遅れて届く本音
「いまさら好きだと伝えちゃダメかな」
その一文を、私は三回打って、三回消した。
送信ボタンの青さが、深夜のコンビニくらい明るくて、こっちの弱さが全部照らされる。
ダメかどうかは相手が決める。
分かってる。分かってるのに、聞き方がずるい。ダメと言われたときに、先に自分で転べるから。
私の“安全な転び方”は、人生のあちこちに転がっている。
画面を閉じて、私はテーブルの上の紙袋を見た。
本。二冊。
返しそびれたまま、ずっと持っていた本。
返しそびれた理由は、単純で、情けなくて、でも正直だ。
返したら、終わってしまう気がした。
私はコートを羽織って、鍵を掴んだ。
時計は二十時前。深夜じゃない。まだ、言い訳できる時間だ。
言い訳できる時間って、実は一番危ない。人は自分に優しい嘘をつけるから。
でも今日は、嘘より先に歩く。
駅前の小さな書店は、商店街の端にある。ガラス扉に貼られた「新刊入荷」の文字が、昔と同じ筆跡で、私はそれだけで胸がきゅっとなった。
私がここを知っているのは、彼がここで働いているから。
働いて“いた”から、じゃない。働いている。噂で聞いた。偶然見かけた。そういう情報の持ち方も、我ながら未練がましい。
扉を押すと、鈴が鳴った。
チリン。
音が軽い。軽いのに、心臓は重い。
「いらっしゃいませー」
奥から声がして、私は一瞬で確信した。
声は、変わっていない。
変わっていないのに、私のほうが変わってしまったから、懐かしさが痛い。
レジの前に立って、私は紙袋を握り直す。
彼が顔を上げる。
……いた。
髪が少し短い。メガネが新しい。指先が前より少し硬そう。
でも、目が同じだ。誰かを落ち着かせるための目。
その目が私を捉えた瞬間、彼の表情が一拍遅れて止まった。
「……え」
その「え」は、びっくりの「え」で、嬉しさの「え」ではなくて、困惑の「え」だった。
困惑は、拒絶じゃない。
そう分かっているのに、胸がひゅっと縮む。
「……久しぶり」
私は言った。
久しぶりが言えただけで、今日の私、えらい。いや、えらいって言うな。そうやって自分を褒めて逃げるな。
彼はすぐに仕事の顔を取り戻した。取り戻せるのがプロだし、取り戻すのが彼の優しさだ。
「久しぶり。……どうしたの」
どうしたの。
それは、「なぜ今ここに?」と同義だ。
私は紙袋をそっとレジ台に置いた。
「本、返しに」
彼は紙袋を見て、少し目を見開く。
「……え、これ」
「うん。借りたまま、返してなくて」
彼は紙袋から本を取り出した。
一冊目。
表紙が少し擦れている。
二冊目。
付箋が挟まったままだ。あの頃の私が貼ったやつだ。最悪。証拠残しすぎ。
彼は付箋を見て、苦笑した。
「まだ貼ってある」
「……剥がすの忘れてた」
「忘れてないでしょ」
即答。
彼の即答が、昔と同じテンポで、私の胸の奥を軽く叩いた。
責める即答じゃない。分かってる即答だ。
「返却期限、とっくに過ぎてるよ」
「……ごめん」
「罰金取るよ」
冗談だった。
冗談の形をして、空気を和らげる彼の癖。
私はその癖に、昔も今も助けられてしまう。
「いくら」
「うーん」
彼はわざとらしく計算する顔をして、それから少しだけ真面目な目になった。
「……元気だった?」
元気。
私はその質問が苦手だ。
元気って答えると嘘になる。元気じゃないって答えると重くなる。
どっちも、今の私には怖い。
だから私は、別の真実を出した。
「元気にしてる“ふり”は、上手くなった」
彼が小さく息を吐いて、笑った。
その笑いが、軽くない。軽くないのに、やさしい。
「それは、上手くならなくてよかったのに」
その一言で、私は喉の奥が熱くなった。
言えなかった言葉が、またここに引っかかる。
私は本を返しに来たのに、言葉の未返却まで持ってきてしまった。
店内には他のお客さんもいる。
棚の間を歩く音。ページをめくる音。
世界は普通に回っているのに、私だけが立ち止まっている。
彼が小声で言った。
「……閉店まで、あと十分。よかったら、外で話す?」
外で話す。
その提案は、やさしい。
そして怖い。
外に出たら、逃げ場が減る。
でも、逃げ場が減るからこそ、言えることがある。
「……うん」
私が頷くと、彼はレジ横の札を「準備中」にひっくり返した。
その動作が、儀式みたいだった。
“ここから先は、仕事じゃない”の合図。
店の裏口から出ると、夜風が冷たかった。
商店街の明かりが、妙に温かい。
彼は鍵を閉めて、私の隣に立つ。距離は半歩分。近くない。遠くない。
昔の私たちが、いちばん得意だった距離。
「……本、ほんとに返しに来ただけ?」
彼が聞いた。
声が穏やかなのに、問いが鋭い。
彼は、私の逃げ方を知っている。
私は笑いそうになって、やめた。
笑って誤魔化したら、今日が台無しになる。
私は、スマホの未送信を思い出す。
「……本は、口実」
言えた。
言えたけど、まだ核心じゃない。
核心に触れるには、もう一段階、呼吸が要る。
私は紙袋の持ち手を握り直して、言った。
「いまさら、会ってもいいかなって思って」
「いまさらって、言うんだ」
「言うよ。だって、いまさらだもん」
「……そうだね」
彼の「そうだね」は、同意じゃない。
現実の確認だ。
私はその確認に、少しだけ救われた。現実を共有できるなら、話せる。
商店街の端に、小さなベンチがある。
昔、私たちがアイスを食べた場所。
私はそこに座って、紙袋を膝に置いた。彼も隣に座った。
ベンチの木が少し軋む。私の胸も少し軋む。
「……あのとき」
私は言い出して、止めた。
“あのとき”は便利すぎる。全部を一言でまとめてしまう。
まとめると、肝心のところが逃げる。
彼は黙って待った。
待ち方が、昔と同じだ。
私が言葉を探すのを、急かさない。
急かさない優しさは、時々残酷だ。言わざるを得なくなるから。
「別れたとき、私、ちゃんと話せなかった」
私は言った。
「忙しいとか、疲れたとか、合わないとか。そういう言葉だけ並べて、肝心のこと言わなかった」
「肝心のこと?」
彼が静かに聞く。
私は、息を吸って、吐いた。
喉の奥の未送信を、取り出す。
「……好きだった」
言った瞬間、私は自分の声が小さすぎて笑いそうになった。
でも笑わない。今日は笑って逃げない。
「好きだったよ。ずっと。
好きなのに、好きって言うのが怖くて、嫌いみたいに振る舞った。
好きって言ったら、欲しくなるから」
彼が少しだけ目を伏せた。
その仕草は、痛みの仕草だ。
「欲しくなるの、悪いこと?」
「悪くない。……でも怖い」
「何が怖いの」
私は正直に言った。
「好きって言って、もし軽く受け取られたらって思うと、耐えられない。
だから先に、強いふりをした。
強いふりをして、先に離れた」
彼はしばらく黙って、夜の空気を吸った。
吐いた息が白くなる。
白い息は、言葉になり損ねた気持ちみたいだ。
「……今は?」
彼が聞いた。
今。
その問いが、過去よりずっと怖い。
私は膝の上の紙袋を見た。
本。返却期限の過ぎた本。
期限が過ぎても返せるなら、言葉も返せるんじゃないか。
そう思った。
「今も、好きかもしれない」
言ってしまった。
言ってしまったから、心臓が暴れる。
でも、暴れているのに、どこか呼吸がしやすい。
隠してないからだ。
「……いまさら、好きだって伝えちゃダメかな」
私は、とうとう口で言った。
スマホじゃなく、空気に送った。
送信ボタンは押せない代わりに、戻るボタンもない。
彼は、驚いた顔をして、それから苦く笑った。
「ダメって言ったら?」
「……泣く。たぶん。帰ってから」
「帰ってから泣くんだ」
「外では泣かない。まだ、そういう意地がある」
彼が小さく笑った。
その笑いが、私をからかう笑いじゃなく、愛おしがる笑いに見えて、胸の奥が熱くなる。
「ダメじゃないよ」
彼が言った。
その言葉が、ベンチの木の軋みよりも静かに落ちた。
静かなのに、世界が少し明るくなった気がした。
「……ダメじゃないけど」
彼は続けた。
“けど”が来る。私は身構える。
「今さら、って言葉で守りながら言うのは、ずるい」
図星。
私は思わず、顔を覆った。
「……ごめん」
「謝るな。直せ」
彼が即答した。
即答が、いつもより少し強い。
強いのに、やさしい。
私の逃げ道を、ちゃんと閉じてくれる強さだ。
私は手を下ろして、彼を見た。
「じゃあ……」
喉が鳴る。
怖い。
でも、言い直したい。
言い直すのが、今日の私の勝ち方だ。
「好きです」
敬語になってしまって、私らしくて、情けなくて、でも本物だった。
彼は目を丸くして、吹き出した。
「敬語、ずるい」
「ずるくない。緊張するとこうなる」
「じゃあ俺も」
彼は、少しだけ姿勢を正して、真面目な声を作った。
「……好きです」
私たちは同時に笑った。
笑っても、これは逃げの笑いじゃない。
照れの笑いだ。
照れは、ちゃんと届いた証拠だ。
彼は笑い終わってから、少しだけ真面目な顔に戻った。
「で、どうする?」
「……どうするって?」
「今さら好きって言って、終わり? それとも、続きがある?」
続き。
その言葉は、未来の匂いがする。
未来は怖い。
でも、怖いからって捨てるのは、もう飽きた。
私は紙袋の中の本を、軽く叩いた。
「まず、本は返した」
「うん」
「次に、言葉も返した」
「うん」
「……その次は、また借りてもいい?」
彼が一拍置いて、笑った。
「借りるって言い方」
「だって、いきなり“付き合ってください”は無理」
「じゃあ、貸し出し条件を提示します」
「なにそれ」
彼は指を折る。
「一、逃げるときは合言葉を言う。
二、勝手に我慢しない。
三、言いたいことは、期限切れにしない」
期限切れにしない。
私はその条件が、胸に優しく刺さった。
「合言葉って何」
私が聞くと、彼は少し考えてから言った。
「……『一旦、紅茶飲む』とか?」
私は思わず声を出して笑った。
この街の人たちは、紅茶で人生を回しがちなのか。
「それ、便利すぎる」
「便利は、愛の言葉」
彼が言い切る。
私は頷く。
便利が愛の言葉なら、私たちはわりとやっていける気がした。
商店街の明かりが、少しずつ消えていく。
夜が深くなる前に、私たちは立ち上がった。
帰る道は別々。手も繋がない。
でも、さっきより距離が近い。半歩が、四分の一歩になった感じ。
「……ねえ」
別れ際、私が言った。
「今さら、って言わない練習、する」
「うん」
「今さらじゃなくて、今、って言う」
彼は、静かに頷いた。
「今、って言えるなら、たぶん大丈夫」
私は駅へ向かって歩きながら、スマホを取り出した。
未送信のメッセージ画面を開く。
あの一文は、もう必要ない。
代わりに、短く打った。
『今日はありがとう。好きって言えてよかった。今度、紅茶飲もう』
送信。
青いボタンは、もう怖くない。
怖いのは、言葉じゃなくて、言葉の先にある“今”だ。
でも、その“今”を、私は少しだけ好きになれそうだった。




