合わなさを愛用品にする
人と人の間には、だいたい段差がある。
段差は悪者みたいに言われるけど、本当は手すりみたいなものだ。踏み外す前に気づけるし、登り方を工夫できる。
問題は、段差の存在を「ないことにする」癖だ。私の。
「大丈夫」
その一言で段差を埋めたふりをして、つまずいたのはいつも私だった。
玄関のドアが閉まる音がして、私は台所のスポンジを握ったまま固まった。
鍵が回る音。靴の踵が床を叩く音。
帰ってきた。
「ただいまー」
声は軽い。軽いのに、私は胸が重い。
重い理由は、さっきまでのチャットの未読数じゃない。洗い物の量でもない。
彼が帰ってきた瞬間、私は“段差”を思い出す。
私たちは、合わないところが多い。
彼は早口で、私は遅口。
彼は結論から言う。私は前置きで迷う。
彼は怒るとすぐ言う。私は怒ると黙る。
彼は「今すぐ決めよう」派。私は「一旦寝かせよう」派。
合わない。
でも、生活は回っている。
回っているのが、逆に怖い。段差があるのに回ってる。どこかで落ちるんじゃないか、と。
彼がリビングに入ってきて、コートをソファに放り投げる。
放り投げるのも、合わないポイント。
私は「ハンガーにかけて」と言いたい。言いたいのに言わない。言わない癖が、段差を大きくするのに。
「ねえ、聞いて」
彼が言う。
“聞いて”は、彼の合図だ。今から話したい。今ここで。
私はスポンジを置き、タオルで手を拭いた。
本当は、心の中で“段差注意”の標識が立っている。
今の私は、疲れていて、彼はテンションが高い。
段差が最大になるやつ。
「今日さ、上の人と話して、部署変われるかも」
彼の目が光っている。
嬉しい目だ。
私はその目を見ると、反射で嬉しくなる。
嬉しくなるけど、同時に怖くなる。
部署が変わる。生活のリズムが変わる。帰宅時間が変わる。私の段取りが変わる。
私の中の“変化が苦手”が、膝から立ち上がりかける。
「……すごいじゃん」
言えた。
言えたけど、声が薄い。
薄い声は、彼にはすぐバレる。
「なんか、反応うすくない?」
来た。
段差の縁だ。
私は息を吸った。
ここで「そんなことないよ」と段差を埋めたふりをすると、また私がつまずく。
今日は、段差を“ある”と言う。
「……嬉しい。でも、ちょっと怖い」
彼が瞬きをした。
驚き。
でも嫌な驚きじゃない。
たぶん、彼は“怖い”って単語を私から聞くのが珍しい。
「怖い? なんで」
私は台所のカウンターに寄りかかった。
寄りかかると、足が地につく。言葉が出やすい。
「変わるのが。
私、変わるの苦手。
あなたのことは応援したいのに、先に私の不安が出てくるのが嫌で……」
最後が尻すぼみになる。
私は自分の感情を言うと、すぐ謝りたくなる。
でも謝ると、彼は「謝らなくていい」って言って、話が流れてしまう。
流れるのは楽。楽は段差を見えなくする。
彼はソファに座り、両手を組んだ。
珍しく、すぐには言い返さない。
その間が、私にはありがたい。
彼が“私の速度”に合わせている。
「……そっか」
彼が言う。
「俺、嬉しすぎて、先に祝ってほしかった」
「うん……祝いたい」
「でも、祝う前に怖いが来た」
「来た」
「それ、悪いこと?」
悪いこと。
私は、悪いことだと思ってきた。
自分の凹凸は、相手の喜びを削る角だと思ってきた。
でも、角は削ると丸くなる。丸くなると、掴めなくなる。
凹凸があるから、持てるものもある。
「悪いことじゃない……たぶん」
私が言うと、彼が少し笑った。
「“たぶん”も、君っぽい」
「やめて。性格を愛玩物にしないで」
「愛玩物って何」
「かわいいって言われると余計に腹立つタイプ」
「そこも凹凸」
彼は言って、立ち上がった。
台所の方へ来る。
私は反射で後ずさりしそうになって、踏みとどまった。
「凹凸ってさ」
彼が言う。
言い方が、妙に真面目だ。
「合わないって意味じゃなくて、噛み合うって意味もあるよね」
噛み合う。
歯車みたいな言い方だ。
歯車は、平らだと回らない。凸と凹があるから回る。
私はその比喩が、少しだけ好きだった。
好きなのに、照れくさくて、むっとした顔を作る。
「……じゃあ、私の凹凸はどこ」
「不安が先に来るとこ」
「それ、欠点じゃん」
「欠点じゃない。注意書き」
彼が、私の目を見た。
「俺が嬉しい話をする時、君は“嬉しい”と“不安”が同時に来る。
なら、最初から二つ来る前提で話せばいい」
「前提」
「うん。例えば」
彼は胸の前で手を軽く叩いて、言った。
「『嬉しい話がある。まず喜んで。次に不安も聞く』」
私は思わず吹き出した。
吹き出したら、空気が軽くなる。
軽くなると、心の段差が少し低くなる。
「なにそれ、台本」
「生活って、だいたい台本だよ。
即興が得意なのは俺で、台本が得意なのは君。
そこ、噛み合ってる」
私は笑いながら、でも胸が熱くなった。
自分の凹凸が、初めて“使えるもの”に見える。
使えるという言い方は不器用だけど、私は不器用だから仕方ない。
「……でも、私も言う」
私は言った。
彼が眉を上げる。
「なに」
「あなたの凸が、たまに刺さる」
「凸って何」
「勢い。言い切り。結論から。
私が追いつく前に進むやつ」
彼は少し考えてから頷いた。
「なるほど。刺さる時は?」
「疲れてる時。余裕がない時。
あと……私が言いたいことを言えてない時」
最後は小さく言った。
でも、言えた。
言えたことが、今日の勝ちだ。
「じゃあ、それも前提にする」
彼が言う。
「刺さりそうな時は、速度を落とす。
君は、刺さったって言う。
言わないで黙るの禁止」
禁止。
言われると反発したくなる。
でも私は、禁止が必要なタイプだ。
黙る癖は、最終的に爆発する。
「……努力する」
「努力じゃなくて、合図にしよ」
「合図?」
「刺さった時、合言葉。
たとえば」
彼はにやっとして、言った。
「『凹凸』」
私は目を丸くした。
「そんなそのまま?」
「そのままがいい。短いし」
短い合言葉。
それは、段差に手すりをつけるみたいだ。
「凹凸、って言ったら?」
「俺は速度を落とす。君は、何が刺さったか一個だけ言う。
それで一旦、紅茶飲む」
「最後、紅茶入ってくるのなに」
「最近、うちの生活の万能薬じゃん」
万能薬。
私は笑って、ため息をついた。
ため息は、苛立ちじゃない。
息が戻る音だ。
彼は冷蔵庫から牛乳を出して、カップを二つ用意した。
紅茶じゃなくて、ホットミルク。
甘くない。
でも温かい。
「で、部署の話」
彼が言う。
今度は少しだけゆっくり。
「俺は、変わりたい。
でも君の不安も聞く。
順番、これで合ってる?」
順番。
私がずっと苦手だったのは、たぶん順番だ。
でも今、順番を共有できている。
共有できるなら、私は自分の凹凸を恥ずかしがらなくていい。
「合ってる」
私は頷いた。
「じゃあ、喜んで」
彼が言う。
私は笑って、ちゃんと言った。
「おめでとう。すごい。嬉しい」
彼が笑った。
私の中の“嬉しい”が、やっと前に出た。
不安はまだいるけど、今は後ろに座っている。
順番を守れた。
「で、不安も聞く」
彼が言う。
私はホットミルクを一口飲んでから、言った。
「帰りが遅くなる日、増える?」
「増えるかも。最初だけ」
「……私、最初が一番苦手」
「知ってる。じゃあ最初は、毎日一回だけ連絡する。短く。
『今どこ』とかじゃなくて、『今日も生きてる』ってやつ」
「それ、誰得」
「君得。俺得」
私は笑ってしまった。
笑いながら、胸の段差が少しずつ整地されていくのを感じる。
平らにはならない。
平らにしない。
凹凸があるから、噛み合う。
噛み合うから、回る。
夜、私はソファに座って彼の肩に寄りかかった。
寄りかかるのも、凹凸だ。
私は寄りかかりたい時と、離れたい時が極端にある。
彼は、その極端さに案外強い。
「ねえ」
私が言う。
「今日の私、ちゃんと言えた?」
「言えた。
凹凸の話を、凹凸のまま」
「……合言葉、まだ使ってない」
「使わない日もある。それはそれで、天気がいいってこと」
天気。
私は窓の外を見た。
夜の空は、雲が少ない。
でも、雲があってもいい。
凹凸があってもいい。
私は小さく言った。
「凹凸」
彼がすぐに顔を向ける。
「刺さった?」
「ううん。
ただ、覚えておきたかった。
私たちの手すり」
彼が笑って、私の頭を軽く撫でた。
撫でられると、私は少しだけ丸くなる。
でも凹凸は消えない。
消えないまま、生活は回る。
その回り方が、今日はちょっと好きだった。




