ち上がる。
僕は背筋を伸ばした。
「こちら市役所、第三ブロック。近隣協力が入ります。救急要請に切り替える可能性があります。
当番の方、第三ブロック付近、待機できますか」
別の声が入る。
「こちら中央、向かいます」
「こちら桜ヶ丘、消防団連絡します」
訓練のはずのチャンネルが、ゆっくりと“現実対応”に変わっていく。
でも慌てない。
慌てると、彼女の声が潰れる。
「……すみません、こんな、訓練で」
彼女が言った。
謝るのが癖になっている声だ。
「謝らなくていいです。むしろ、今言ってくれて助かってます」
僕はそう返した。
この一言で、叫びは少しだけ軽くなる。軽くなると、手が動く。
隣人らしき男性の声が遠くで聞こえた。
「どうしたの」
「お母さんが、返事しなくて……」
「ちょっと見てみよう」
僕は呼吸を整えた。
ここから先は、確認と手順。
僕の仕事は“耳”を保つこと。
「もしお母さまが呼吸していない、反応がない場合は救急要請をします。
反応の確認はできますか。肩を軽く叩いて、名前を呼んでみてください」
やがて彼女が言う。
「……息、してます。
でも、反応が弱くて、目が、うっすら……」
僕の胸の奥がひやっとした。
でも声は冷やさない。
「救急要請します。今から119をつなぎます。
あなたは、今そこにいて、呼びかけ続けてください。大丈夫。あなたは一人じゃない」
その瞬間、彼女の声が少しだけ崩れた。
「……ありがとうございます」
ありがとうございます。
叫びが届いたときに出る言葉だ。
届いたなら、もう戻れる。
数分後、現場は救急隊に引き継がれた。
僕は屋上で、冷えた手をポケットに突っ込みながら、曇り空を見上げた。
雲は厚い。
でも雲の向こうに、街の灯りが滲んでいる。
訓練は中断された。
でも誰も文句を言わない。
訓練の目的は、こういうときに動けることだから。
内線が鳴って、下のフロアから「お疲れ、よく拾ったね」と言われた。
僕は「たまたまです」と言いかけて、やめた。
たまたまじゃない。
拾う気で聞いていた。拾えるようにしていた。
だから拾えた。
翌日、午後。
市役所の窓口に、その女性が来た。
目の下に薄いクマ。
でも背筋は少しだけ伸びている。
助かった人の背筋だ。
「昨日、無線で……」
彼女が言った。
僕は名札を見せた。
「担当の者です。お母さま、大丈夫でしたか」
「はい。軽い脱水で、点滴して、今日はもう家で……。
昨日、私、ほんとに……“こんなことで”って、迷ってて」
“こんなことで”。
それも叫びの梱包材だ。
「迷うの、分かります。
でも、迷ってる時間が一番怖いんです。
だから、迷ったら、叫びを小さく出していい」
彼女は、少し泣きそうになって、笑った。
笑いながら泣きそうになるのは、戻ってきた証拠だ。
「私、声に出すのが下手で。
『助けて』って言うの、なんか……負けみたいで」
「負けじゃないです。
受信できる形にするだけです」
僕が言うと、彼女は頷いた。
「……じゃあ、次からは、ちゃんと名乗ります」
「はい。名乗ってください。
名前は、助けを呼ぶときの最初の手すりです」
彼女が帰ったあと、僕は机の引き出しから小さな付箋を出した。
最近貼っている、四枚の付箋とは別の、真っ白なやつ。
そこに書いた。
「叫びは小さくてもいい。拾う側がいる」
書いて、ふっと笑った。
僕はヒーローじゃない。
でも、受信機にはなれる。
誰かの声にならない信号を、届く前提で聞ける。
夕方、帰宅。
鍵の音。
カチッ。
千紗が「おかえり」と言う。
僕は靴を揃えながら、言った。
「今日、叫びを拾った」
「大丈夫だった?」
「うん。届いた」
千紗が頷いて、カップを二つ出す。
「一旦、飲む?」
僕は笑った。
「うん。一旦、飲む」
湯気が立つ。
叫びは、音じゃない。
でも確かに、届く。
それを知っている夜は、曇り空でも少し明るい。




