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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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ポケットに入る大事

 “だいじなもん”って言い方は、ちょっとずるい。

 大事なもの、って硬く言うと、急に誓約書みたいになるのに、

 だいじなもん、って言うと、ポケットに入る。

 手のひらに収まる。

 それでいて、失くしたら困る。


 朝、千紗が玄関の棚の上で、鍵を探していた。

 探しているというより、鍵の周りの世界を一回ひっくり返している。

 アンは椅子の上からそれを見ている。椅子。第三の動き。

 猫の顔が「人間って…」と言っている。裁判官みたいに。


「ない」

 千紗が言う。

「絶対ここに置いたのに」

「だいじなもん?」

 僕が聞くと、千紗は鍵束を持ち上げて見せた。

「これがないと外出が詰むやつ」

「それは大事」

「大事。だから焦る」


 焦ると、空気が尖る。

 尖ると、僕の胸の奥が「チッ」を鳴らす準備をする。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 焦りのブザーは伝染する。

 受信機は拾うが、拾いすぎると一緒に沈む。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗が振り向いた。

「凹凸」

 返してくれる。

 それだけで、鍵探しが“事件”じゃなく“作業”になる。


 千紗が冷蔵庫の扉に、新しい貼り紙を貼った。

 いつの間に。貼り紙の忍者。


「だいじなもん=三つまで

 失くしたら:コップ

 見つけたら:ピース

 焦りは:チッ→凹凸→一手

 最後にシャク」


「三つまでって何」

 僕が聞くと、千紗は眉を上げた。

「大事を増やしすぎると、全部が重くなる」

「確かに」

「だから三つ。今日は鍵が一つ。残り二つは…後で決める」

「鍵だけで十分大事だよ」

「うん。でも“だいじ”を鍵だけにすると、鍵が神になる」

「神……」

「神になると、失くした瞬間に世界が終わる。冗談じゃない」


 冗談じゃない。

 でも言い方が可笑しくて、僕は少し笑ってしまった。

 笑いは炭酸。圧抜き。

 暗く沈ませないための、ちょっとした抜け道。


「一手」

 千紗が言う。

「線を引く」

「線?」

「探す範囲。玄関、リビング、カバン。ここまで。それ以上は大会」

「大会化禁止」

「うん。現実通りの範囲でやる」


 僕らは床にマスキングテープを貼った。

 玄関の棚から一歩の範囲に、四角い線。

 線は優しい境界。

 線があると、探す行為が“無限”にならない。


 千紗はその線の内側で、いったん正座した。

「そこに正座」

 自分に言っている。

 うちの正座は罰じゃなくリセット。


 僕も真似して正座した。

 床の冷たさが、焦りの熱を少し吸う。

 呼吸。吐くのが先。クロール。


「錨」

 千紗が言う。

「錨:現実通り」

「理由:鍵は物。なくなっても世界は終わらない」

 言った瞬間、自分で自分を救う感じがした。

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。

「固定。さぁ、探す」


 探す、と決めたら、探す。

 でも強火じゃなく中火。

 僕は玄関の棚の上を見て、次に下を見た。

 千紗はカバンの内ポケットを順番に触る。

 アンは椅子の上であくびをする。猫は焦らない。猫は最強の現実通り。


 ふと、僕の目に、玄関マットの端が少し盛り上がっているのが見えた。

 盛り上がり。

 凹凸。

 僕はマットをめくった。


 鍵束が、そこにあった。

 まるで「ここだよ」と最初から言っていたみたいに。


「……あった」

 僕が言うと、千紗は一拍置いてから笑った。

「そっか○」

「受け取ったの○ね」

「うん。あってよかった」


 胸の奥のブザーが止まる。

 鍵が神になりかけていたのが、ただの物に戻る。

 物に戻ると、愛着は残っても、恐怖は減る。


「見つけたら、ピース」

 千紗が言う。

「欠片→ピース化/完成側へ戻る」

「鍵がピース?」

「うん。今日のピースは“焦りを事件にしなかった”」

「……それ、確かに」

「だいじなもんって、物じゃなくて運用だったりする」


 運用。

 僕らの魔法。

 刃物じゃない武器。


 千紗は鍵束を棚の上に置き直して、今度は小さなトレーを出した。

 木のトレー。

 そこに鍵を置く。


「だいじなもん用の停泊地」

「停泊地」

「うん。タユタウしても戻る場所」

「それ、いい」

「鍵はここ。固定」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ」


 僕はふと、貼り紙の「三つまで」を思い出した。

「残り二つの“だいじ”は?」

 千紗が少し考えて言った。

「アン」

「猫が入るのか」

「入る。だいじなもん」

 アンは知らん顔で椅子に丸まっている。

 でもその体温は、確かに大事だ。


「もう一つは?」

「……あなた」

 千紗がさらっと言って、すぐに咳払いした。

 照れ隠し。

 素直な虹の黄みたいな嬉しさが、僕の中に広がる。


「僕も三つ決める」

 僕は言った。

「千紗、アン、あと一つ」

「あと一つは?」

 僕は少し迷ってから、冷蔵庫を指差した。

「凹凸」

「合言葉が入るの?」

「入る。だいじなもん。刺さったときの手すり」

 千紗が笑って、鈴を鳴らす。ちん。

「いいね。だいじなもん、増えすぎないのも大事」


 午後、僕らは外に出た。

 鍵はトレーから取って、ポケットに入れる。

 ポケットに入る大事。

 だいじなもんは、誓約書じゃなくて生活の道具だ。


 帰りにスーパーでりんごを買った。

 最後にシャク。

 家に戻って、りんごを切る。

 シャク。

 音が、朝の焦りを“ちゃんと終わった話”にしてくれる。


「ねえ」

 僕が言う。

「だいじなもんってさ、守るの大変そうで嫌だった」

「うん」

 千紗が頷く。

「でも、守り方があると軽くなる」

「線とか、トレーとか、凹凸とか」

「そう。だいじなもんは、重く抱えるんじゃなくて、置き場所を作る」

「置き場所」

「椅子でもいい。第三の動き」

 千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。明日も、ポケットに入る大事でいこ」


 アンが椅子の上で目を細めた。

 猫はだいじなもんを、抱えない。

 そのかわり、そこにいる。

 僕らもそれでいい。

 大げさにせず、暗く沈ませず、生活の中で守れるサイズで。

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