いったん落ち着く技術
「一旦、紅茶飲む」
それは私の呪文で、私の避難訓練で、そして小さな勝利宣言だ。
言った瞬間、世界が“今すぐ結論を出せ”から、“まず生きろ”に切り替わる。
今日も私は、結論に追いかけられていた。
会社のチャットは通知が止まらない。
未読の数字が増えるほど、胸の奥の圧も増える。
デスクの上の付箋には、やることが刺さっている。刺さっているというより、杭が打たれている。逃げられない杭。
「明日まで」
「今日中」
「至急」
「確認お願いします」
全部、言葉の形をした重りだ。
重りを抱えたまま、人は笑える。笑えるのが社会の怖さだ。
しかも今日は、上にもう一段重りが乗っていた。
『夕方、話せる?』
恋人からのメッセージ。
たった一行なのに、仕事の「至急」より重い。
“話せる?”の中には、話す内容が入っていない。内容が入っていないから、こちらの想像が勝手に詰め込まれていく。
別れ話? 不満? 将来? 私の余裕のなさ?
余裕のなさは、今すでに満杯だ。
私は返信した。
『うん、話せる』
送信した瞬間、胃のあたりがきゅっと縮む。
やっぱり「今は無理」って言うべきだった?
でも、言えない。
言えないから、呪文を唱える。
「一旦、紅茶飲む」
私は立ち上がり、給湯室へ向かった。
うちの部署には、なぜか紅茶のティーバッグが豊富だ。誰かが定期的に補充する。誰だろう。たぶん“壊れる前に戻す係”がいる。私はその係に会ったことがない。会ったことがないのに、助けられている。
ポットからお湯を注ぎ、カップにティーバッグを沈める。
沈めた瞬間、色が滲む。
赤茶色の輪郭が広がる。
広がる様子は、怒りが薄まるみたいで、少しだけ落ち着く。
ティーバッグを揺らす。
揺らすと、香りが立つ。
香りは、未来の不安より早く鼻に届く。鼻に届くものは、心臓を少しだけ黙らせる。
私はカップを両手で包み、席に戻った。
画面の通知はまだ増えている。
増えているけれど、私は今、湯気を持っている。湯気は、盾になる。
そして定時。
私は今日も、定時で帰る勇気を試される。
以前の私は、試されるたびに負けていた。
でも最近は、負ける前に紅茶を挟めるようになった。
挟めると、選べる。
「お先に失礼します」
言った。
言えた。
誰かが「おつかれ」と言う。
その「おつかれ」が、少しだけ本物に聞こえた。私が“自分で帰る”と決めたから。
駅までの道、風が冷たい。
私はコートのポケットに手を入れ、指先の温度を確かめる。
紅茶はもう飲み終わっているのに、喉の奥に香りが残っている。香りの残り香は、心の余白だ。
恋人との待ち合わせ場所は、駅前の小さな喫茶店だった。
喫茶店の看板に「紅茶」の文字があるのを見て、私は笑いそうになった。世界が“紅茶で生きろ”と押してくる日がある。
彼女は先に来ていた。
窓際の席、背筋を伸ばして座っている。
怒っているときの背筋。
でも、顔は怒っていない。
怒りじゃなく、覚悟の背筋だ。
「お疲れ」
「……お疲れ」
私は座る。
椅子の脚が床を擦って、少し大きな音がした。
その音で、私の緊張も少し漏れた。
彼女がメニューを指差す。
「紅茶、飲む?」
私は息を吐いた。
「……うん」
「一旦、ね」
彼女が言って、少しだけ笑った。
その笑いが、私の胸の奥の固まりを解く。
紅茶が運ばれてきた。
透明なポット。琥珀色。
湯気が上がる。
私はそれを見て、今日初めて“話す”気になった。
「……話って、何」
彼女はカップを両手で包み、少し考えてから言った。
「あなた、最近“帰る”ようになったじゃん」
「……うん」
「それ、嬉しい」
予想外の言葉だった。
私は身構えていた。叱られる準備。責められる準備。
嬉しい、なんて、そんな柔らかい言葉を受け取る準備をしていなかった。
「でもね」
彼女が続ける。
“でも”は来る。
私は、カップの縁を指でなぞった。
「帰るのに、心が帰ってきてない日がある」
その言葉で、私は黙った。
当たっている。
家に着いても、私はまだ会社の画面を目で追っている。
話しかけられても、返事が半拍遅れる。
身体はいる。心は遅れてる。
「……ごめん」
私は反射で謝った。
彼女がすぐに首を振る。
「ごめんじゃなくて、方法を増やしたい」
方法。
それは、私の好きな言葉だ。
感情より手順のほうが扱いやすい。
でも彼女は、感情を捨てずに手順にしてくれる。
「方法?」
「うん。“一旦紅茶飲む”みたいに」
彼女が言って、ポットを少し揺らした。
琥珀が揺れる。
揺れるのは、結論を薄める合図だ。
「帰ってきたら、まず一旦。
何かしゃべる前に、一旦。
スマホ見る前に、一旦。
あなたの頭がまだ会社にいるなら、私と一緒に“呼び戻す”」
呼び戻す。
その言葉が、やさしい。
取り返しのつかないものみたいに扱われると、私は余計に苦しくなる。
でも“呼び戻す”なら、戻ってこれる。
迷子みたいな心でも、戻れる。
「……具体的に、どうするの」
「紅茶でもいい。水でもいい。
合言葉を決めよう」
「合言葉」
「うん。あなたが言ったやつ。
“一旦、紅茶飲む”」
私は笑ってしまった。
笑いながら、目の奥が熱くなる。
こんな言葉が、生活の支えになるなんて思わなかった。
「……それ、ずるい」
「ずるくない。便利」
「便利って、愛の言葉?」
「うちではそう」
彼女が言い切って、カップを持ち上げた。
私はそれに合わせてカップを持ち上げる。
乾杯みたいに、軽く触れる。
カチン。
音がした瞬間、私は少しだけ“ここ”に戻った。
ここ。
目の前の人。湯気。椅子の硬さ。テーブルの木目。
そういう手触りが、私を現実に縫い留める。
「ねえ」
彼女が言う。
「今日、何が一番しんどかった?」
私は考えた。
仕事の量。
締め切り。
上司。
でも一番しんどかったのは、たぶん。
「……全部に、返事しなきゃって思ったこと」
彼女が頷いた。
「返事しない自由、持とう」
「持てるかな」
「持てる。まず、紅茶」
また紅茶。
また一旦。
この反復が、私には必要だ。
人生は、大抵反復でできている。仕事も、生活も、恋も。
なら、反復の中に“戻る”を混ぜればいい。
私は頷いた。
「帰ったら、合言葉で呼び戻して」
「うん。あなたも言って」
「……一旦、紅茶飲む」
言った瞬間、二人で同時に笑った。
笑いは、結論を薄める。
薄めると、飲み込める。
飲み込めると、次の一口が入る。
店を出る頃、夜の空気は少し柔らかくなっていた。
歩きながら、彼女が私の袖を軽く掴む。手を繋ぐほどじゃないけど、離れない合図。
家に着く。
玄関で靴を脱ぐ。
私は反射でスマホを取り出しそうになって、彼女が小さく言った。
「一旦」
私は息を吐いて、言った。
「……紅茶飲む」
たぶん、これが私たちの“帰宅”だ。
鍵を開ける音のあとに、湯気を立てる。
湯気の向こうで、今日の疲れが少し薄まる。
結論は明日でもいい。
今日は、まず生きる。




