正義は息切れしながら来る
ヒーローは、空を飛ぶ。
僕は、駅の階段で息切れする。
だから僕は、ヒーローじゃない。
……と言い切りたいのに、今日は世界がそうさせてくれなかった。
朝、会社へ向かう途中。改札前の雑踏で、僕は妙なものを見つけた。
迷子の子ども。
というほど小さくはない。小学校高学年くらいの男の子が、立ち尽くしていた。
ランドセルじゃなく、スポーツバッグ。ユニフォームの袋。汗の匂いがしないのに、顔が焦っている。
焦りの匂いは、汗より先に出る。
周りの大人はみんな、忙しい顔で通り過ぎる。
僕も忙しい。
僕も通り過ぎる側だ。
でも足が止まった。
止まると、時間が減る。
時間が減ると、上司の顔が浮かぶ。
上司の顔が浮かぶと、心臓が縮む。
それでも止まったのは、僕の中の“新人ヒーロー”が、まだ辞めてないからだ。
「どうした?」
声をかけると、男の子がびくっと肩を揺らした。
目が泳いで、それから僕の顔を見た。
助けを求める目。
助けを求める目は、拒否できない。拒否した瞬間、自分の中の何かが折れる。
「……電車、間違えたかも」
男の子の声は、泣きそうで、泣かないギリギリ。
この手のギリギリは、放っておくと崩れる。
僕は、ヒーローじゃないのに、崩れる前に手を伸ばしてしまう。
「どこ行くの?」
「市民体育館。試合」
「何時?」
「九時。……もう、やばい」
時計を見る。
八時二十分。
僕の出社は九時。
僕もやばい。
頭の中で天使と悪魔が騒ぐ。
最近、僕の脳内にはお節介焼きが常駐している気がする。
天使は言う。
“ここで助けたら、君は君を好きでいられる”
悪魔は言う。
“でも遅刻したら上司に刺されるぞ”
どっちも正しい。正しいが二つあると、人は迷う。
僕は、迷いながらも言った。
「切符、どこまで買った?」
「……ここから二駅分」
「体育館はもっと先だな。乗り換えある?」
「……ある」
男の子の目が、もう一段暗くなる。
暗くなる前に、僕は言った。
「一旦、落ち着こう」
自分でも驚くくらい、口から自然に出た。
“落ち着こう”は、魔法の言葉だ。
言うと、呼吸が戻る。戻ると、考えられる。
僕は駅員さんを探し、事情を説明した。
駅員さんは慣れた顔で「保護者は?」と訊く。
男の子は首を振る。
僕は一瞬、「じゃあ僕が」と言いそうになって、止めた。勝手に保護者を名乗るのは危険だ。ヒーローごっこで現実を壊すな。
「チームの連絡先、分かる?」
僕が聞くと、男の子はスマホを取り出し、顧問の番号を見せた。
僕は駅員さんに許可をもらい、スピーカーで電話をかけた。
繋がった。
『はい、○○中です』
「すみません。今、駅なんですけど、御校の生徒さんが……」
説明すると、顧問の先生は驚きつつも、すぐに状況を整理した。
ここで頼れるのは、大人の仕事だ。
ヒーローは、段取りの人でもある。
『すぐに迎えに行きます。そちらの駅名は?』
「△△駅です。改札前にいます」
『ありがとうございます。生徒、怪我は?』
「大丈夫そうです」
『助かりました。本当にありがとうございます』
電話を切ったあと、男の子が小さく言った。
「……怒られる」
怒られる。
それは彼にとって、試合より重いかもしれない。
怒られるのは怖い。
でも、怒られるから学ぶ。
学ぶ前に潰れないようにするのも、大人の役目だ。
「怒られるかも。でも、ちゃんと来てくれる」
僕が言うと、男の子が少しだけ眉を寄せた。
「……来てくれるの、当たり前じゃないの」
当たり前。
当たり前は、当たり前じゃない日がある。
でも今は、当たり前にしてやりたい。
「当たり前だよ。君、ひとりじゃない」
言いながら、僕は自分の胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かに言ってるようで、自分に言ってる。
僕もひとりじゃない。会社に行けば人がいる。家には恋人がいる。
なのに僕はよく、ひとりみたいな顔をする。
今日の僕は、ひとりの顔をやめられている。
五分ほどして、体育館のワゴン車が駅前に停まった。
顧問の先生が飛び降りてきて、男の子の頭を軽く小突く。
小突き方が、怒りと安心の混ざったやつだ。
「おまえ! 何やってんだ!」
「……すみません」
先生は僕に頭を下げた。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえ、たまたま」
たまたま、と言うと、先生が笑った。
「たまたまでも、立ち止まってくれる人は貴重です」
その言葉で、僕は胸が少しだけくすぐったくなった。
貴重。
そんな大げさな。
でも、悪くない。
男の子が車に乗る前に、こちらを振り返った。
目がまだ少し濡れている。
でも、ちゃんと礼を言う目だ。
「……ありがとうございます」
僕は頷いた。
「試合、頑張れ。
間に合うかどうかは先生に任せて、君は準備しろ」
男の子は、少しだけ笑った。
車が走り去る。
僕は時計を見た。
八時三十五分。
僕の“やばい”が、戻ってきた。
「……うわ」
声が出た。
ここからが僕の試合だ。
出社という名の競技。
僕は走った。
走りながら、思った。
ヒーローは、助けたあとに余裕で笑って去る。
僕は、助けたあとに全力で走って汗だくになる。
マントもない。テーマソングもない。
あるのは、呼吸と、心臓と、革靴の底。
駅の階段を駆け上がって、電車に飛び乗った。
息が切れて、肩が痛い。
でも、不思議と後悔はなかった。
後悔の代わりに、胸の奥に小さな火が灯っている。
会社に着く。
ギリギリ。
タイムカードを押す。
八時五十九分。
「……勝った」
僕は小声で言った。
勝負じゃないのに勝った気がした。
ヒーローごっこの勝ち方は、こういう地味なやつだ。
昼休み、後輩が僕の顔を見て言った。
「先輩、なんか今日、いい顔してますね」
「そう?」
「なんか……走った顔」
走った顔って何だ。
でも確かに、走った。
走って、守った。
守ったのは、男の子の試合だけじゃない。
たぶん僕の、“立ち止まれる自分”も守った。
帰宅すると、恋人の千紗が「おかえり」と言ってくれた。
僕は靴を脱ぎながら言った。
「今日、ヒーローになった」
「はい?」
千紗が目を丸くする。
僕は笑って、ちゃんと説明した。迷子の男の子。ワゴン車。全力疾走。ギリギリ出社。
千紗は聞き終えて、頷いた。
「駆け出しのヒーローだね」
「駆け出しすぎて息切れした」
「息切れするヒーロー、好き」
その言葉で、胸の奥の火が少し大きくなった。
ヒーローは、完璧じゃなくていい。
走りながら、息切れしながら、それでも立ち止まれるなら。
僕はお茶を一口飲んで、言った。
「明日も、たぶん走る」
「走らなくていい日も作って」
「……うん。凹凸」
千紗が笑った。
「合言葉、早い」
僕も笑った。
駆け出しのヒーローは、今日もちゃんと家に帰ってきた。




