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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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15/19

合わなさを愛用品にする

人と人の間には、だいたい段差がある。

 段差は悪者みたいに言われるけど、本当は手すりみたいなものだ。踏み外す前に気づけるし、登り方を工夫できる。

 問題は、段差の存在を「ないことにする」癖だ。私の。


 「大丈夫」


 その一言で段差を埋めたふりをして、つまずいたのはいつも私だった。


 玄関のドアが閉まる音がして、私は台所のスポンジを握ったまま固まった。

 鍵が回る音。靴の踵が床を叩く音。

 帰ってきた。


「ただいまー」


 声は軽い。軽いのに、私は胸が重い。

 重い理由は、さっきまでのチャットの未読数じゃない。洗い物の量でもない。

 彼が帰ってきた瞬間、私は“段差”を思い出す。


 私たちは、合わないところが多い。


 彼は早口で、私は遅口。

 彼は結論から言う。私は前置きで迷う。

 彼は怒るとすぐ言う。私は怒ると黙る。

 彼は「今すぐ決めよう」派。私は「一旦寝かせよう」派。


 合わない。

 でも、生活は回っている。

 回っているのが、逆に怖い。段差があるのに回ってる。どこかで落ちるんじゃないか、と。


 彼がリビングに入ってきて、コートをソファに放り投げる。

 放り投げるのも、合わないポイント。

 私は「ハンガーにかけて」と言いたい。言いたいのに言わない。言わない癖が、段差を大きくするのに。


「ねえ、聞いて」


 彼が言う。

 “聞いて”は、彼の合図だ。今から話したい。今ここで。

 私はスポンジを置き、タオルで手を拭いた。

 本当は、心の中で“段差注意”の標識が立っている。

 今の私は、疲れていて、彼はテンションが高い。

 段差が最大になるやつ。


「今日さ、上の人と話して、部署変われるかも」


 彼の目が光っている。

 嬉しい目だ。

 私はその目を見ると、反射で嬉しくなる。

 嬉しくなるけど、同時に怖くなる。

 部署が変わる。生活のリズムが変わる。帰宅時間が変わる。私の段取りが変わる。


 私の中の“変化が苦手”が、膝から立ち上がりかける。


「……すごいじゃん」


 言えた。

 言えたけど、声が薄い。

 薄い声は、彼にはすぐバレる。


「なんか、反応うすくない?」


 来た。

 段差の縁だ。

 私は息を吸った。

 ここで「そんなことないよ」と段差を埋めたふりをすると、また私がつまずく。

 今日は、段差を“ある”と言う。


「……嬉しい。でも、ちょっと怖い」


 彼が瞬きをした。

 驚き。

 でも嫌な驚きじゃない。

 たぶん、彼は“怖い”って単語を私から聞くのが珍しい。


「怖い? なんで」


 私は台所のカウンターに寄りかかった。

 寄りかかると、足が地につく。言葉が出やすい。


「変わるのが。

 私、変わるの苦手。

 あなたのことは応援したいのに、先に私の不安が出てくるのが嫌で……」


 最後が尻すぼみになる。

 私は自分の感情を言うと、すぐ謝りたくなる。

 でも謝ると、彼は「謝らなくていい」って言って、話が流れてしまう。

 流れるのは楽。楽は段差を見えなくする。


 彼はソファに座り、両手を組んだ。

 珍しく、すぐには言い返さない。

 その間が、私にはありがたい。

 彼が“私の速度”に合わせている。


「……そっか」


 彼が言う。


「俺、嬉しすぎて、先に祝ってほしかった」


「うん……祝いたい」


「でも、祝う前に怖いが来た」


「来た」


「それ、悪いこと?」


 悪いこと。

 私は、悪いことだと思ってきた。

 自分の凹凸は、相手の喜びを削る角だと思ってきた。

でも、角は削ると丸くなる。丸くなると、掴めなくなる。

 凹凸があるから、持てるものもある。


「悪いことじゃない……たぶん」


 私が言うと、彼が少し笑った。


「“たぶん”も、君っぽい」


「やめて。性格を愛玩物にしないで」


「愛玩物って何」


「かわいいって言われると余計に腹立つタイプ」


「そこも凹凸」


 彼は言って、立ち上がった。

 台所の方へ来る。

 私は反射で後ずさりしそうになって、踏みとどまった。


「凹凸ってさ」


 彼が言う。

 言い方が、妙に真面目だ。


「合わないって意味じゃなくて、噛み合うって意味もあるよね」


 噛み合う。

 歯車みたいな言い方だ。

 歯車は、平らだと回らない。凸と凹があるから回る。

 私はその比喩が、少しだけ好きだった。

 好きなのに、照れくさくて、むっとした顔を作る。


「……じゃあ、私の凹凸はどこ」


「不安が先に来るとこ」


「それ、欠点じゃん」


「欠点じゃない。注意書き」


 彼が、私の目を見た。


「俺が嬉しい話をする時、君は“嬉しい”と“不安”が同時に来る。

 なら、最初から二つ来る前提で話せばいい」


「前提」


「うん。例えば」


 彼は胸の前で手を軽く叩いて、言った。


「『嬉しい話がある。まず喜んで。次に不安も聞く』」


 私は思わず吹き出した。

 吹き出したら、空気が軽くなる。

 軽くなると、心の段差が少し低くなる。


「なにそれ、台本」


「生活って、だいたい台本だよ。

 即興が得意なのは俺で、台本が得意なのは君。

 そこ、噛み合ってる」


 私は笑いながら、でも胸が熱くなった。

 自分の凹凸が、初めて“使えるもの”に見える。

 使えるという言い方は不器用だけど、私は不器用だから仕方ない。


「……でも、私も言う」


 私は言った。

 彼が眉を上げる。


「なに」


「あなたの凸が、たまに刺さる」


「凸って何」


「勢い。言い切り。結論から。

 私が追いつく前に進むやつ」


 彼は少し考えてから頷いた。


「なるほど。刺さる時は?」


「疲れてる時。余裕がない時。

 あと……私が言いたいことを言えてない時」


 最後は小さく言った。

 でも、言えた。

 言えたことが、今日の勝ちだ。


「じゃあ、それも前提にする」


 彼が言う。


「刺さりそうな時は、速度を落とす。

 君は、刺さったって言う。

 言わないで黙るの禁止」


 禁止。

 言われると反発したくなる。

 でも私は、禁止が必要なタイプだ。

 黙る癖は、最終的に爆発する。


「……努力する」


「努力じゃなくて、合図にしよ」


「合図?」


「刺さった時、合言葉。

 たとえば」


 彼はにやっとして、言った。


「『凹凸』」


 私は目を丸くした。


「そんなそのまま?」


「そのままがいい。短いし」


 短い合言葉。

 それは、段差に手すりをつけるみたいだ。


「凹凸、って言ったら?」


「俺は速度を落とす。君は、何が刺さったか一個だけ言う。

 それで一旦、紅茶飲む」


「最後、紅茶入ってくるのなに」


「最近、うちの生活の万能薬じゃん」


 万能薬。

 私は笑って、ため息をついた。

 ため息は、苛立ちじゃない。

 息が戻る音だ。


 彼は冷蔵庫から牛乳を出して、カップを二つ用意した。

 紅茶じゃなくて、ホットミルク。

 甘くない。

 でも温かい。


「で、部署の話」


 彼が言う。

 今度は少しだけゆっくり。


「俺は、変わりたい。

 でも君の不安も聞く。

 順番、これで合ってる?」


 順番。

 私がずっと苦手だったのは、たぶん順番だ。

 でも今、順番を共有できている。

 共有できるなら、私は自分の凹凸を恥ずかしがらなくていい。


「合ってる」


 私は頷いた。


「じゃあ、喜んで」


 彼が言う。

 私は笑って、ちゃんと言った。


「おめでとう。すごい。嬉しい」


 彼が笑った。

 私の中の“嬉しい”が、やっと前に出た。

 不安はまだいるけど、今は後ろに座っている。

 順番を守れた。


「で、不安も聞く」


 彼が言う。

 私はホットミルクを一口飲んでから、言った。


「帰りが遅くなる日、増える?」


「増えるかも。最初だけ」


「……私、最初が一番苦手」


「知ってる。じゃあ最初は、毎日一回だけ連絡する。短く。

 『今どこ』とかじゃなくて、『今日も生きてる』ってやつ」


「それ、誰得」


「君得。俺得」


 私は笑ってしまった。

 笑いながら、胸の段差が少しずつ整地されていくのを感じる。

 平らにはならない。

 平らにしない。

 凹凸があるから、噛み合う。

 噛み合うから、回る。


 夜、私はソファに座って彼の肩に寄りかかった。

 寄りかかるのも、凹凸だ。

 私は寄りかかりたい時と、離れたい時が極端にある。

 彼は、その極端さに案外強い。


「ねえ」


 私が言う。


「今日の私、ちゃんと言えた?」


「言えた。

 凹凸の話を、凹凸のまま」


「……合言葉、まだ使ってない」


「使わない日もある。それはそれで、天気がいいってこと」


 天気。

 私は窓の外を見た。

 夜の空は、雲が少ない。

 でも、雲があってもいい。

 凹凸があってもいい。


 私は小さく言った。


「凹凸」


 彼がすぐに顔を向ける。


「刺さった?」


「ううん。

 ただ、覚えておきたかった。

 私たちの手すり」


 彼が笑って、私の頭を軽く撫でた。

 撫でられると、私は少しだけ丸くなる。

 でも凹凸は消えない。

 消えないまま、生活は回る。

 その回り方が、今日はちょっと好きだった。

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