気持ちは予報できない
朝六時五十分、スタジオの赤いランプが点く前に、私は今日の空を一回だけ疑う。
窓の外は薄い雲。だけど風が妙に軽い。こういう日は、予報が当たっても外れる。外れても当たる。つまり、どっちに転んでも「ほらね」って顔ができる。
できるけど、そういう顔をする人間はだいたい信用を失う。だから私は、真面目な顔を作って原稿を握りしめた。
「本日の天気。午前中は雲が優勢、午後は…」
口に出す前に、原稿の余白に小さく書いてあるメモが目に入る。
※言い切らない
※“念のため”を添える
※外れたら笑う(ただし笑いすぎない)
これ、天気のための注意書きじゃない。
私の生活のための注意書きだ。
私は地方ラジオ局の新人で、配属は制作。普段は音を切ったり繋いだりする裏方だ。なのに今日は、朝番組の天気コーナーに立っている。理由は単純。担当が寝坊した。
「おはようございます、臨時の空係です」
ディレクターの佐久間さんがイヤホン越しに小声で笑う。
笑うな。空係って何。
でも笑っている場合じゃないのも分かる。ランプが点く。私の心臓も点く。
『それでは、今日の空の様子をお伝えします』
パーソナリティの声が入る。
そして私の番。
「おはようございます。空は、いま少し迷っています」
言ってしまった。
いきなり詩人みたいなことを。
佐久間さんが咳払いで笑いを隠しているのが分かる。終わった。社会人として終わった。いや、まだ始まってない。
「ええと、気温は昨日より少し高めです。風があるので体感はひんやり。上着は…念のため、持って出てください。雨は、降っても一時的。傘を持つなら折りたたみが良さそうです」
ちゃんとしたことを言うと、ちゃんと息ができる。
天気は数字で助けてくれる。気持ちは数字で助けてくれないのに。
コーナーが終わって赤いランプが消えると、膝が遅れて震えた。スタジオの椅子に座って、私はやっと笑った。
外れたら笑う、の“笑う”ってこういうことかもしれない。自分の情けなさに笑う。
「意外といけるじゃん」
佐久間さんが紙コップのコーヒーを置いてくれる。
「いけてないです、今の“空が迷っています”は完全に事故です」
「事故ってほどじゃない。朝は事故くらいがちょうどいい。みんな眠いし」
その言い方が優しくて、私は少しだけ救われた。
救われたとき、人はつい余計なことを言う。
「……気持ちも予報できたらいいのに」
「誰の?」
佐久間さんの目が、鋭い。空じゃなくて私を見ている。
私はコーヒーの紙コップを両手で包んで、湯気に逃げた。
「……同居人の」
答えると、佐久間さんは「あー」と納得する顔をした。
「昨日、やらかした?」
「やらかしました。正確に言うと、やらかして“そのまま寝ました”】【
昨日の夜、私は家で、たった一言を言えなかった。
――ごめん。
それだけなのに、口の中で何度もつっかえて、喉の奥で固まって、結局「疲れてるから」と言い訳して布団にもぐった。
言えない言葉は、寝ても消えない。むしろ増える。夢の中でまで未送信が鳴る。
同居人の千紗は、怒鳴らない。
怒鳴らないから怖い。
怒鳴らない人は、ちゃんと距離を取れるから。
今朝も、家を出る前の千紗は静かだった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
それだけ。
傘立てに新しい折りたたみ傘が一本増えていた。たぶん、私が忘れがちなことを見越して。
優しさが、針みたいに胸に刺さった。
「予報、出してみたら? 千紗さんの」
佐久間さんが、ふざけるみたいに言う。
「無理ですよ」
「真面目に。例えばさ。『今朝の千紗さんの機嫌は、曇りのち…』みたいな」
私は笑ってしまった。
笑いながら、少しだけ真面目になる。
「曇りです。たぶん、ところにより雷」
「雷はあなたのほうでしょ」
図星だ。私は自分で自分に雷を落としている。
仕事のミス。言えなかった言葉。気まずい朝。全部が胸の中でピカピカしている。
「じゃあ、今日はどうする」
佐久間さんが言う。いつもの仕事の声だ。段取りの声。
「……帰ったら、ちゃんと謝ります」
「ちゃんとって?」
「言い切ります。『ごめん』って」
「それが予報?」
「予報じゃなくて……観測」
佐久間さんが頷いた。
観測は、当てることより大事だ。今どんな空かを見ること。今どんな顔かを見ること。怖くても。
午前の編集を終えて、昼休憩。私は局の屋上に上がった。
空は、まだ迷っている。雲が薄くて、光が柔らかい。予報アプリは“曇り時々晴れ”と出している。便利な言い方だ。どっちも言っておけば負けない言い方。
でも私は今日、負けない言い方をやめたい。
負けたっていいから、ちゃんと言いたい。
ポケットのスマホを取り出して、千紗にメッセージを打った。
『今日、少し早く帰れる。夜、話したい。傘いる?』
最後の「傘いる?」は、逃げだ。
話したいのに天気の話で誤魔化している。
私はその一文を消して、書き直した。
『今日、少し早く帰れる。昨日のこと、ちゃんと謝りたい』
送信。
青いボタンが押せた。
胸の奥が少しだけ軽くなる。空気が入る。
数分後、返事が来た。
『了解。こっちは大丈夫。帰り、気をつけて』
大丈夫。
その言葉の中身は、まだ分からない。
でも“返事が来た”という事実が、私の背中を押す。背中を押すのは、予報じゃなくて観測だ。
夕方、私は珍しく定時で退社した。
駅前の空は、薄い夕焼け。雲の縁が金色に光っている。
折りたたみ傘はバッグに入っている。念のため、のやつ。
私はそれを握りしめながら歩いた。傘は雨だけじゃなく、言葉の逃げ場所にもなる。差せば顔が隠れる。
今日は差さない。
家の鍵を回す。
カチッ。
その音が、朝の赤いランプみたいに聞こえた。
始まる。ここから。
「ただいま」
返事はすぐに来ない。
リビングの奥から、鍋の音がする。
匂いはいつものスープ。安心する匂い。安心すると、また言えなくなりそうで、私は靴を揃える手を止めた。
千紗がキッチンから顔を出す。エプロン。髪をまとめてる。目は、曇り。たしかに曇り。
「おかえり」
「……ただいま」
私はリビングの真ん中に立った。逃げないために。椅子に座ると、座ったまま逃げたくなるから。
「千紗、昨日のこと」
千紗が手を止める。鍋の音が小さくなる。
「うん」
「……ごめん」
言い切った。
言い切った瞬間、喉の奥の固まりがひとつ溶けた気がした。
千紗の表情は変わらない。曇りのまま。
でも、曇りは雨じゃない。
「何がごめん?」
千紗が聞く。逃げ道を塞ぐ質問。
私は観測を続ける。
「疲れてるって言って、話すのを避けた。避けたまま寝た。
本当は、言うことがあったのに」
「言うこと?」
私は息を吸って、吐いて、言った。
「私、昨日、あなたが作ってくれたご飯、ちゃんと美味しかった。
美味しかったのに、仕事でイライラして、感想を雑にした。
そのあと、あなたの顔が曇ったのが分かったのに、見ないふりした」
千紗が瞬きをする。
少しだけ、目の曇りが動いた。
「……そこ、見てたんだ」
「見てた。見てたのに、言えなかった」
千紗が小さく息を吐く。
雷じゃない。風が抜ける音。
「じゃあ、今日の予報は?」
千紗が言った。
予報、という言葉に、私は思わず笑いそうになって、でも笑いすぎない。
「今日の予報は、夜にかけて回復傾向。
ただし、ところにより……涙」
「ところによりって便利だね」
「便利なのは、天気までにしておく」
千紗が口の端だけで笑った。
ほんの少しの晴れ間。
それが見えた瞬間、胸の奥が温かくなった。温かいと、また言える。
「あと」
私は続けた。
「朝、傘を増やしてくれたでしょ。ありがとう。
私、忘れるから。忘れるのに、忘れたって言えない。
だから、こういうとき…一旦、紅茶でも飲めばよかった」
千紗が、鍋の火を弱めながら言う。
「あなたの局、最近紅茶推し?」
「たまたまです。偶然です」
「偶然で人生回せるなら、私も偶然に乗る」
千紗がカップを二つ出した。
紅茶じゃなくて、スープの前に白湯。
湯気が上がる。湯気は、結論を薄める。
「座って。話すなら、まず飲んで」
私は頷いて、椅子に座った。
逃げるためじゃない。ちゃんと居るために。
白湯を一口飲む。
喉がほどける。
ほどけると、言葉が出る。
「今日さ、朝のラジオで天気やった」
「え、あなたが?」
「臨時の空係」
「空係って何」
千紗が笑った。ちゃんと笑った。
晴れ。
私は、その笑いを観測して、心の中で小さく報告する。
――回復、確認。
「で、どうだった?」
「空が迷ってるとか言って事故った」
「あなたらしい」
「褒めてないでしょ」
「褒めてない。でも、嫌いじゃない」
その言い方が、千紗らしい。
私は、胸がぎゅっとなる。ぎゅっとなるけど、苦しくない。
ぎゅっとなるのは、ちゃんと届いた証拠だ。
窓の外で、雲の切れ間から光が落ちた。
一瞬だけ、部屋が明るくなる。
天気は予報できても、気持ちは予報できない。
でも、観測はできる。言葉を出せば、相手の表情が変わる。変わらなくても、変わらないを共有できる。
私は千紗のカップを見て、言った。
「今日の私の予報、最後にひとつ」
「なに」
「夜にかけて、あなたのことをちゃんと見る。
外れたら……」
「外れたら?」
私は少し考えて、言った。
「そのときは、一旦、紅茶飲む」
千紗が吹き出した。
「便利すぎるでしょ、それ」
「便利は、愛の言葉らしい」
「誰情報」
「局情報です」
笑い声が、鍋のふたの内側に反射して、部屋に広がった。
空はまだ迷っている。雲は完全には晴れていない。
でも、傘を差すほどじゃない。
今日の天気は、たぶんそんな感じで十分だった。




