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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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18/18

盗むのは物じゃなく余裕

 最初に盗まれたのは、財布でも宝石でもなく、昼休みだった。


 十二時三分。社員食堂の隅で、僕は箸を持ったまま固まった。

 トレーの上には、冷めかけの唐揚げと、味噌汁と、白米。いつもどおり。

 いつもどおりなのに、僕の目の前のテーブルには一枚の紙が置かれていた。


 白いコピー用紙。

 角がきっちり揃った折り方。

 上質な丁寧さが、逆に不気味。


『予告。あなたの「午後の焦り」を頂きます。返却は本日 17:30。怪盗Y』


 ……焦りを、頂きます?


 隣の席の後輩が、唐揚げを頬張りながら覗き込んでくる。


「先輩、それ何すか。ラブレター?」


「違う。たぶん……犯罪予告」


「犯罪予告って、コピー用紙で来るんすか」


「来るらしい」


 後輩は笑って、味噌汁を飲んだ。


「怪盗とか、昭和っすね。Yって、誰すか」


 誰だ。

 会社に怪盗。

 しかも盗むのが“焦り”。現物を盗め。せめて備品を盗め。証拠が残りやすいだろ。

 いや、残ってる。紙が残ってる。手触りの良い証拠が。


 僕は予告状を折り畳んでポケットに入れた。

 こういう変なことに巻き込まれると、まず隠したくなる。

 隠したところで、事実は消えないのに。

 でも、僕は今日も仕事の顔を維持したかった。


 午後。

 いつもなら、ここから僕の時間は折れ曲がっていく。


 メール。

 会議。

 確認依頼。

 「至急」。

 「今日中」。

 「今どこまで?」。


 焦りは、タスクの量じゃない。タスクの量が焦りを呼ぶのではなく、“焦っている自分”がさらに焦りを増幅させる。

 自分で自分に追い立てられるのが、いちばん厄介だ。


 だから僕は、予告状の文面を思い出して、思わず笑ってしまった。


「午後の焦り、頂きます」


 そんなことできるなら、盗んでほしい。

 本気で。

 お願いしたいくらいだ。


 ……で。


 盗まれた。


 十四時。会議室での進捗確認。いつもなら、心臓が早くなる場面。

 でも今日は、心臓が妙に落ち着いていた。

 落ち着きすぎて怖い。僕の緊張どこ行った。

 緊張がないと、逆に仕事が雑になりそうで、僕はむしろ慎重にメモを取った。


「じゃあ、ここまでで。質問ある?」


 上司が言う。

 いつもなら、質問がないことに焦って、何か言わなきゃと思って、変な質問をしてしまう。

 今日は違った。

 今日は、質問が本当にない。


「……大丈夫です」


 僕はそう言って、会議を終えた。

 終えた瞬間、背中に変な軽さが残った。

 軽さが“仕事がうまくいってる”の軽さじゃないのが分かる。

 もっと物理的な軽さ。

 肩から、何かが消えたみたいな。


 怪盗Y。

 こいつ、本当に焦りを盗んだのか?


 帰り道、僕は社内チャットを確認した。

 未読はある。

 でも、未読が僕の胸を叩かない。

 叩かない。

 おかしい。

 未読はいつも僕を叩く。容赦なく。


 十六時半。

 コーヒーを淹れに給湯室へ行くと、壁にまた白い紙が貼られていた。

 今度はクリップで留められ、きっちり水平。

 貼り方に性格が出ている。几帳面。しかも見せびらかし。


『追加。あなたの「余計な我慢」も頂きます。返却は本日 17:30。怪盗Y』


 余計な我慢。

 その言葉の解像度が高すぎて、僕は思わず周りを見回した。

 誰かが僕の生活を覗いている。

 僕が自分に課している小さな罰、みたいな癖まで。


 気づいたら、後輩が背後にいた。


「先輩、また来てる」


「来てる。来てほしくない形で来てる」


「返却って書いてあるの、優しいっすね」


「優しい怪盗って、矛盾してない?」


「矛盾は味です」


 後輩が真顔で言った。

 後輩は最近、妙に言葉が上手い。怪盗Yの教育を受けているのか。


「で、先輩。誰に心当たりあるんすか」


「ない。というか、あったら怖い」


「怖いっすね。だから、確かめましょう。捕まえましょう、怪盗」


 後輩はなぜか楽しそうだ。

 こういう時、楽しめる人は強い。

 僕は楽しめない側の人間だ。楽しめない側の人間は、だいたい怪盗に狙われる。


 十七時。

 返却予定まで三十分。

 僕と後輩は、社内の“怪盗っぽい動き”を探し始めた。探し方が雑で、探偵としては最悪だ。

 でも、社内に怪盗がいるという時点で現実が最悪だから、探し方くらいは雑でいい。


 候補一。総務の人。貼り紙がきっちりしてそう。

 候補二。経理の人。予告状の紙が無駄に上質。

 候補三。清掃の人。社内の動線を知っている。

 候補四。まさかの上司。焦りの発生源。自作自演。


 どれも決め手がない。

 決め手がないまま、時間だけが進む。

 普通なら、ここで僕は焦り始める。

 でも焦りがない。

 盗まれている。

 盗まれているから、冷静に観察できてしまう。

 この怪盗、仕事の効率を上げている。許せない。いや、許せる。困る。


 十七時二十八分。

 僕のデスクの引き出しが、コン、と軽く鳴った。

 誰かが触った?

 いや、引き出しは閉まっている。鍵もかけてある。

 なのに、音だけした。


 僕はそっと鍵を開け、引き出しを引いた。

 中に、封筒が一通。

 さっきまで無かった。

 無かったはず。

 怖い。


 封筒を開けると、また丁寧な文字。


『返却。あなたの「午後の焦り」を、少しだけ折り畳んでお返しします。必要な分だけ。怪盗Y』


 折り畳んで返すって何だ。

 焦りは折り畳めない。

 でも、折り畳めたとしたら便利だ。必要な時だけ広げて、不要な時はしまう。

 僕が一番欲しい機能だ。


 封筒の中には、もう一枚、別の紙。


『あなたは焦りを燃料にしすぎます。燃料は必要ですが、燃え尽きる量はいりません。

 17:30になったら、席を立ってください。今日は「帰る」を盗みません。あなたが持って帰ってください。怪盗Y』


 帰る。

 僕は紙を見つめた。

 帰る。

 それは、僕が最近いちばん下手な動詞だ。


 横で後輩が覗き込む。


「先輩、これ、めっちゃ優しいっすね」


「優しすぎて、怖い」


「怖いけど、なんか……助かるやつ」


 助かる。

 僕は、助かるという言葉を胸の中で反芻した。

 助かるのに、誰に礼を言えばいい。

 怪盗は名乗らない。名乗ってるけど、Yしか分からない。


 十七時三十分。

 僕は、立ち上がった。

 本当に立ち上がった。

 “今日は帰る”を、自分で持って帰る。

 持って帰れる気がした。焦りが薄く折り畳まれているから。


「先輩、帰るんすか」


「帰る」


「えら」


「えらいとか言うな。照れる」


「照れても帰ってください。怪盗の指示です」


 後輩が真顔で言うから、僕は笑った。

 笑いながら、荷物をまとめた。

 帰る支度は、未来の自分を助ける儀式だ。


 会社を出ると、夕方の空が思ったより明るかった。

 風が冷たい。

 冷たいのに気持ちいい。

 焦りが無いと、風の冷たさがちゃんと分かる。

 普段の僕は、風を感じる余裕も盗まれていたのかもしれない。


 駅の改札を抜けたところで、スマホが震えた。

 恋人の千紗からのメッセージ。


『今日、早く帰れそう?』


 僕は一瞬迷って、でも今日は迷いが短い。


『帰ってる。途中でプリン買う』


 送信してから、僕は自分で驚いた。

 プリン。

 具体的な優しさ。

 僕が自分の生活に具体的になれるのは、焦りが折り畳まれているからだ。


 家の近くのスーパーでプリンを二つ買い、帰宅した。

 鍵を開ける。

 カチッ。

 その音が、今日の“終業”の音に聞こえた。


「ただいま」


「おかえり」


 千紗が台所から顔を出す。エプロン。髪をまとめてる。目が柔らかい。

 僕はプリンの袋を持ち上げた。


「怪盗に命令された」


「怪盗?」


 千紗が眉を上げる。

 僕は今日のことを、ざっくり話した。予告状。返却。折り畳まれた焦り。帰るを盗まない怪盗。


 話し終えると、千紗はしばらく黙って、それから言った。


「……それ、誰だろうね」


「分からない。社内にいるのは確か」


「社内に“あなたの我慢”が分かる人がいるのは、ちょっと怖いね」


「うん」


「でも」


 千紗は、プリンを冷蔵庫に入れながら言った。


「あなたが帰ってこれたなら、その怪盗、仕事できる」


「褒めてる?」


「褒めてる」


 僕は笑って、ため息をついた。

 ため息は、疲れじゃない。息が戻る音だ。


 その夜、歯を磨き終えた僕は、机の上に今日の予告状を並べた。

 白い紙が三枚。

 どれも丁寧。

 どれも、僕の弱いところを正確に突く。

 でも突き方が、痛めつける突き方じゃない。

 “ここに段差があるよ”と教える突き方だ。


 最後に、もう一枚、封筒の底に小さなメモが残っていたのに気づいた。


『追伸。

 あなたが「ありがとう」を言えないのも、頂いておきました。

 それは、今夜、ちゃんと返してください。怪盗Y』


 僕はメモを握りしめ、リビングへ向かった。

 千紗はソファに座って、テレビを見ている。

 いつもの光景。

 いつもの光景が、今日は少しだけ眩しい。


「千紗」


「ん?」


 僕は喉を鳴らして、言った。

 折り畳まれていない言葉を、そのまま。


「今日、帰ってこれて、助かった。

 待っててくれて、ありがとう」


 千紗が目を丸くして、それから笑った。


「急にどうしたの」


「怪盗のせい」


「怪盗、優秀すぎる」


 僕は頷いた。

 優秀すぎて困る。

 でも困るくらいが、ちょうどいいのかもしれない。


 夜、布団に入る前に、僕は机の上の紙を見て、心の中で言った。


 怪盗Y。

 明日は、焦りを盗まなくていい。

 僕が自分で折り畳めるようになりたい。

 でも、もしまた盗みに来るなら――


 そのときは、予告状はコピー用紙じゃなくて、もう少し可愛い紙にしてほしい。

 そういうお節介なら、わりと歓迎だ。

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