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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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13/20

気持ちは予報できない

 朝六時五十分、スタジオの赤いランプが点く前に、私は今日の空を一回だけ疑う。


 窓の外は薄い雲。だけど風が妙に軽い。こういう日は、予報が当たっても外れる。外れても当たる。つまり、どっちに転んでも「ほらね」って顔ができる。

 できるけど、そういう顔をする人間はだいたい信用を失う。だから私は、真面目な顔を作って原稿を握りしめた。


「本日の天気。午前中は雲が優勢、午後は…」


 口に出す前に、原稿の余白に小さく書いてあるメモが目に入る。


 ※言い切らない

 ※“念のため”を添える

 ※外れたら笑う(ただし笑いすぎない)


 これ、天気のための注意書きじゃない。

 私の生活のための注意書きだ。


 私は地方ラジオ局の新人で、配属は制作。普段は音を切ったり繋いだりする裏方だ。なのに今日は、朝番組の天気コーナーに立っている。理由は単純。担当が寝坊した。


「おはようございます、臨時の空係です」


 ディレクターの佐久間さんがイヤホン越しに小声で笑う。

 笑うな。空係って何。

 でも笑っている場合じゃないのも分かる。ランプが点く。私の心臓も点く。


『それでは、今日の空の様子をお伝えします』


 パーソナリティの声が入る。

 そして私の番。


「おはようございます。空は、いま少し迷っています」


 言ってしまった。

 いきなり詩人みたいなことを。

 佐久間さんが咳払いで笑いを隠しているのが分かる。終わった。社会人として終わった。いや、まだ始まってない。


「ええと、気温は昨日より少し高めです。風があるので体感はひんやり。上着は…念のため、持って出てください。雨は、降っても一時的。傘を持つなら折りたたみが良さそうです」


 ちゃんとしたことを言うと、ちゃんと息ができる。

 天気は数字で助けてくれる。気持ちは数字で助けてくれないのに。


 コーナーが終わって赤いランプが消えると、膝が遅れて震えた。スタジオの椅子に座って、私はやっと笑った。

 外れたら笑う、の“笑う”ってこういうことかもしれない。自分の情けなさに笑う。


「意外といけるじゃん」


 佐久間さんが紙コップのコーヒーを置いてくれる。


「いけてないです、今の“空が迷っています”は完全に事故です」


「事故ってほどじゃない。朝は事故くらいがちょうどいい。みんな眠いし」


 その言い方が優しくて、私は少しだけ救われた。

 救われたとき、人はつい余計なことを言う。


「……気持ちも予報できたらいいのに」


「誰の?」


 佐久間さんの目が、鋭い。空じゃなくて私を見ている。

 私はコーヒーの紙コップを両手で包んで、湯気に逃げた。


「……同居人の」


 答えると、佐久間さんは「あー」と納得する顔をした。


「昨日、やらかした?」


「やらかしました。正確に言うと、やらかして“そのまま寝ました”】【


 昨日の夜、私は家で、たった一言を言えなかった。


 ――ごめん。


 それだけなのに、口の中で何度もつっかえて、喉の奥で固まって、結局「疲れてるから」と言い訳して布団にもぐった。

 言えない言葉は、寝ても消えない。むしろ増える。夢の中でまで未送信が鳴る。


 同居人の千紗は、怒鳴らない。

 怒鳴らないから怖い。

 怒鳴らない人は、ちゃんと距離を取れるから。


 今朝も、家を出る前の千紗は静かだった。

 「行ってきます」

 「いってらっしゃい」

 それだけ。

 傘立てに新しい折りたたみ傘が一本増えていた。たぶん、私が忘れがちなことを見越して。

 優しさが、針みたいに胸に刺さった。


「予報、出してみたら? 千紗さんの」


 佐久間さんが、ふざけるみたいに言う。


「無理ですよ」


「真面目に。例えばさ。『今朝の千紗さんの機嫌は、曇りのち…』みたいな」


 私は笑ってしまった。

 笑いながら、少しだけ真面目になる。


「曇りです。たぶん、ところにより雷」


「雷はあなたのほうでしょ」


 図星だ。私は自分で自分に雷を落としている。

 仕事のミス。言えなかった言葉。気まずい朝。全部が胸の中でピカピカしている。


「じゃあ、今日はどうする」


 佐久間さんが言う。いつもの仕事の声だ。段取りの声。


「……帰ったら、ちゃんと謝ります」


「ちゃんとって?」


「言い切ります。『ごめん』って」


「それが予報?」


「予報じゃなくて……観測」


 佐久間さんが頷いた。

 観測は、当てることより大事だ。今どんな空かを見ること。今どんな顔かを見ること。怖くても。


 午前の編集を終えて、昼休憩。私は局の屋上に上がった。

 空は、まだ迷っている。雲が薄くて、光が柔らかい。予報アプリは“曇り時々晴れ”と出している。便利な言い方だ。どっちも言っておけば負けない言い方。


 でも私は今日、負けない言い方をやめたい。

 負けたっていいから、ちゃんと言いたい。


 ポケットのスマホを取り出して、千紗にメッセージを打った。


『今日、少し早く帰れる。夜、話したい。傘いる?』


 最後の「傘いる?」は、逃げだ。

 話したいのに天気の話で誤魔化している。

 私はその一文を消して、書き直した。


『今日、少し早く帰れる。昨日のこと、ちゃんと謝りたい』


 送信。

 青いボタンが押せた。

 胸の奥が少しだけ軽くなる。空気が入る。


 数分後、返事が来た。


『了解。こっちは大丈夫。帰り、気をつけて』


 大丈夫。

 その言葉の中身は、まだ分からない。

 でも“返事が来た”という事実が、私の背中を押す。背中を押すのは、予報じゃなくて観測だ。


 夕方、私は珍しく定時で退社した。

 駅前の空は、薄い夕焼け。雲の縁が金色に光っている。

 折りたたみ傘はバッグに入っている。念のため、のやつ。

 私はそれを握りしめながら歩いた。傘は雨だけじゃなく、言葉の逃げ場所にもなる。差せば顔が隠れる。

 今日は差さない。


 家の鍵を回す。

 カチッ。

 その音が、朝の赤いランプみたいに聞こえた。

 始まる。ここから。


「ただいま」


 返事はすぐに来ない。

 リビングの奥から、鍋の音がする。

 匂いはいつものスープ。安心する匂い。安心すると、また言えなくなりそうで、私は靴を揃える手を止めた。


 千紗がキッチンから顔を出す。エプロン。髪をまとめてる。目は、曇り。たしかに曇り。


「おかえり」


「……ただいま」


 私はリビングの真ん中に立った。逃げないために。椅子に座ると、座ったまま逃げたくなるから。


「千紗、昨日のこと」


 千紗が手を止める。鍋の音が小さくなる。


「うん」


「……ごめん」


 言い切った。

 言い切った瞬間、喉の奥の固まりがひとつ溶けた気がした。

 千紗の表情は変わらない。曇りのまま。

 でも、曇りは雨じゃない。


「何がごめん?」


 千紗が聞く。逃げ道を塞ぐ質問。

 私は観測を続ける。


「疲れてるって言って、話すのを避けた。避けたまま寝た。

 本当は、言うことがあったのに」


「言うこと?」


 私は息を吸って、吐いて、言った。


「私、昨日、あなたが作ってくれたご飯、ちゃんと美味しかった。

 美味しかったのに、仕事でイライラして、感想を雑にした。

 そのあと、あなたの顔が曇ったのが分かったのに、見ないふりした」


 千紗が瞬きをする。

 少しだけ、目の曇りが動いた。


「……そこ、見てたんだ」


「見てた。見てたのに、言えなかった」


 千紗が小さく息を吐く。

 雷じゃない。風が抜ける音。


「じゃあ、今日の予報は?」


 千紗が言った。

 予報、という言葉に、私は思わず笑いそうになって、でも笑いすぎない。


「今日の予報は、夜にかけて回復傾向。

 ただし、ところにより……涙」


「ところによりって便利だね」


「便利なのは、天気までにしておく」


 千紗が口の端だけで笑った。

 ほんの少しの晴れ間。

 それが見えた瞬間、胸の奥が温かくなった。温かいと、また言える。


「あと」


 私は続けた。


「朝、傘を増やしてくれたでしょ。ありがとう。

 私、忘れるから。忘れるのに、忘れたって言えない。

 だから、こういうとき…一旦、紅茶でも飲めばよかった」


 千紗が、鍋の火を弱めながら言う。


「あなたの局、最近紅茶推し?」


「たまたまです。偶然です」


「偶然で人生回せるなら、私も偶然に乗る」


 千紗がカップを二つ出した。

 紅茶じゃなくて、スープの前に白湯。

 湯気が上がる。湯気は、結論を薄める。


「座って。話すなら、まず飲んで」


 私は頷いて、椅子に座った。

 逃げるためじゃない。ちゃんと居るために。


 白湯を一口飲む。

 喉がほどける。

 ほどけると、言葉が出る。


「今日さ、朝のラジオで天気やった」


「え、あなたが?」


「臨時の空係」


「空係って何」


 千紗が笑った。ちゃんと笑った。

 晴れ。

 私は、その笑いを観測して、心の中で小さく報告する。


 ――回復、確認。


「で、どうだった?」


「空が迷ってるとか言って事故った」


「あなたらしい」


「褒めてないでしょ」


「褒めてない。でも、嫌いじゃない」


 その言い方が、千紗らしい。

 私は、胸がぎゅっとなる。ぎゅっとなるけど、苦しくない。

 ぎゅっとなるのは、ちゃんと届いた証拠だ。


 窓の外で、雲の切れ間から光が落ちた。

 一瞬だけ、部屋が明るくなる。

 天気は予報できても、気持ちは予報できない。

 でも、観測はできる。言葉を出せば、相手の表情が変わる。変わらなくても、変わらないを共有できる。


 私は千紗のカップを見て、言った。


「今日の私の予報、最後にひとつ」


「なに」


「夜にかけて、あなたのことをちゃんと見る。

 外れたら……」


「外れたら?」


 私は少し考えて、言った。


「そのときは、一旦、紅茶飲む」


 千紗が吹き出した。


「便利すぎるでしょ、それ」


「便利は、愛の言葉らしい」


「誰情報」


「局情報です」


 笑い声が、鍋のふたの内側に反射して、部屋に広がった。

 空はまだ迷っている。雲は完全には晴れていない。

 でも、傘を差すほどじゃない。


 今日の天気は、たぶんそんな感じで十分だった。

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