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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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12/23

遅れて届く本音

 「いまさら好きだと伝えちゃダメかな」


 その一文を、私は三回打って、三回消した。

 送信ボタンの青さが、深夜のコンビニくらい明るくて、こっちの弱さが全部照らされる。


 ダメかどうかは相手が決める。

 分かってる。分かってるのに、聞き方がずるい。ダメと言われたときに、先に自分で転べるから。

 私の“安全な転び方”は、人生のあちこちに転がっている。


 画面を閉じて、私はテーブルの上の紙袋を見た。

 本。二冊。

 返しそびれたまま、ずっと持っていた本。

 返しそびれた理由は、単純で、情けなくて、でも正直だ。


 返したら、終わってしまう気がした。


 私はコートを羽織って、鍵を掴んだ。

 時計は二十時前。深夜じゃない。まだ、言い訳できる時間だ。

 言い訳できる時間って、実は一番危ない。人は自分に優しい嘘をつけるから。


 でも今日は、嘘より先に歩く。


 駅前の小さな書店は、商店街の端にある。ガラス扉に貼られた「新刊入荷」の文字が、昔と同じ筆跡で、私はそれだけで胸がきゅっとなった。

 私がここを知っているのは、彼がここで働いているから。

 働いて“いた”から、じゃない。働いている。噂で聞いた。偶然見かけた。そういう情報の持ち方も、我ながら未練がましい。


 扉を押すと、鈴が鳴った。

 チリン。

 音が軽い。軽いのに、心臓は重い。


「いらっしゃいませー」


 奥から声がして、私は一瞬で確信した。

 声は、変わっていない。

 変わっていないのに、私のほうが変わってしまったから、懐かしさが痛い。


 レジの前に立って、私は紙袋を握り直す。

 彼が顔を上げる。


 ……いた。


 髪が少し短い。メガネが新しい。指先が前より少し硬そう。

 でも、目が同じだ。誰かを落ち着かせるための目。

 その目が私を捉えた瞬間、彼の表情が一拍遅れて止まった。


「……え」


 その「え」は、びっくりの「え」で、嬉しさの「え」ではなくて、困惑の「え」だった。

 困惑は、拒絶じゃない。

 そう分かっているのに、胸がひゅっと縮む。


「……久しぶり」


 私は言った。

 久しぶりが言えただけで、今日の私、えらい。いや、えらいって言うな。そうやって自分を褒めて逃げるな。


 彼はすぐに仕事の顔を取り戻した。取り戻せるのがプロだし、取り戻すのが彼の優しさだ。


「久しぶり。……どうしたの」


 どうしたの。

 それは、「なぜ今ここに?」と同義だ。

 私は紙袋をそっとレジ台に置いた。


「本、返しに」


 彼は紙袋を見て、少し目を見開く。


「……え、これ」


「うん。借りたまま、返してなくて」


 彼は紙袋から本を取り出した。

 一冊目。

 表紙が少し擦れている。

 二冊目。

 付箋が挟まったままだ。あの頃の私が貼ったやつだ。最悪。証拠残しすぎ。


 彼は付箋を見て、苦笑した。


「まだ貼ってある」


「……剥がすの忘れてた」


「忘れてないでしょ」


 即答。

 彼の即答が、昔と同じテンポで、私の胸の奥を軽く叩いた。

 責める即答じゃない。分かってる即答だ。


「返却期限、とっくに過ぎてるよ」


「……ごめん」


「罰金取るよ」


 冗談だった。

 冗談の形をして、空気を和らげる彼の癖。

 私はその癖に、昔も今も助けられてしまう。


「いくら」


「うーん」


 彼はわざとらしく計算する顔をして、それから少しだけ真面目な目になった。


「……元気だった?」


 元気。

 私はその質問が苦手だ。

 元気って答えると嘘になる。元気じゃないって答えると重くなる。

 どっちも、今の私には怖い。


 だから私は、別の真実を出した。


「元気にしてる“ふり”は、上手くなった」


 彼が小さく息を吐いて、笑った。

 その笑いが、軽くない。軽くないのに、やさしい。


「それは、上手くならなくてよかったのに」


 その一言で、私は喉の奥が熱くなった。

 言えなかった言葉が、またここに引っかかる。

 私は本を返しに来たのに、言葉の未返却まで持ってきてしまった。


 店内には他のお客さんもいる。

 棚の間を歩く音。ページをめくる音。

 世界は普通に回っているのに、私だけが立ち止まっている。


 彼が小声で言った。


「……閉店まで、あと十分。よかったら、外で話す?」


 外で話す。

 その提案は、やさしい。

 そして怖い。

 外に出たら、逃げ場が減る。

 でも、逃げ場が減るからこそ、言えることがある。


「……うん」


 私が頷くと、彼はレジ横の札を「準備中」にひっくり返した。

 その動作が、儀式みたいだった。

 “ここから先は、仕事じゃない”の合図。


 店の裏口から出ると、夜風が冷たかった。

 商店街の明かりが、妙に温かい。

 彼は鍵を閉めて、私の隣に立つ。距離は半歩分。近くない。遠くない。

 昔の私たちが、いちばん得意だった距離。


「……本、ほんとに返しに来ただけ?」


 彼が聞いた。

 声が穏やかなのに、問いが鋭い。

 彼は、私の逃げ方を知っている。


 私は笑いそうになって、やめた。

 笑って誤魔化したら、今日が台無しになる。

 私は、スマホの未送信を思い出す。


「……本は、口実」


 言えた。

 言えたけど、まだ核心じゃない。

 核心に触れるには、もう一段階、呼吸が要る。


 私は紙袋の持ち手を握り直して、言った。


「いまさら、会ってもいいかなって思って」


「いまさらって、言うんだ」


「言うよ。だって、いまさらだもん」


「……そうだね」


 彼の「そうだね」は、同意じゃない。

 現実の確認だ。

 私はその確認に、少しだけ救われた。現実を共有できるなら、話せる。


 商店街の端に、小さなベンチがある。

 昔、私たちがアイスを食べた場所。

 私はそこに座って、紙袋を膝に置いた。彼も隣に座った。

 ベンチの木が少し軋む。私の胸も少し軋む。


「……あのとき」


 私は言い出して、止めた。

 “あのとき”は便利すぎる。全部を一言でまとめてしまう。

 まとめると、肝心のところが逃げる。


 彼は黙って待った。

 待ち方が、昔と同じだ。

 私が言葉を探すのを、急かさない。

 急かさない優しさは、時々残酷だ。言わざるを得なくなるから。


「別れたとき、私、ちゃんと話せなかった」


 私は言った。


「忙しいとか、疲れたとか、合わないとか。そういう言葉だけ並べて、肝心のこと言わなかった」


「肝心のこと?」


 彼が静かに聞く。


 私は、息を吸って、吐いた。

 喉の奥の未送信を、取り出す。


「……好きだった」


 言った瞬間、私は自分の声が小さすぎて笑いそうになった。

 でも笑わない。今日は笑って逃げない。


「好きだったよ。ずっと。

 好きなのに、好きって言うのが怖くて、嫌いみたいに振る舞った。

 好きって言ったら、欲しくなるから」


 彼が少しだけ目を伏せた。

 その仕草は、痛みの仕草だ。


「欲しくなるの、悪いこと?」


「悪くない。……でも怖い」


「何が怖いの」


 私は正直に言った。


「好きって言って、もし軽く受け取られたらって思うと、耐えられない。

 だから先に、強いふりをした。

 強いふりをして、先に離れた」


 彼はしばらく黙って、夜の空気を吸った。

 吐いた息が白くなる。

 白い息は、言葉になり損ねた気持ちみたいだ。


「……今は?」


 彼が聞いた。

 今。

 その問いが、過去よりずっと怖い。


 私は膝の上の紙袋を見た。

 本。返却期限の過ぎた本。

 期限が過ぎても返せるなら、言葉も返せるんじゃないか。

 そう思った。


「今も、好きかもしれない」


 言ってしまった。

 言ってしまったから、心臓が暴れる。

 でも、暴れているのに、どこか呼吸がしやすい。

 隠してないからだ。


「……いまさら、好きだって伝えちゃダメかな」


 私は、とうとう口で言った。

 スマホじゃなく、空気に送った。

 送信ボタンは押せない代わりに、戻るボタンもない。


 彼は、驚いた顔をして、それから苦く笑った。


「ダメって言ったら?」


「……泣く。たぶん。帰ってから」


「帰ってから泣くんだ」


「外では泣かない。まだ、そういう意地がある」


 彼が小さく笑った。

 その笑いが、私をからかう笑いじゃなく、愛おしがる笑いに見えて、胸の奥が熱くなる。


「ダメじゃないよ」


 彼が言った。

 その言葉が、ベンチの木の軋みよりも静かに落ちた。

 静かなのに、世界が少し明るくなった気がした。


「……ダメじゃないけど」


 彼は続けた。

 “けど”が来る。私は身構える。


「今さら、って言葉で守りながら言うのは、ずるい」


 図星。

 私は思わず、顔を覆った。


「……ごめん」


「謝るな。直せ」


 彼が即答した。

 即答が、いつもより少し強い。

 強いのに、やさしい。

 私の逃げ道を、ちゃんと閉じてくれる強さだ。


 私は手を下ろして、彼を見た。


「じゃあ……」


 喉が鳴る。

 怖い。

 でも、言い直したい。

 言い直すのが、今日の私の勝ち方だ。


「好きです」


 敬語になってしまって、私らしくて、情けなくて、でも本物だった。

 彼は目を丸くして、吹き出した。


「敬語、ずるい」


「ずるくない。緊張するとこうなる」


「じゃあ俺も」


 彼は、少しだけ姿勢を正して、真面目な声を作った。


「……好きです」


 私たちは同時に笑った。

 笑っても、これは逃げの笑いじゃない。

 照れの笑いだ。

 照れは、ちゃんと届いた証拠だ。


 彼は笑い終わってから、少しだけ真面目な顔に戻った。


「で、どうする?」


「……どうするって?」


「今さら好きって言って、終わり? それとも、続きがある?」


 続き。

 その言葉は、未来の匂いがする。

 未来は怖い。

 でも、怖いからって捨てるのは、もう飽きた。


 私は紙袋の中の本を、軽く叩いた。


「まず、本は返した」


「うん」


「次に、言葉も返した」


「うん」


「……その次は、また借りてもいい?」


 彼が一拍置いて、笑った。


「借りるって言い方」


「だって、いきなり“付き合ってください”は無理」


「じゃあ、貸し出し条件を提示します」


「なにそれ」


 彼は指を折る。


「一、逃げるときは合言葉を言う。

 二、勝手に我慢しない。

 三、言いたいことは、期限切れにしない」


 期限切れにしない。

 私はその条件が、胸に優しく刺さった。


「合言葉って何」


 私が聞くと、彼は少し考えてから言った。


「……『一旦、紅茶飲む』とか?」


 私は思わず声を出して笑った。

 この街の人たちは、紅茶で人生を回しがちなのか。


「それ、便利すぎる」


「便利は、愛の言葉」


 彼が言い切る。

 私は頷く。

 便利が愛の言葉なら、私たちはわりとやっていける気がした。


 商店街の明かりが、少しずつ消えていく。

 夜が深くなる前に、私たちは立ち上がった。

 帰る道は別々。手も繋がない。

 でも、さっきより距離が近い。半歩が、四分の一歩になった感じ。


「……ねえ」


 別れ際、私が言った。


「今さら、って言わない練習、する」


「うん」


「今さらじゃなくて、今、って言う」


 彼は、静かに頷いた。


「今、って言えるなら、たぶん大丈夫」


 私は駅へ向かって歩きながら、スマホを取り出した。

 未送信のメッセージ画面を開く。

 あの一文は、もう必要ない。


 代わりに、短く打った。


『今日はありがとう。好きって言えてよかった。今度、紅茶飲もう』


 送信。

 青いボタンは、もう怖くない。

 怖いのは、言葉じゃなくて、言葉の先にある“今”だ。

 でも、その“今”を、私は少しだけ好きになれそうだった。

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