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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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20/26

気分の四象限で暮らす

 朝、鏡の前で顔を洗っていると、洗面台の隅に貼った四枚の付箋が目に入る。


 喜。

 怒。

 哀。

 楽。


 四つの漢字は、僕の生活のカーナビだ。

 目的地はいつも同じ。“今日を終える”。

 ルートは毎日違う。渋滞する感情も違う。

 だから僕は、付箋で交通整理をしている。


 最初に貼ったのは、千紗の提案だった。


「あなた、感情が“ごっちゃ煮”になる日が多いから、分けたらいいよ」


 分ける。

 それは僕の得意なやり方だ。

 仕事は分けると進む。

 洗濯も分けると乾く。

 だったら感情も分けたらいい。

 そう思って貼った。


 だけど、分けたら分けたで問題が起きる。


 僕は、どれか一つを選ぶと、他の三つが置いてけぼりになる気がしてしまうのだ。

 喜ぶと、怒りが悪者になる。

 怒ると、哀しみが後ろで縮む。

 哀しむと、楽しさが罪みたいになる。

 楽しいと、全部が軽くなる。軽くなると、またあとで重くなる。


 つまり、僕の感情は四象限じゃなくて、四つ巴の綱引きだ。


 今朝の僕は、どの象限だろう。


 鏡の顔は、眠い。

 眠いは感情じゃない。体調だ。

 体調が悪いと、感情はすぐ混ざる。

 だから僕は、歯ブラシを口に突っ込みながら、自分に問う。


 「今日はどれでいく?」


 右上の“喜”が、ぴょこっと跳ねる。

 昨日、上司との交渉がうまくいった。残業が減る見込み。

 嬉しい。

 だけど、その嬉しさの端っこに“怒”が潜っている。

 なんで今まで言えなかったんだ。なんで我慢してたんだ。

 怒りは、遅れてやってくる請求書みたいだ。


 左下の“哀”が、そっと手を挙げる。

 昨日、千紗に優しくされて泣きそうになった。

 泣きそうになるのは弱いからじゃない。

 受け取った優しさの分だけ、今までの自分が痛むからだ。


 右下の“楽”は、たぶん昨日食べたプリンの味で笑っている。

 楽しいは、いつだって軽い。

 軽いのに大事。

 軽いまま大事にできたら、最強だ。


 結論。

 今日は四つ全部いる。


「……全員出勤でお願いします」


 僕は鏡に向かってそう言って、笑った。

 笑った瞬間、楽がちょっと前に出た。

 悪くない。出勤の入り口は“楽”が一番スムーズだ。


 通勤電車。

 人の波。

 スマホの通知。

 未読。

 ここで“怒”が暴れ始める。

 なんでこんなに急かされる。なんで僕の時間はいつも盗まれる。

 そして同時に“哀”が顔を出す。

 怒れるほど僕はまだ元気なんだ、という変な安心。

 安心すると、また泣きそうになる。


 僕は深呼吸して、付箋を思い出した。

 交通整理。

 混ざってもいい。でも衝突させない。


 会社に着くと、早速トラブルが起きた。

 取引先から「仕様が違う」と電話。

 担当は僕。

 僕じゃないのに僕。そういうのが会社だ。


 “怒”が吠える。

 ふざけるな。誰が決めた仕様だ。なんで僕が謝る。

 でも“喜”が囁く。

 落ち着いて。ここでうまくやれば、ちゃんと信頼が積み上がる。

 “哀”は言う。

 謝るの、しんどいよね。

 “楽”は、いまは黙っている。楽は場を読む。偉い。


 僕は電話口で、声の温度を調整した。

 これが僕のヒーローごっこだ。

 空は飛べないが、声のトーンは飛ばせる。


「申し訳ありません。確認いたします。

 こちらの認識と、そちらのご期待に差があったようです。すぐに整理して折り返します」


 言えた。

 言えた瞬間、“喜”が胸の中で小さく拍手する。

 “怒”は不満そうだが、引き下がる。

 “哀”が「えらい」と言う。

 “楽”が「あとでプリンね」と言う。

 うるさい。でも助かる。


 昼休み、僕は屋上に出た。

 風が冷たい。

 空は曇り。

 空は“喜怒哀楽”を持たない。持たないから、見上げると少しだけ肩が軽くなる。

 僕は紙コップの白湯を飲みながら、今日の象限を心の中で塗りつぶす。


 喜:交渉の成果が残ってる。

 怒:トラブルで出た。

 哀:優しさが刺さってる。

 楽:まだ弱い。補給が必要。


 補給。

 僕はコンビニへ行って、ミニシュークリームを買った。

 プリンじゃなくて、今日はシュー。

 楽は、甘いものの形で戻ってくる。


 午後、上司が声をかけてきた。


「優先順位表、今週中って言ってたよな」


 “怒”が反射で立ち上がる。

 分かってるよ! いまやろうとしてたよ!

 でも“喜”が首を押さえる。

 ここで噛みつくと、昨日の交渉が崩れる。

 “哀”が言う。

 噛みつきたいくらい疲れてるんだよ。

 “楽”が、口の端にシュークリームの甘さを残して囁く。

 大丈夫、言い方で勝てる。


 僕は笑って言った。


「はい。今日の夕方までに叩き台作ります。見てください」


 上司は「頼む」と言って去った。

 去り際、上司の肩が少しだけ軽そうに見えた。

 その軽さを見て、僕の“喜”が少し増える。

 誰かの肩が軽くなると、自分の肩も軽くなる。

 不思議な連鎖。


 夕方。

 資料の叩き台を作り終える。

 提出。

 上司は頷く。

 それだけで十分。

 承認の言葉より、頷きが効く日がある。


 帰り道、僕は千紗にメッセージを送った。


『今日は喜怒哀楽、全部出た』


 返事はすぐ来た。


『全部出たなら、生きてるってこと。おつかれ。帰り気をつけて』


 その返事を読んだ瞬間、“哀”が少しだけ泣きたくなる。

 “喜”が嬉しくなる。

“怒”は静かになる。

 “楽”が微笑む。

 交通整理がうまくいっている。


 家に帰る。

 玄関を開ける。

 千紗が「おかえり」と言う。

 僕は靴を揃えながら言った。


「今日さ、どの顔で帰ろうか迷ってた」


「どの顔でもいいよ」


 千紗が言って、カップを二つ出す。

 白湯じゃなく、今日は紅茶。

 また紅茶。

 湯気は結論を薄める。

 結論を薄めると、話せる。


「でも、混ざると疲れる」


 僕が言うと、千紗は頷いた。


「混ざってもいい。衝突しなければ」


 同じ言葉。

 千紗は、僕の付箋の意味をちゃんと理解している。

 理解している人がいると、感情は暴れにくい。

 暴れにくいと、僕は少しだけ“楽”を前に出せる。


 僕は紅茶を一口飲んで、言った。


「今日の楽は、シュークリームで補給した」


「え、ずるい。私の分は?」


 千紗が眉を上げる。

 その表情だけで、僕の“楽”が跳ねた。

 “楽”はいつも、誰かと共有したがる。


「買ってくるべきだった……」


 “哀”が肩を落とす。

 すかさず“喜”が言う。

 今から買いに行けばいい。

 “怒”は言う。

 なんで気づかないんだよ。

 “楽”が笑う。

 行こう行こう。


 僕は立ち上がった。


「今から買いに行く」


「え、いま?」


「いま。

 だって、いま楽しいから」


 千紗が笑った。

 笑い声が、部屋に広がる。

 僕の中の四つの付箋が、一瞬だけ同じ方向を向いた。


 喜:一緒に笑える。

 怒:今日はもう怒らなくていい。

 哀:優しさで泣けるのは悪くない。

 楽:行こう。


 僕はコートを掴んで、玄関を飛び出した。

 ヒーローみたいに格好よくはない。

 でも、走り出す理由としては十分だ。


 喜怒哀楽。

 どれも僕だ。

 どれも、今日を終えるための手札だ。

 手札が四枚あるなら、案外ゲームは続けられる。

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