背中を押す声が多すぎる
僕の右肩には、天使がいる。
僕の左肩には、悪魔がいる。
そして二人とも、とんでもないお節介焼きだ。
「おはよう! 今日も生きててえらい!」
「起きたなら勝ち。寝坊しても勝ち。とりあえず勝ちで行け」
起き抜けの僕の脳内は、だいたいこんな具合に騒がしい。
天使は“褒めて伸ばす”の名手で、悪魔は“言い切って押し通す”の職人。どちらも善意っぽい顔をしてくるのが厄介だ。善意と善意がぶつかると、僕はだいたい板挟みで潰れる。
今日の用事は、三つ。
ひとつ。会社で、上司に「残業を減らしたい」と相談する。
ふたつ。昼休みに、同僚の佐倉さんへ「この前の資料、助かった」とお礼を言う。
みっつ。夜、恋人の千紗に「最近、余裕がなくてごめん」と謝る。
どう考えても、全部“言葉”で片づく用事なのに。
僕にとっては、全部“命綱”みたいに重い。
「大丈夫! 言葉は軽く見えて重いから、丁寧に扱えば伝わるよ」
「重いなら投げろ。投げたら届く。届かなかったら投げ方を変えろ」
ほら、もう真逆だ。
僕は歯を磨きながら鏡の自分に小さく挨拶した。おはよう。今日も社会に出る。偉いかどうかは知らないけど、とにかく出る。
玄関で靴を履いた瞬間、天使が胸を張った。
「忘れ物チェック! 鍵! 財布! スマホ! あと、心!」
「心は置いていけ。軽くなる」
悪魔、それはただのホラーだ。
僕は心を持って、駅へ走った。結局、こういうときに一番頼れるのは足だ。足は嘘をつかない。遅刻しそうだと素直に速くなる。
午前の会議が終わり、僕は給湯室で紙コップの白湯を啜っていた。胃が痛い。胃は毎朝、出社に反対票を投じる。
そこへ、上司が現れた。タイミングが完璧に悪い。いや、良いのか。今日の用事、ひとつ目の相手だ。
「お、早いな。最近どう?」
“最近どう?”って訊き方は、便利すぎて困る。
僕の“最近”は、眠いと不安と申し訳なさが混ざったスープだ。どれから説明する?
天使が囁く。
「正直に、でも柔らかく。責めずに、自分の状態を伝えて」
悪魔が囁く。
「今言え。逃げるな。ここがチャンス。給湯室は密室。勝ち確」
勝ち確って何の勝負だよ。
でも逃げたら、また“明日”になる。明日は便利な保留棚だ。置きすぎて崩れる。
僕は紙コップを置いて、言った。
「すみません。少しだけ、ご相談いいですか。最近、残業が続いていて……正直、体が先に参ってます。業務量の調整、お願いできませんか」
言えた。
言えた瞬間、天使が拍手し、悪魔が腕組みした。
「えらい! 丁寧! 伝わる!」
「弱音を言えるのは強い。よし、次は条件交渉だ」
上司は意外とすぐ頷いた。
「分かった。今の案件、誰かに分けられるか見よう。まず、優先順位作って」
僕は、息を吐いた。
白湯の湯気が、胸の奥の霧を少し薄めた。
「ありがとうございます」
言ったら、天使が満足そうに頷き、悪魔が小さく舌打ちした。
「よかったね! ちゃんと受け取ってくれた!」
「感謝はいい。次は“いつまでに”を詰めろ」
悪魔、あなたは契約書で生きてるの?
でも確かに、期限は大事だ。僕は上司に確認した。「今週中に優先順位表を作って持ってきます」。上司は「頼む」と言った。
ひとつ目、達成。
僕は内心、ガッツポーズした。こっそり。大げさにやると自分で照れて崩れる。
昼休み、僕は社食のトレーを持って、佐倉さんを探した。
見つけた。窓際の席で、唐揚げ定食を食べている。唐揚げが似合う人だ。なんとなく。
僕は近づいて、言い出そうとして、止まった。
お礼なんて簡単。簡単なのに怖い。
怖い理由は、たぶん“返事”が来るからだ。お礼を言ったら、相手は何かを返す。返されるのが苦手だ。僕は受け取るのが下手だ。
「ほら! 今! ありがとうって言うだけ!」
「ありがとう言って、ついでに飲みに誘え。勢いで人生を進めろ」
悪魔、飲みに誘うのは今じゃない。
僕は天使に従った。今日は天使の日だと決める。
「佐倉さん。ちょっといいですか」
佐倉さんが顔を上げた。
目が合って、僕は一瞬ひるむ。ひるんだけど、言った。
「この前の資料、助かりました。僕、あの形式だと整理が早くて……ありがとうございます」
佐倉さんは、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「え、急に丁寧。こちらこそ。あれ、私も使いやすいからテンプレ化してるだけだよ」
テンプレ化。
便利な言葉。僕もテンプレが好きだ。人生もテンプレだったらいいのに。
「よかったら、テンプレ、共有します?」
佐倉さんが言った。
天使が満面の笑みを浮かべる。
「ほら、優しさは循環するんだよ」
悪魔が頷く。
「そして借りは作るな。今すぐ受け取れ」
僕は頷いた。
「お願いします」
受け取れた。
それだけで、昼の空気が少し明るくなった気がした。
ふたつ目、達成。
僕の心の中で、天使が風船を飛ばし、悪魔が紙吹雪を撒いた。うるさい。
問題は三つ目だ。
夜。家。恋人の千紗。
千紗は怒鳴らない。
怒鳴らないのに、僕は怖い。
それは、千紗が怖いんじゃなくて、僕の“余裕のなさ”がばれるのが怖い。ばれてるのに。ばれてるのに、確認されるのが怖い。
帰宅すると、キッチンからスープの匂いがした。
いつもの匂い。
匂いは安心で、安心は油断で、油断は逃げ道になる。
「おかえり」
千紗が言った。エプロン姿。髪をまとめてる。目は穏やか。穏やかなのが、逆に刺さる日がある。刺さるのは僕の勝手だ。
「ただいま」
僕はコートを掛けて、靴を揃えた。揃える動作で呼吸を整える。僕の変な癖。千紗はそれを見て、何も言わない。言わない優しさがある。
食卓に座り、スープを飲む。
温かい。
温かいと、喉の奥の言葉が出やすくなる。
だから、今だ。
天使が囁く。
「短く、正直に。言えたら、ぎゅってしよう」
悪魔が囁く。
「言え。“ごめん”で終わらせるな。具体策まで出せ」
僕はスプーンを置いた。
「千紗、最近……余裕なくて、ごめん」
言った。
言った瞬間、胸が軽くなる。
軽くなった分だけ、怖さも出てくる。返事が来る。
千紗はすぐに返事をしなかった。
スープを一口飲んでから、言った。
「うん。ありがとう、言ってくれて」
ありがとう。
ごめんにありがとうが返ってくると、僕は泣きそうになる。
でも泣く前に続きがある。悪魔が正しい顔をしている。
「今日、上司に相談した。残業減らす方向で動く。
それと……もし、帰ってきても僕の心がまだ会社にいたら、合言葉で呼び戻してほしい」
「合言葉?」
千紗が首を傾げる。
僕は一瞬迷った。
この家、紅茶で人生を回す傾向がある。最近。
でも今日は、別の言葉にしたい。もっと僕らしいやつ。
「……“凹凸”」
千紗が目を丸くして、それから吹き出した。
「なにそれ、急に数学」
「僕の心の段差が刺さってる合図。
刺さってたら、速度落としてほしい。僕も何が刺さったか言う」
千紗は笑いながら、でも真面目に頷いた。
「いいよ。凹凸ね。
じゃあ私は、“一旦”って言う。あなたは“凹凸”って言う。
で、呼び戻す」
「呼び戻す」
「うん。家に帰ってきた人の顔に戻す」
僕の目の奥が熱くなった。
天使がそっと肩に手を置く。
「ほら、ちゃんと戻れるよ」
悪魔が小さく言う。
「良い契約だ。守れ」
守る。
僕は頷いた。
「……ありがとう」
千紗が立ち上がって、僕のカップに温かいお茶を注いだ。紅茶じゃない。ほうじ茶。香ばしい匂い。
湯気が、部屋に薄く広がる。
「ねえ」
千紗が言った。
「あなた、今日、よく話した日だね」
「……うん。脳内がうるさくて」
「脳内?」
僕は一瞬、言うか迷った。
天使と悪魔の話なんて、絵空事だ。
でも、今日は絵空事にしない日だ。
「僕の中に、お節介焼きの天使と悪魔がいる」
千紗が一拍置いて、にこっと笑った。
「どっちがどっち」
「天使は褒める。悪魔は押す」
「じゃあ私は?」
千紗が訊く。
僕は、少し考えて答えた。
「……現実」
千紗が笑って、僕の額を指で軽く弾いた。
「現実は、もうちょっと優しいよ」
僕も笑った。
天使も笑った。
悪魔は、最後に一言だけ言った。
「よし。明日も生きろ」
お節介焼きは、うるさい。
でも、うるさいから、僕は今日も言葉を拾える。
拾って、渡せる。
凹凸があっても、手すりがあれば歩ける。
僕は湯気の向こうで、千紗の顔を見た。
今日は、ちゃんと家に帰ってきた顔だった。




