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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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16/19

背中を押す声が多すぎる

 僕の右肩には、天使がいる。

 僕の左肩には、悪魔がいる。

 そして二人とも、とんでもないお節介焼きだ。


「おはよう! 今日も生きててえらい!」

「起きたなら勝ち。寝坊しても勝ち。とりあえず勝ちで行け」


 起き抜けの僕の脳内は、だいたいこんな具合に騒がしい。

 天使は“褒めて伸ばす”の名手で、悪魔は“言い切って押し通す”の職人。どちらも善意っぽい顔をしてくるのが厄介だ。善意と善意がぶつかると、僕はだいたい板挟みで潰れる。


 今日の用事は、三つ。


 ひとつ。会社で、上司に「残業を減らしたい」と相談する。

 ふたつ。昼休みに、同僚の佐倉さんへ「この前の資料、助かった」とお礼を言う。

 みっつ。夜、恋人の千紗に「最近、余裕がなくてごめん」と謝る。


 どう考えても、全部“言葉”で片づく用事なのに。

 僕にとっては、全部“命綱”みたいに重い。


「大丈夫! 言葉は軽く見えて重いから、丁寧に扱えば伝わるよ」

「重いなら投げろ。投げたら届く。届かなかったら投げ方を変えろ」


 ほら、もう真逆だ。

 僕は歯を磨きながら鏡の自分に小さく挨拶した。おはよう。今日も社会に出る。偉いかどうかは知らないけど、とにかく出る。


 玄関で靴を履いた瞬間、天使が胸を張った。


「忘れ物チェック! 鍵! 財布! スマホ! あと、心!」

「心は置いていけ。軽くなる」


 悪魔、それはただのホラーだ。

 僕は心を持って、駅へ走った。結局、こういうときに一番頼れるのは足だ。足は嘘をつかない。遅刻しそうだと素直に速くなる。


 午前の会議が終わり、僕は給湯室で紙コップの白湯を啜っていた。胃が痛い。胃は毎朝、出社に反対票を投じる。


 そこへ、上司が現れた。タイミングが完璧に悪い。いや、良いのか。今日の用事、ひとつ目の相手だ。


「お、早いな。最近どう?」


 “最近どう?”って訊き方は、便利すぎて困る。

 僕の“最近”は、眠いと不安と申し訳なさが混ざったスープだ。どれから説明する?


 天使が囁く。

「正直に、でも柔らかく。責めずに、自分の状態を伝えて」


 悪魔が囁く。

「今言え。逃げるな。ここがチャンス。給湯室は密室。勝ち確」


 勝ち確って何の勝負だよ。

 でも逃げたら、また“明日”になる。明日は便利な保留棚だ。置きすぎて崩れる。


 僕は紙コップを置いて、言った。


「すみません。少しだけ、ご相談いいですか。最近、残業が続いていて……正直、体が先に参ってます。業務量の調整、お願いできませんか」


 言えた。

 言えた瞬間、天使が拍手し、悪魔が腕組みした。


「えらい! 丁寧! 伝わる!」

「弱音を言えるのは強い。よし、次は条件交渉だ」


 上司は意外とすぐ頷いた。


「分かった。今の案件、誰かに分けられるか見よう。まず、優先順位作って」


 僕は、息を吐いた。

 白湯の湯気が、胸の奥の霧を少し薄めた。


「ありがとうございます」


 言ったら、天使が満足そうに頷き、悪魔が小さく舌打ちした。


「よかったね! ちゃんと受け取ってくれた!」

「感謝はいい。次は“いつまでに”を詰めろ」


 悪魔、あなたは契約書で生きてるの?

 でも確かに、期限は大事だ。僕は上司に確認した。「今週中に優先順位表を作って持ってきます」。上司は「頼む」と言った。


 ひとつ目、達成。

 僕は内心、ガッツポーズした。こっそり。大げさにやると自分で照れて崩れる。


 昼休み、僕は社食のトレーを持って、佐倉さんを探した。

 見つけた。窓際の席で、唐揚げ定食を食べている。唐揚げが似合う人だ。なんとなく。


 僕は近づいて、言い出そうとして、止まった。

 お礼なんて簡単。簡単なのに怖い。

 怖い理由は、たぶん“返事”が来るからだ。お礼を言ったら、相手は何かを返す。返されるのが苦手だ。僕は受け取るのが下手だ。


「ほら! 今! ありがとうって言うだけ!」

「ありがとう言って、ついでに飲みに誘え。勢いで人生を進めろ」


 悪魔、飲みに誘うのは今じゃない。

 僕は天使に従った。今日は天使の日だと決める。


「佐倉さん。ちょっといいですか」


 佐倉さんが顔を上げた。

 目が合って、僕は一瞬ひるむ。ひるんだけど、言った。


「この前の資料、助かりました。僕、あの形式だと整理が早くて……ありがとうございます」


 佐倉さんは、少し驚いた顔をして、それから笑った。


「え、急に丁寧。こちらこそ。あれ、私も使いやすいからテンプレ化してるだけだよ」


 テンプレ化。

 便利な言葉。僕もテンプレが好きだ。人生もテンプレだったらいいのに。


「よかったら、テンプレ、共有します?」


 佐倉さんが言った。

 天使が満面の笑みを浮かべる。

「ほら、優しさは循環するんだよ」


 悪魔が頷く。

「そして借りは作るな。今すぐ受け取れ」


 僕は頷いた。


「お願いします」


 受け取れた。

 それだけで、昼の空気が少し明るくなった気がした。


 ふたつ目、達成。

 僕の心の中で、天使が風船を飛ばし、悪魔が紙吹雪を撒いた。うるさい。


 問題は三つ目だ。

 夜。家。恋人の千紗。


 千紗は怒鳴らない。

 怒鳴らないのに、僕は怖い。

 それは、千紗が怖いんじゃなくて、僕の“余裕のなさ”がばれるのが怖い。ばれてるのに。ばれてるのに、確認されるのが怖い。


 帰宅すると、キッチンからスープの匂いがした。

 いつもの匂い。

 匂いは安心で、安心は油断で、油断は逃げ道になる。


「おかえり」


 千紗が言った。エプロン姿。髪をまとめてる。目は穏やか。穏やかなのが、逆に刺さる日がある。刺さるのは僕の勝手だ。


「ただいま」


 僕はコートを掛けて、靴を揃えた。揃える動作で呼吸を整える。僕の変な癖。千紗はそれを見て、何も言わない。言わない優しさがある。


 食卓に座り、スープを飲む。

 温かい。

 温かいと、喉の奥の言葉が出やすくなる。

 だから、今だ。


 天使が囁く。

「短く、正直に。言えたら、ぎゅってしよう」


 悪魔が囁く。

「言え。“ごめん”で終わらせるな。具体策まで出せ」


 僕はスプーンを置いた。


「千紗、最近……余裕なくて、ごめん」


 言った。

 言った瞬間、胸が軽くなる。

 軽くなった分だけ、怖さも出てくる。返事が来る。


 千紗はすぐに返事をしなかった。

 スープを一口飲んでから、言った。


「うん。ありがとう、言ってくれて」


 ありがとう。

 ごめんにありがとうが返ってくると、僕は泣きそうになる。

 でも泣く前に続きがある。悪魔が正しい顔をしている。


「今日、上司に相談した。残業減らす方向で動く。

 それと……もし、帰ってきても僕の心がまだ会社にいたら、合言葉で呼び戻してほしい」


「合言葉?」


 千紗が首を傾げる。


 僕は一瞬迷った。

 この家、紅茶で人生を回す傾向がある。最近。

 でも今日は、別の言葉にしたい。もっと僕らしいやつ。


「……“凹凸”」


 千紗が目を丸くして、それから吹き出した。


「なにそれ、急に数学」


「僕の心の段差が刺さってる合図。

 刺さってたら、速度落としてほしい。僕も何が刺さったか言う」


 千紗は笑いながら、でも真面目に頷いた。


「いいよ。凹凸ね。

 じゃあ私は、“一旦”って言う。あなたは“凹凸”って言う。

 で、呼び戻す」


「呼び戻す」


「うん。家に帰ってきた人の顔に戻す」


 僕の目の奥が熱くなった。

 天使がそっと肩に手を置く。

「ほら、ちゃんと戻れるよ」


 悪魔が小さく言う。

「良い契約だ。守れ」


 守る。

 僕は頷いた。


「……ありがとう」


 千紗が立ち上がって、僕のカップに温かいお茶を注いだ。紅茶じゃない。ほうじ茶。香ばしい匂い。

 湯気が、部屋に薄く広がる。


「ねえ」


 千紗が言った。


「あなた、今日、よく話した日だね」


「……うん。脳内がうるさくて」


「脳内?」


 僕は一瞬、言うか迷った。

 天使と悪魔の話なんて、絵空事だ。

 でも、今日は絵空事にしない日だ。


「僕の中に、お節介焼きの天使と悪魔がいる」


 千紗が一拍置いて、にこっと笑った。


「どっちがどっち」


「天使は褒める。悪魔は押す」


「じゃあ私は?」


 千紗が訊く。


 僕は、少し考えて答えた。


「……現実」


 千紗が笑って、僕の額を指で軽く弾いた。


「現実は、もうちょっと優しいよ」


 僕も笑った。

 天使も笑った。

 悪魔は、最後に一言だけ言った。


「よし。明日も生きろ」


 お節介焼きは、うるさい。

 でも、うるさいから、僕は今日も言葉を拾える。

 拾って、渡せる。

 凹凸があっても、手すりがあれば歩ける。


 僕は湯気の向こうで、千紗の顔を見た。

 今日は、ちゃんと家に帰ってきた顔だった。

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