嘘みたいな本当
「絵空事に、しておけば楽だったのに」
言葉は、やっとのことで口の外に出ると、途端に他人みたいな顔をする。
それを言ったのは私だ。
でも、言った瞬間の私は、もう一歩だけ前の私じゃない。
紙の上に描いた空が、机の端で揺れている。
青い絵具の滲み。白い雲の跡。
余白に小さく書かれた名前。
私の名前じゃない。私が書いたわけでもない。
それなのに、私の胸のど真ん中に刺さっている。
久しぶりに開いた古い段ボール箱から、その紙が出てきたのは、引っ越し準備の最中だった。
段ボール箱には、過去の“捨てそこね”が詰まっている。捨てそこねは、基本的にまだ生きている。死んだふりをして、箱の奥で息をしている。
私は床に座り込んで、紙を広げた。
指で雲をなぞる。
小学生の絵だ。上手くない。でも、空気の匂いがある。
この匂いを、私は知っている。
十年前の、夏の終わり。
体育館の隅。
絵の具と汗の混ざった匂い。
私が「もう無理だ」と思った日の匂い。
あの日、私は美術部の部室から逃げた。
逃げた理由は、簡単に言えば“才能”だ。
簡単に言うと軽くなる。軽くなるほど、痛みは鈍る。
でも本当は、才能じゃない。
才能の差を見せつけられて、嫌になったんじゃない。
私は、誰かの“まっすぐ”が怖くなった。
それが、あの子だった。
真っ直ぐな目で「すごい」と言ってくる。
真っ直ぐな手で「一緒に描こう」と引っ張ってくる。
真っ直ぐな心で「好きな色を使っていい」と言い切る。
そんなもの、嘘みたいだ。
嘘みたいだから、信じるのが怖い。
信じたら、裏切られたときに立っていられない。
だから私は、絵をやめた。
正確には、“絵をやめた人”を演じた。
そのほうが楽だった。
絵なんて、所詮絵空事。空を描いても空は変わらない。
そう言い切れたら、負けてない顔ができた。
段ボール箱の底から、もう一枚の紙が出てきた。
封筒。
中には、短い手紙。
『もしまた描きたくなったら、ここに来て』
住所が書いてある。
近所の小さなアトリエ。
差出人の名前は、当たり前みたいにそこにあった。
私がずっと避けてきた名前。
いまさら、と思う。
でも、段ボール箱の底から出てきたのは“いまさら”のためだ。過去は、勝手に現在に届く。配送指定なしで。
私はスマホを握って、地図アプリに住所を打った。
徒歩二十分。
近い。
近いのに、十年分遠い。
外は曇り。
雨が降るか降らないかの空。
私は折りたたみ傘をバッグに入れた。念のため。
念のため、は私の人生の標準装備だ。
念のためを重ねると、本音が遠くなる。
でも今日の念のためは、逃げ道じゃなくて保険にしたい。
アトリエは、商店街の裏通りにあった。
ガラス窓に、絵の具の跡が点々と残っている。
扉には小さな看板。
“OPEN”
開いている。
開いているから怖い。
閉まっていたら、今日は帰れたのに。
私は深呼吸して、ノブに手をかけた。
ドアベルが鳴る。チリン。
懐かしい音。
懐かしい音は、胸の奥を勝手にほどく。
「いらっしゃいませ」
奥から声がした。
その声も、懐かしい。
変わっているはずなのに、変わっていない場所がある。声の温度。
彼女が顔を出した。
昔の“あの子”は、いまは大人の顔をしている。髪が長い。指先に絵の具がついている。エプロン。目は、相変わらず真っ直ぐ。
真っ直ぐで、怖い。
怖いのに、嬉しい。
「……え」
彼女が目を丸くした。
「もしかして……」
私は紙を握りしめた。
絵空事の空。
これを持ってきた自分が、笑えてくる。
十年越しに“宿題”を提出しに来たみたいだ。
「久しぶり」
私は言った。
声が震えた。震えてもいい。今日は、震える日のほうが本物だ。
「久しぶり……! え、どうしたの。連絡とか、ずっと……」
彼女は言いかけて、口を閉じた。
責めない。
責めないまま、驚いている。
その驚きが、やさしい。
「引っ越すから、片づけてた。そしたら、これが出てきた」
私は紙を差し出した。
彼女が受け取って、ふっと笑う。
「覚えてる。これ、あなたの空」
「……私の?」
「うん。あなたが描いたやつを、私が少しだけ手伝った。雲の端っこ」
私は目を瞬いた。
私が描いた?
私はずっと、“あの日の私は何も描けなかった”と思っていた。逃げたから。
でも、描いていた。雲の端っこだけでも。
「入って。話そう」
彼女が言う。
私は靴を脱ぎ、床の木の感触を足裏で確かめた。
アトリエの匂い。絵の具。紙。少しの溶剤。
匂いは、記憶のスイッチだ。
私の中の十年が、バチッと起きる。
小さなテーブル。二つのマグカップ。
彼女が紅茶を淹れた。
紅茶。
最近、私の人生は紅茶に助けられがちだ。
湯気は、結論を薄める。
「……ずっと、来るかもって思ってた」
彼女が言った。
「来ないと思ってた」
「思った。来ないかもって。
でも、来たくなる日が来るかもって」
私の胸が痛い。
“来たくなる日”は、私が自分で潰してきた日だ。
潰したのに、残っていた。紙の箱の底に。
「手紙、出した。返事来なかったけど」
「ごめん。……捨てられなかっただけで、読まなかった」
「読んでよ」
彼女が笑う。
笑い方が、少しだけ昔より大人だ。
でも笑いの芯は同じ。
私の胸が、少しだけほどける。
「なんで、絵やめたの」
彼女が聞く。
逃げ道を塞ぐ質問。
私はカップを両手で包み、湯気に顔を寄せた。
「絵空事だと思ったから」
「絵は、空事じゃないよ」
「知ってる。今なら。……でも当時は、そう言うしかなかった」
「何から逃げたの?」
私は黙った。
言えるなら、十年前に言ってる。
でも今日は、言うために来た。未送信を送るために。
「……あなたから」
言った瞬間、彼女の目が少し揺れた。
怒るかと思った。
でも彼女は怒らなかった。
ゆっくり頷いた。
「私、怖かった?」
「怖かった。
あなたの“好き”が、真っ直ぐすぎて。
私の“嫌い”が、ずるすぎて。
並ぶと、自分が汚く見えた」
彼女は黙って聞いている。
聞いている間、私の言葉は続けられる。
「それで、逃げた。
絵が嫌いになったふりをして、才能のせいにして、全部絵空事にした」
彼女が息を吐いた。
それは、怒りじゃない。
少しの悔しさと、少しの安心が混ざった吐息。
「私、あのとき、あなたの空が好きだった」
彼女が言う。
「雲の端っこ、あなたの線だった。
線ってね、性格が出るんだよ。
あなたの線は、怖がりなのに優しい線だった」
優しい線。
私は笑ってしまいそうになって、笑えなかった。
泣きそうで、泣かなかった。
今日は泣いてもいいのに、泣く前に言いたいことがある。
「……いまさらだけど」
私は言った。
「絵、もう一回描いてみたい」
言った瞬間、胸の奥で何かがカチッと鳴った。
鍵が開く音。
“絵をやめた人”の仮面が、少しだけずれた音。
彼女は、笑った。
今度は、まっすぐな笑い。
「やろう」
「え」
「やろう。いま。
絵はね、タイミングを選ぶと遠くなる。
だから、いま」
彼女は立ち上がり、棚からスケッチブックを出した。
鉛筆も。消しゴムも。
机の上に置く動作が、儀式みたいだ。
“絵空事を本気にする”儀式。
「でも、私、上手くない」
「上手くなくていい。
上手くないのに描くのが、いちばん本物」
本物。
その言葉が、前の私なら怖かった。
でも今は、怖いまま触れたい。
私は鉛筆を持った。
指が震える。
震えるのに、鉛筆は軽い。
軽いから、余計に怖い。重いなら言い訳できるのに。
「何、描く」
彼女が聞く。
私は窓の外を見た。
曇り空。
でも、雲の隙間に薄い光が差している。
十年前の空より、少しだけ複雑な色。
「空」
私は言った。
また空。
空に戻ってきた。
逃げた場所に戻ってきた。
鉛筆を走らせる。
線が出る。
出るだけで、私は少し驚いた。
線は、まだ出る。
死んだふりをしていただけで、手は覚えている。
雲の輪郭。
光の筋。
そして、余白。
余白に、私は小さく書いた。
“絵空事じゃない”
書いて、私は笑った。
笑ってしまった。
でもこれは逃げの笑いじゃない。
確認の笑いだ。
自分がまだ、何かを信じたいと分かった笑い。
彼女が、私の紙の端にそっと手を置いた。
雲の端っこを、ほんの少しだけ足す。
十年前と同じように。
同じように見えて、違う。
今の私は逃げない。
「ねえ」
彼女が言った。
「絵空事って、悪い言葉じゃないよ」
「え」
「絵空事は、最初は空っぽの空。
でも描いたら、そこに空気が入る。
空気が入ったら、もう空事じゃない」
私は鉛筆を置いて、深呼吸した。
空気が、ちゃんと胸に入る。
空気が入ると、言葉も入る。
「……じゃあ、私の“好き”も」
私は言った。
絵じゃない話を、そっと差し出す。
「絵空事にしないで、言っていい?」
彼女は、まっすぐ頷いた。
「うん。いま」
いま。
私はその合図に乗って、言った。
「あなたが怖かった。
でも、あなたがいなければ、私は空を描けなかった。
……ありがとう」
彼女が笑った。
雲の端っこみたいな笑い。
「どういたしまして。
で、引っ越し先でも描く?」
私は頷いた。
「描く。
段ボール箱に入れないようにする」
「入れてもいいよ。
でも、底に押し込まないで。取り出せる場所に」
私は笑って、鉛筆をまた握った。
空はまだ曇っている。
でも、曇りの空も描ける。
曇りを描けるなら、たぶん生きていける。
絵空事にしておけば楽だった。
でも、楽にしなかった。
今日は、空を描く手がある。
それだけで十分、本当だ。




