肯定で走り抜ける一日
朝、目が覚めた瞬間に分かった。
今日は、機嫌がいい日だ。
機嫌って、天気みたいなものだと思っていた。外側の事情で変わって、当たるも八卦外れるも八卦。
でも最近は違う。機嫌は、スイッチだ。押せば点く。押すにはコツが要る。
そのコツを、私は昨日の夜にひとつだけ覚えた。
「面倒くさい」を言い換える。
「面倒くさい」は、拒否の言葉に見えて、実は疲れのサインだ。
疲れのサインなら、対処できる。
対処するなら、今日の私はこう言う。
「いける」
いける、って言うと、体が少しだけ前に出る。
前に出た分だけ、人生が動く。
人生が動くと、笑える。
笑えると、機嫌がいい。
ほら、循環。
私は布団の中で一回だけ拳を握って、声に出した。
「よし」
台所へ行くと、同居人の千紗がすでに白湯を飲んでいた。
朝の千紗は静かで、静かだけど目が柔らかい。
昨日の夜、私たちは“凹凸”という合言葉を作った。刺さったら速度を落とす合図。
合言葉があると、人は落ち着いて傷つけられる。傷つけないようにできる。
今日は、傷つける日じゃない。
今日は、肯定の連打の日だ。
「おはよう」
「おはよう。今日、顔いいね」
千紗が言った。
顔いいね、って言い方が妙に生活っぽくて、私は笑った。
「機嫌がいい」
「何があったの」
「知らない。勝手に」
千紗が小さく笑って、コーヒーを淹れてくれた。
私はその香りを吸い込んで、心の中で小さく叫ぶ。
今日は、いける。
出勤途中、駅の階段で前を歩く人が落とした手袋を見つけた。
普段なら迷う。拾う? 声かける? 面倒?
今日は迷わない。
スイッチが点いているから。
「すみません、手袋落ちましたよ」
声をかけると、相手が振り返って「あっ!」と笑う。
その笑いが、私の機嫌の燃料になる。
小さな良いことは、拾うと増える。
会社に着く。
デスクに座る。
メールの件数が多い。
普段ならここで機嫌が折れる。
今日は折れない。折れそうになったら言い換える。
「面倒くさい」じゃなくて。
「いける」
私はまず、やることを三つに分けた。
一気に全部やろうとすると、機嫌はすぐ死ぬ。
機嫌は繊細な生き物だ。雑に扱うと逃げる。
ひとつ目、資料の修正。
やる。
終わる。
終わった瞬間、私は自分の中で小さく拍手した。
拍手は、外に出すと怪しいので心の中で。
ふたつ目、電話対応。
鳴った。出た。話した。切った。
私は机の下で拳を握った。
ふたつ目も、いけた。
昼休み、同僚の佐倉さんが「今度の案件、ちょっと手伝ってほしい」と言ってきた。
普段の私は、心の中でうめく。
余裕ない、って。
でも今日は違う。
余裕は、作るものだって知ってる日だ。
「いいですよ。どこ手伝えばいい?」
言ってしまった。
言ってしまってから「やばい、言った」と思った。
でも佐倉さんの顔がぱっと明るくなる。
「助かる!」
助かる。
その言葉は、こちらの疲れに効く。
疲れは、報われると軽くなる。
軽くなるなら、今日は続けられる。
午後、会議。
上司が無茶なスケジュールを言う。
普段なら黙る。黙って、後で泣く。
今日は黙らない。機嫌がいい日は、勇気が増える日だ。
「すみません。その日程だと品質が落ちます。ここは一日ください」
言えた。
言えたことに自分が一番驚いた。
上司が眉を上げた。
でも、否定じゃない。
「……じゃあ一日。代わりにここを詰めよう」
交渉成立。
私の中で花火が上がった。
ドン、じゃなくて、パチパチ。
派手じゃない。
でも確かに光る。
定時。
帰る。
帰れる。
今日は帰れる気がする、じゃなくて、帰る。
帰り道、スーパーに寄ってプリンを二つ買った。
理由はない。
理由がない贅沢は、機嫌の保険だ。
玄関を開ける。
千紗が「おかえり」と言う。
私は今日一番の声で言った。
「ただいま!」
千紗が目を丸くして笑った。
「元気すぎる」
「今日はそういう日」
「仕事、しんどくなかった?」
しんどかった。
でも、しんどいはゼロじゃない。
しんどいがあっても、機嫌は保てる。
そのバランスを、私は今日は知っている。
「しんどかった。けど、いけた」
千紗が頷いた。
「いけた、っていいね」
「いいでしょ」
私は袋からプリンを出して、テーブルに置いた。
千紗が笑う。
「ご褒美?」
「ご褒美。あと、予防」
「予防?」
「機嫌がいい日の余裕を、機嫌が悪い日に回すための」
千紗が、少しだけ真面目な顔になった。
真面目な顔のまま、優しく言う。
「それ、上手になったね」
上手になった。
その言葉が胸に入る。
胸に入ると、機嫌がまた少し上がる。
循環、継続。
プリンを食べ終わって、私はソファに倒れた。
倒れるのは、戦いが終わった合図だ。
千紗が隣に座って、私の髪を軽く梳いた。
「ねえ」
千紗が言う。
「今日、何が一番よかった?」
私は考えた。
手袋を拾ったこと。
仕事で交渉できたこと。
プリンを買ったこと。
全部よかった。
でも一番は、たぶん。
「今日、私、嫌な顔しなかった」
千紗が笑った。
「それ、目標低くない?」
「低いのがいい。達成できるから」
「確かに」
千紗が頷いて、私の肩に頭を乗せた。
重さが、心地いい。
重さが心地いい日は、機嫌がいい日だ。
私は天井を見ながら、心の中でまた小さく叫んだ。
今日は、全部に肯けた。
明日もそうとは限らない。
でも、今日があったなら、明日がダメでも「またやればいい」と思える。
そういうのを、たぶん、強さって言う。
私は口に出して言った。
「よし」
千紗が笑う。
「なにが」
「明日も、いける気がする」
千紗は少し考えてから、言った。
「気がする、でいいよ。
でも、もしダメなら合言葉」
「凹凸?」
「うん」
私は頷いて、笑った。
「了解」
機嫌がいい日は、派手な勝利じゃない。
小さな肯定を積んで、ちゃんと家に帰る日だ。
その積み方を、私は今日、少しだけ覚えた。




