盗むのは物じゃなく余裕
最初に盗まれたのは、財布でも宝石でもなく、昼休みだった。
十二時三分。社員食堂の隅で、僕は箸を持ったまま固まった。
トレーの上には、冷めかけの唐揚げと、味噌汁と、白米。いつもどおり。
いつもどおりなのに、僕の目の前のテーブルには一枚の紙が置かれていた。
白いコピー用紙。
角がきっちり揃った折り方。
上質な丁寧さが、逆に不気味。
『予告。あなたの「午後の焦り」を頂きます。返却は本日 17:30。怪盗Y』
……焦りを、頂きます?
隣の席の後輩が、唐揚げを頬張りながら覗き込んでくる。
「先輩、それ何すか。ラブレター?」
「違う。たぶん……犯罪予告」
「犯罪予告って、コピー用紙で来るんすか」
「来るらしい」
後輩は笑って、味噌汁を飲んだ。
「怪盗とか、昭和っすね。Yって、誰すか」
誰だ。
会社に怪盗。
しかも盗むのが“焦り”。現物を盗め。せめて備品を盗め。証拠が残りやすいだろ。
いや、残ってる。紙が残ってる。手触りの良い証拠が。
僕は予告状を折り畳んでポケットに入れた。
こういう変なことに巻き込まれると、まず隠したくなる。
隠したところで、事実は消えないのに。
でも、僕は今日も仕事の顔を維持したかった。
午後。
いつもなら、ここから僕の時間は折れ曲がっていく。
メール。
会議。
確認依頼。
「至急」。
「今日中」。
「今どこまで?」。
焦りは、タスクの量じゃない。タスクの量が焦りを呼ぶのではなく、“焦っている自分”がさらに焦りを増幅させる。
自分で自分に追い立てられるのが、いちばん厄介だ。
だから僕は、予告状の文面を思い出して、思わず笑ってしまった。
「午後の焦り、頂きます」
そんなことできるなら、盗んでほしい。
本気で。
お願いしたいくらいだ。
……で。
盗まれた。
十四時。会議室での進捗確認。いつもなら、心臓が早くなる場面。
でも今日は、心臓が妙に落ち着いていた。
落ち着きすぎて怖い。僕の緊張どこ行った。
緊張がないと、逆に仕事が雑になりそうで、僕はむしろ慎重にメモを取った。
「じゃあ、ここまでで。質問ある?」
上司が言う。
いつもなら、質問がないことに焦って、何か言わなきゃと思って、変な質問をしてしまう。
今日は違った。
今日は、質問が本当にない。
「……大丈夫です」
僕はそう言って、会議を終えた。
終えた瞬間、背中に変な軽さが残った。
軽さが“仕事がうまくいってる”の軽さじゃないのが分かる。
もっと物理的な軽さ。
肩から、何かが消えたみたいな。
怪盗Y。
こいつ、本当に焦りを盗んだのか?
帰り道、僕は社内チャットを確認した。
未読はある。
でも、未読が僕の胸を叩かない。
叩かない。
おかしい。
未読はいつも僕を叩く。容赦なく。
十六時半。
コーヒーを淹れに給湯室へ行くと、壁にまた白い紙が貼られていた。
今度はクリップで留められ、きっちり水平。
貼り方に性格が出ている。几帳面。しかも見せびらかし。
『追加。あなたの「余計な我慢」も頂きます。返却は本日 17:30。怪盗Y』
余計な我慢。
その言葉の解像度が高すぎて、僕は思わず周りを見回した。
誰かが僕の生活を覗いている。
僕が自分に課している小さな罰、みたいな癖まで。
気づいたら、後輩が背後にいた。
「先輩、また来てる」
「来てる。来てほしくない形で来てる」
「返却って書いてあるの、優しいっすね」
「優しい怪盗って、矛盾してない?」
「矛盾は味です」
後輩が真顔で言った。
後輩は最近、妙に言葉が上手い。怪盗Yの教育を受けているのか。
「で、先輩。誰に心当たりあるんすか」
「ない。というか、あったら怖い」
「怖いっすね。だから、確かめましょう。捕まえましょう、怪盗」
後輩はなぜか楽しそうだ。
こういう時、楽しめる人は強い。
僕は楽しめない側の人間だ。楽しめない側の人間は、だいたい怪盗に狙われる。
十七時。
返却予定まで三十分。
僕と後輩は、社内の“怪盗っぽい動き”を探し始めた。探し方が雑で、探偵としては最悪だ。
でも、社内に怪盗がいるという時点で現実が最悪だから、探し方くらいは雑でいい。
候補一。総務の人。貼り紙がきっちりしてそう。
候補二。経理の人。予告状の紙が無駄に上質。
候補三。清掃の人。社内の動線を知っている。
候補四。まさかの上司。焦りの発生源。自作自演。
どれも決め手がない。
決め手がないまま、時間だけが進む。
普通なら、ここで僕は焦り始める。
でも焦りがない。
盗まれている。
盗まれているから、冷静に観察できてしまう。
この怪盗、仕事の効率を上げている。許せない。いや、許せる。困る。
十七時二十八分。
僕のデスクの引き出しが、コン、と軽く鳴った。
誰かが触った?
いや、引き出しは閉まっている。鍵もかけてある。
なのに、音だけした。
僕はそっと鍵を開け、引き出しを引いた。
中に、封筒が一通。
さっきまで無かった。
無かったはず。
怖い。
封筒を開けると、また丁寧な文字。
『返却。あなたの「午後の焦り」を、少しだけ折り畳んでお返しします。必要な分だけ。怪盗Y』
折り畳んで返すって何だ。
焦りは折り畳めない。
でも、折り畳めたとしたら便利だ。必要な時だけ広げて、不要な時はしまう。
僕が一番欲しい機能だ。
封筒の中には、もう一枚、別の紙。
『あなたは焦りを燃料にしすぎます。燃料は必要ですが、燃え尽きる量はいりません。
17:30になったら、席を立ってください。今日は「帰る」を盗みません。あなたが持って帰ってください。怪盗Y』
帰る。
僕は紙を見つめた。
帰る。
それは、僕が最近いちばん下手な動詞だ。
横で後輩が覗き込む。
「先輩、これ、めっちゃ優しいっすね」
「優しすぎて、怖い」
「怖いけど、なんか……助かるやつ」
助かる。
僕は、助かるという言葉を胸の中で反芻した。
助かるのに、誰に礼を言えばいい。
怪盗は名乗らない。名乗ってるけど、Yしか分からない。
十七時三十分。
僕は、立ち上がった。
本当に立ち上がった。
“今日は帰る”を、自分で持って帰る。
持って帰れる気がした。焦りが薄く折り畳まれているから。
「先輩、帰るんすか」
「帰る」
「えら」
「えらいとか言うな。照れる」
「照れても帰ってください。怪盗の指示です」
後輩が真顔で言うから、僕は笑った。
笑いながら、荷物をまとめた。
帰る支度は、未来の自分を助ける儀式だ。
会社を出ると、夕方の空が思ったより明るかった。
風が冷たい。
冷たいのに気持ちいい。
焦りが無いと、風の冷たさがちゃんと分かる。
普段の僕は、風を感じる余裕も盗まれていたのかもしれない。
駅の改札を抜けたところで、スマホが震えた。
恋人の千紗からのメッセージ。
『今日、早く帰れそう?』
僕は一瞬迷って、でも今日は迷いが短い。
『帰ってる。途中でプリン買う』
送信してから、僕は自分で驚いた。
プリン。
具体的な優しさ。
僕が自分の生活に具体的になれるのは、焦りが折り畳まれているからだ。
家の近くのスーパーでプリンを二つ買い、帰宅した。
鍵を開ける。
カチッ。
その音が、今日の“終業”の音に聞こえた。
「ただいま」
「おかえり」
千紗が台所から顔を出す。エプロン。髪をまとめてる。目が柔らかい。
僕はプリンの袋を持ち上げた。
「怪盗に命令された」
「怪盗?」
千紗が眉を上げる。
僕は今日のことを、ざっくり話した。予告状。返却。折り畳まれた焦り。帰るを盗まない怪盗。
話し終えると、千紗はしばらく黙って、それから言った。
「……それ、誰だろうね」
「分からない。社内にいるのは確か」
「社内に“あなたの我慢”が分かる人がいるのは、ちょっと怖いね」
「うん」
「でも」
千紗は、プリンを冷蔵庫に入れながら言った。
「あなたが帰ってこれたなら、その怪盗、仕事できる」
「褒めてる?」
「褒めてる」
僕は笑って、ため息をついた。
ため息は、疲れじゃない。息が戻る音だ。
その夜、歯を磨き終えた僕は、机の上に今日の予告状を並べた。
白い紙が三枚。
どれも丁寧。
どれも、僕の弱いところを正確に突く。
でも突き方が、痛めつける突き方じゃない。
“ここに段差があるよ”と教える突き方だ。
最後に、もう一枚、封筒の底に小さなメモが残っていたのに気づいた。
『追伸。
あなたが「ありがとう」を言えないのも、頂いておきました。
それは、今夜、ちゃんと返してください。怪盗Y』
僕はメモを握りしめ、リビングへ向かった。
千紗はソファに座って、テレビを見ている。
いつもの光景。
いつもの光景が、今日は少しだけ眩しい。
「千紗」
「ん?」
僕は喉を鳴らして、言った。
折り畳まれていない言葉を、そのまま。
「今日、帰ってこれて、助かった。
待っててくれて、ありがとう」
千紗が目を丸くして、それから笑った。
「急にどうしたの」
「怪盗のせい」
「怪盗、優秀すぎる」
僕は頷いた。
優秀すぎて困る。
でも困るくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
夜、布団に入る前に、僕は机の上の紙を見て、心の中で言った。
怪盗Y。
明日は、焦りを盗まなくていい。
僕が自分で折り畳めるようになりたい。
でも、もしまた盗みに来るなら――
そのときは、予告状はコピー用紙じゃなくて、もう少し可愛い紙にしてほしい。
そういうお節介なら、わりと歓迎だ。




