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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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14/20

嘘みたいな本当

 「絵空事に、しておけば楽だったのに」


 言葉は、やっとのことで口の外に出ると、途端に他人みたいな顔をする。

 それを言ったのは私だ。

 でも、言った瞬間の私は、もう一歩だけ前の私じゃない。


 紙の上に描いた空が、机の端で揺れている。

 青い絵具の滲み。白い雲の跡。

 余白に小さく書かれた名前。

 私の名前じゃない。私が書いたわけでもない。

 それなのに、私の胸のど真ん中に刺さっている。


 久しぶりに開いた古い段ボール箱から、その紙が出てきたのは、引っ越し準備の最中だった。

 段ボール箱には、過去の“捨てそこね”が詰まっている。捨てそこねは、基本的にまだ生きている。死んだふりをして、箱の奥で息をしている。


 私は床に座り込んで、紙を広げた。

 指で雲をなぞる。

 小学生の絵だ。上手くない。でも、空気の匂いがある。

 この匂いを、私は知っている。


 十年前の、夏の終わり。

 体育館の隅。

 絵の具と汗の混ざった匂い。

 私が「もう無理だ」と思った日の匂い。


 あの日、私は美術部の部室から逃げた。

 逃げた理由は、簡単に言えば“才能”だ。

 簡単に言うと軽くなる。軽くなるほど、痛みは鈍る。

 でも本当は、才能じゃない。

 才能の差を見せつけられて、嫌になったんじゃない。

 私は、誰かの“まっすぐ”が怖くなった。


 それが、あの子だった。


 真っ直ぐな目で「すごい」と言ってくる。

 真っ直ぐな手で「一緒に描こう」と引っ張ってくる。

 真っ直ぐな心で「好きな色を使っていい」と言い切る。

 そんなもの、嘘みたいだ。

 嘘みたいだから、信じるのが怖い。

 信じたら、裏切られたときに立っていられない。


 だから私は、絵をやめた。

 正確には、“絵をやめた人”を演じた。

 そのほうが楽だった。

 絵なんて、所詮絵空事。空を描いても空は変わらない。

 そう言い切れたら、負けてない顔ができた。


 段ボール箱の底から、もう一枚の紙が出てきた。

 封筒。

 中には、短い手紙。


『もしまた描きたくなったら、ここに来て』


 住所が書いてある。

 近所の小さなアトリエ。

 差出人の名前は、当たり前みたいにそこにあった。

 私がずっと避けてきた名前。


 いまさら、と思う。

 でも、段ボール箱の底から出てきたのは“いまさら”のためだ。過去は、勝手に現在に届く。配送指定なしで。


 私はスマホを握って、地図アプリに住所を打った。

 徒歩二十分。

 近い。

 近いのに、十年分遠い。


 外は曇り。

 雨が降るか降らないかの空。

 私は折りたたみ傘をバッグに入れた。念のため。

 念のため、は私の人生の標準装備だ。

 念のためを重ねると、本音が遠くなる。

 でも今日の念のためは、逃げ道じゃなくて保険にしたい。


 アトリエは、商店街の裏通りにあった。

 ガラス窓に、絵の具の跡が点々と残っている。

 扉には小さな看板。


 “OPEN”


 開いている。

 開いているから怖い。

 閉まっていたら、今日は帰れたのに。


 私は深呼吸して、ノブに手をかけた。

 ドアベルが鳴る。チリン。

 懐かしい音。

 懐かしい音は、胸の奥を勝手にほどく。


「いらっしゃいませ」


 奥から声がした。

 その声も、懐かしい。

 変わっているはずなのに、変わっていない場所がある。声の温度。


 彼女が顔を出した。

 昔の“あの子”は、いまは大人の顔をしている。髪が長い。指先に絵の具がついている。エプロン。目は、相変わらず真っ直ぐ。

 真っ直ぐで、怖い。

 怖いのに、嬉しい。


「……え」


 彼女が目を丸くした。


「もしかして……」


 私は紙を握りしめた。

 絵空事の空。

 これを持ってきた自分が、笑えてくる。

 十年越しに“宿題”を提出しに来たみたいだ。


「久しぶり」


 私は言った。

 声が震えた。震えてもいい。今日は、震える日のほうが本物だ。


「久しぶり……! え、どうしたの。連絡とか、ずっと……」


 彼女は言いかけて、口を閉じた。

 責めない。

 責めないまま、驚いている。

 その驚きが、やさしい。


「引っ越すから、片づけてた。そしたら、これが出てきた」


 私は紙を差し出した。

 彼女が受け取って、ふっと笑う。


「覚えてる。これ、あなたの空」


「……私の?」


「うん。あなたが描いたやつを、私が少しだけ手伝った。雲の端っこ」


 私は目を瞬いた。

 私が描いた?

 私はずっと、“あの日の私は何も描けなかった”と思っていた。逃げたから。

 でも、描いていた。雲の端っこだけでも。


「入って。話そう」


 彼女が言う。

 私は靴を脱ぎ、床の木の感触を足裏で確かめた。

 アトリエの匂い。絵の具。紙。少しの溶剤。

 匂いは、記憶のスイッチだ。

 私の中の十年が、バチッと起きる。


 小さなテーブル。二つのマグカップ。

 彼女が紅茶を淹れた。

 紅茶。

 最近、私の人生は紅茶に助けられがちだ。

 湯気は、結論を薄める。


「……ずっと、来るかもって思ってた」


 彼女が言った。


「来ないと思ってた」


「思った。来ないかもって。

 でも、来たくなる日が来るかもって」


 私の胸が痛い。

 “来たくなる日”は、私が自分で潰してきた日だ。

 潰したのに、残っていた。紙の箱の底に。


「手紙、出した。返事来なかったけど」


「ごめん。……捨てられなかっただけで、読まなかった」


「読んでよ」


 彼女が笑う。

 笑い方が、少しだけ昔より大人だ。

 でも笑いの芯は同じ。

 私の胸が、少しだけほどける。


「なんで、絵やめたの」


 彼女が聞く。

 逃げ道を塞ぐ質問。

 私はカップを両手で包み、湯気に顔を寄せた。


「絵空事だと思ったから」


「絵は、空事じゃないよ」


「知ってる。今なら。……でも当時は、そう言うしかなかった」


「何から逃げたの?」


 私は黙った。

 言えるなら、十年前に言ってる。

 でも今日は、言うために来た。未送信を送るために。


「……あなたから」


 言った瞬間、彼女の目が少し揺れた。

 怒るかと思った。

 でも彼女は怒らなかった。

 ゆっくり頷いた。


「私、怖かった?」


「怖かった。

 あなたの“好き”が、真っ直ぐすぎて。

 私の“嫌い”が、ずるすぎて。

 並ぶと、自分が汚く見えた」


 彼女は黙って聞いている。

 聞いている間、私の言葉は続けられる。


「それで、逃げた。

 絵が嫌いになったふりをして、才能のせいにして、全部絵空事にした」


 彼女が息を吐いた。

 それは、怒りじゃない。

 少しの悔しさと、少しの安心が混ざった吐息。


「私、あのとき、あなたの空が好きだった」


 彼女が言う。


「雲の端っこ、あなたの線だった。

 線ってね、性格が出るんだよ。

 あなたの線は、怖がりなのに優しい線だった」


 優しい線。

 私は笑ってしまいそうになって、笑えなかった。

 泣きそうで、泣かなかった。

 今日は泣いてもいいのに、泣く前に言いたいことがある。


「……いまさらだけど」


 私は言った。


「絵、もう一回描いてみたい」


 言った瞬間、胸の奥で何かがカチッと鳴った。

 鍵が開く音。

 “絵をやめた人”の仮面が、少しだけずれた音。


 彼女は、笑った。

 今度は、まっすぐな笑い。


「やろう」


「え」


「やろう。いま。

 絵はね、タイミングを選ぶと遠くなる。

 だから、いま」


 彼女は立ち上がり、棚からスケッチブックを出した。

 鉛筆も。消しゴムも。

 机の上に置く動作が、儀式みたいだ。

 “絵空事を本気にする”儀式。


「でも、私、上手くない」


「上手くなくていい。

 上手くないのに描くのが、いちばん本物」


 本物。

 その言葉が、前の私なら怖かった。

 でも今は、怖いまま触れたい。


 私は鉛筆を持った。

 指が震える。

 震えるのに、鉛筆は軽い。

 軽いから、余計に怖い。重いなら言い訳できるのに。


「何、描く」


 彼女が聞く。


 私は窓の外を見た。

 曇り空。

 でも、雲の隙間に薄い光が差している。

 十年前の空より、少しだけ複雑な色。


「空」


 私は言った。

 また空。

 空に戻ってきた。

 逃げた場所に戻ってきた。


 鉛筆を走らせる。

 線が出る。

 出るだけで、私は少し驚いた。

 線は、まだ出る。

 死んだふりをしていただけで、手は覚えている。


 雲の輪郭。

 光の筋。

 そして、余白。


 余白に、私は小さく書いた。


 “絵空事じゃない”


 書いて、私は笑った。

 笑ってしまった。

 でもこれは逃げの笑いじゃない。

 確認の笑いだ。

 自分がまだ、何かを信じたいと分かった笑い。


 彼女が、私の紙の端にそっと手を置いた。

 雲の端っこを、ほんの少しだけ足す。

 十年前と同じように。

 同じように見えて、違う。

 今の私は逃げない。


「ねえ」


 彼女が言った。


「絵空事って、悪い言葉じゃないよ」


「え」


「絵空事は、最初は空っぽの空。

 でも描いたら、そこに空気が入る。

 空気が入ったら、もう空事じゃない」


 私は鉛筆を置いて、深呼吸した。

 空気が、ちゃんと胸に入る。

 空気が入ると、言葉も入る。


「……じゃあ、私の“好き”も」


 私は言った。

 絵じゃない話を、そっと差し出す。


「絵空事にしないで、言っていい?」


 彼女は、まっすぐ頷いた。


「うん。いま」


 いま。

 私はその合図に乗って、言った。


「あなたが怖かった。

 でも、あなたがいなければ、私は空を描けなかった。

 ……ありがとう」


 彼女が笑った。

 雲の端っこみたいな笑い。


「どういたしまして。

 で、引っ越し先でも描く?」


 私は頷いた。


「描く。

 段ボール箱に入れないようにする」


「入れてもいいよ。

 でも、底に押し込まないで。取り出せる場所に」


 私は笑って、鉛筆をまた握った。

 空はまだ曇っている。

 でも、曇りの空も描ける。

 曇りを描けるなら、たぶん生きていける。


 絵空事にしておけば楽だった。

 でも、楽にしなかった。

 今日は、空を描く手がある。

 それだけで十分、本当だ。

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