届く前提で聞く
叫びは、たいてい音じゃない。
机の端を指で叩くリズムだったり、返信の速度が半拍遅れることだったり、冷蔵庫の前で立ち尽くす背中だったり。
声じゃないものほど、聞き逃しやすい。
でも聞き逃すと、あとで取り返しがつかなくなる。
僕はそれを、何度も後悔したことがある。
だから最近、僕は“受信機”を持ち歩くようになった。
もちろん機械じゃない。
胸の中の、ちょっと敏感で、ちょっと怖がりで、でもまだやめてない部分。
そこを受信機と呼ぶことにした。
呼び名をつけると、扱い方が分かる気がする。
夜、帰宅。
鍵を回す。
カチッ。
その音はいつも、僕の体を家に入れて、心を少し遅れて入れる。
心は今日も遅れている。
でも今日は、ちゃんと呼び戻すつもりだ。
「ただいま」
「おかえり」
千紗はキッチンにいた。エプロン。髪をまとめてる。スープの匂い。
いつもの景色。
景色がいつも通りだと、人は油断する。
油断すると、叫びは見えなくなる。
僕は靴を揃えながら、千紗の動きを見た。
鍋のふたを開ける手つきが少し速い。
料理中の千紗は普段、もう少しゆっくりだ。
速いのは、焦っているとき。もしくは、怒りを隠しているとき。
僕の受信機が、微かに振れた。
リビングに入ると、テーブルにメモが置いてあった。
メモには短く。
『牛乳、買ってない』
責めてるようで責めてない文。
でも“買ってない”という事実を、今ここに置く文。
それは、日常の形をした小さな叫びだ。
僕はスマホを握りしめた。
言い訳が、すぐに指先まで上がってくる。
忙しかった。忘れた。疲れてた。
全部本当。
でも本当を並べると、誰かの叫びはかき消える。
僕は一旦、息を吐いた。
湯気のない場所でも、結論を薄める呼吸はできる。
「……ごめん。買うって言ってたのに」
言った。
言い切った。
千紗は鍋を見たまま、小さく「うん」と言った。
その「うん」の温度が、まだ低い。
低いのは、牛乳のせいだけじゃない。
僕の受信機が、もう一度振れる。
牛乳は表面。
水面下の何かが、指で水を叩いている。
「今から買いに行く?」
僕が聞くと、千紗は少し間を置いてから言った。
「……今日は、いい」
“今日はいい”は、優しさの形をした壁だ。
明日も同じことが起きたら、壁が厚くなる。
壁が厚くなる前に、僕は受信機を信じる。
「今日は、いいって言う時ってさ」
僕は言いかけて、言い方を変えた。詰めるのは違う。
受信は、取り調べじゃない。
「千紗、今日、何かあった?」
千紗の肩が、ほんの少し上がった。
それは、叫びの前兆だ。
叫ぶ前に、喉が固くなる。肩が上がる。
声になる前のサイン。
「……別に」
別に。
その二文字は、叫びの仮面だ。
仮面を剥がそうとすると、傷が広がる。
だから僕は、仮面の周りに手すりをつける。
「別に、でもいい。
言葉にするのが難しいなら、合図だけでも」
千紗がちらっと僕を見る。
目は怒っていない。
目は、疲れている。
疲れは、叫びの燃料だ。
「……凹凸」
千紗が小さく言った。
合言葉。
私たちの手すり。
僕はすぐに頷いた。速度を落とす。
今日の僕は、聞く側のヒーローだ。
飛べないが、速度は調整できる。
「刺さってるの、僕?」
千紗は少しだけ笑いそうになって、やめた。
「刺さってるのは……私のほう」
え、と思った。
僕が刺さったと思ってた。
でも千紗が刺さっている。
そういう日がある。相手が刺さっていて、こちらが気づけない日。
「どう刺さった?」
僕が聞く。
千紗は鍋の火を弱めて、タオルで手を拭いた。
ゆっくり。
ゆっくりは、言葉を作る速度だ。
「今日、職場でさ」
千紗が言った。
「新人が泣いちゃって。
私、なだめて、落ち着かせて、上司に説明して……」
千紗の声は穏やかだ。
穏やかなほど、内側の疲れが分かる。
穏やかは、防波堤だ。
「で、帰りにスーパー寄って、夕飯作って。
あなたが牛乳買ってくれるって言ってたから、デザートも考えてた」
牛乳は、ここに繋がっていた。
牛乳は、デザートの材料で、デザートは、千紗の“余裕”だった。
「でも、なくて。
なくて……別にそれだけじゃないんだけど」
千紗が言葉を探す。
僕は口を挟まない。
受信は、沈黙を含む。
「今日さ、帰り道で思ったの」
千紗が続ける。
「私、誰かの泣き声は拾えるのに、私の泣き声は拾ってもらえないんだなって」
その一文が、胸に刺さった。
刺さったけど、僕はそれを“痛い”で終わらせたくない。
痛いのは、受信できた証拠だ。
証拠なら、次の行動に変える。
「……拾いたい」
僕は言った。
言った瞬間、自分の声が頼りなく聞こえた。
頼りないのに、言うしかない。
「でも、拾えてなかった。ごめん」
千紗が少しだけ眉を寄せる。
その眉は怒りじゃない。
“やっと届いたの?”の眉だ。
「千紗の泣き声、どんな形してる?」
僕が聞くと、千紗は驚いた顔をした。
泣き声の形。
変な質問。
でも、変な質問は、ときどき救いになる。説明がいらなくなるから。
「……私はね」
千紗が言う。
「声にしない。
だから、手が速くなる。
鍋のふたを乱暴に開けたり、歯磨き粉を出しすぎたり、返信を短くしたり」
全部、僕が見落としてきたサインだ。
見落としたくせに、千紗の生活は続いていた。
続いていたから、僕は甘えた。
“続いている”は、問題がない証拠じゃないのに。
「今日、私は叫んだ?」
千紗が聞いた。
怖い質問。
でも、受信したい。
「叫んでた」
僕は言った。
言い切った。
「牛乳のメモ。鍋のふた。『今日はいい』の言い方。
全部、叫びだった」
千紗の目が少し潤んだ。
泣かない。
でも、潤む。
潤むのは、受信できた証拠だ。
「……届いた?」
千紗が小さく言う。
僕は頷いた。
「届いた。
今まで、届いてなかった分も、届かせたい」
千紗が息を吐く。
その息は、壁が少し薄くなる音。
「じゃあ、どうする?」
千紗が聞く。
悪魔が言う。具体策まで。
天使が言う。優しく。
僕は両方を混ぜて、言った。
「まず、牛乳買いに行く。
それから、帰ってきたら、千紗の“泣き声チェック”をする。
声じゃなくてもいい。手の速度とか、鍋のふたとか、返信の短さとか。
僕が見て、言葉にする」
「言葉にするの、怖くない?」
「怖い。
でも、怖いままやる。
叫びを音にするのが、僕の役目なら」
千紗が笑った。
やっと、楽が少し戻った笑い。
笑いが戻ると、部屋が明るくなる。
「じゃあ、行ってきて」
千紗が言った。
“今日はいい”じゃない。
“行ってきて”だ。
それだけで、僕の足は軽くなった。
夜の風は冷たい。
スーパーの明かりが眩しい。
牛乳を手に取る。
それだけのことが、今日はやけに意味を持つ。
帰宅。
鍵。
カチッ。
僕は牛乳を掲げて言った。
「ただいま。受信機、修理してきた」
「なにそれ」
千紗が笑う。
笑いながら、牛乳を冷蔵庫に入れる。
僕は靴を揃え、手を洗い、リビングに座った。
「で」
千紗が言う。
「泣き声チェック?」
僕は頷いた。
まず、温かいものを出す。湯気は結論を薄める。
「一旦、紅茶飲む」
千紗が「またそれ」と笑った。
笑いながら、でもちゃんとカップを用意する。
湯気が立つ。
僕は千紗の手を見る。
さっきよりゆっくりだ。
鍋のふたの音も静かだ。
それだけで、今日の叫びが少し収まったのが分かる。
「今日の叫び、受信した。
明日は、もっと早く受信する。
遅れたら“凹凸”」
千紗は頷いた。
「うん。
私も、叫びを出す練習する」
「出して。音じゃなくてもいい。
僕が拾う」
それが、僕のヒーローごっこだ。
駆け出しのヒーローは、空を飛ばない。
でも、届く前提で聞く。
届いたら、ちゃんと返す。
叫びは、音じゃない。
でも確かに、僕に届く。
今日、それが分かった。




