言葉の未送信
スマホの未送信には、期限がない。
だから人は、そこに気持ちを避難させる。
私の未送信は、スマホじゃない。
口の中にある。
舌の奥、喉の手前、飲み込む寸前の場所に、言葉がずっと引っかかっている。
言いたくて言えなかった。
それは勇気の問題じゃなく、順番の問題だ。
私はいつも、順番を間違える。言うべきことの前に、言いやすいことを言ってしまう。
「大丈夫」
「平気」
「気にしないで」
そういう便利な言葉を先に出して、肝心の言葉が後ろに押しやられる。
押しやられた言葉は、喉の奥で固まって、いつまでも私を重くする。
今日は、その未送信を取りに行く日だ。
駅の北口、古い喫茶店。
待ち合わせは十五時。
私は十四時四十分に着いた。早すぎるのはいつもの癖。早すぎる癖は、心の準備を過剰にしたがる癖だ。
店のガラス扉には、手書きの「いらっしゃいませ」。
その文字が少し滲んでいて、まるで誰かの涙みたいだと、私は勝手に思った。そういう勝手な比喩を考えるのも、逃げ方の一つだ。言葉を綺麗にして、核心を避ける。
店内は静かで、コーヒーの匂いが深い。
私は窓際の席に座り、膝の上のバッグの取っ手を握った。握りしめると落ち着く。落ち着くと、また言えなくなる。
落ち着かなくていい。今日は、少しだけ落ち着かなくていい。
メニューを開く。
いつもはカフェラテ。今日はブラック。
苦いものを選ぶと、少し覚悟が増える気がした。気がするだけだとしても、気がするは武器だ。
彼は、十五時ぴったりに入ってきた。
コートの肩に小さな雨粒。外は小雨らしい。彼は傘を持っているのに、たぶん差さなかった。そういうところが昔から変わらない。変わらないところを見つけると、私は安心して、安心すると言えなくなる。
今日は、その安心にも負けない。
「久しぶり」
彼が笑う。
私は、笑い返す。
「久しぶり」
この会話だけで、喉がきゅっとなる。
“久しぶり”は便利な言葉だ。距離を測る物差しみたいで、本当の距離には触れない。
彼は向かいに座り、メニューを見た。
私は彼の指先を見た。昔より少し硬くなっている。仕事のせいだろうか。生活は指に出る。私は、指に出る生活の話をしたくなる。そうやって“話しやすい話”へ逃げる。
「元気?」
彼が聞く。
私は反射で「元気」と言いそうになって、唇を噛んだ。
「……元気、ではない」
彼の目が少しだけ開く。驚き。
でも嫌な驚きじゃない。
私はその驚きを、今日の入り口にする。
「じゃあ、しんどい?」
「うん。最近ね」
うん。
肯定から始めると、言葉は進みやすい。
私は、前に進むために肯定を選んだ。否定はいつも足を止める。
店員が来て、注文を取る。
彼はブレンド。私はブラック。
その差が、今日の私たちみたいだと思ってしまって、また逃げそうになる。逃げるな、と心の中の付箋が言う。今日は付箋は持ってこなかったのに、頭の中に貼り付いている。
「話、あるって言ってたよね」
彼が言う。
“話がある”は、便利な爆弾の言い方だ。
爆弾を持ってきたのは私だ。
でも今日は、爆発させない。渡す。手渡しで。
私はコーヒーが来る前に言ってしまいたかった。
時間が伸びるほど、言葉が腐る。腐ると、言葉は攻撃になる。
攻撃にしたくない。
私は攻撃じゃなく、報告がしたい。
「……あのとき」
私は言い出して、喉が詰まった。
あのとき。
この言葉は、過去をまとめてしまう。
まとめると、細部が逃げる。
でも細部があると、私は泣く。
泣いてもいい。今日は泣いてもいいけど、泣く前に言いたい。
彼が黙って頷く。
待ってくれる。
待ってくれる優しさが、私をまた甘やかす。
でも今日は、その優しさを“言うための時間”に使う。
「別れたとき」
言った。
彼の肩がほんの少し動いた。呼吸が変わったのが分かった。
まだ、傷だ。
当たり前だ。私がつけた。
店員がコーヒーを置いた。
湯気が上がる。
私はその湯気を見て、少しだけ息が入った。
「私、最後に言ったじゃん」
彼は視線を落とし、静かに言う。
「……『もう無理』って」
私は頷いた。
“もう無理”は、私の逃げ言葉の完成形だった。
説明を捨てる言葉。相手を締め出す言葉。自分も締め出す言葉。
「本当は、違った」
彼が顔を上げた。
目が、ちゃんとこちらを見た。
私は逃げたくなった。
でも今日は、逃げ道を塞ぐ。
「無理だったのは、あなたじゃなくて……私の順番」
「順番?」
私はコーヒーを一口飲んだ。苦い。苦いのに、頭が冴える。
「私、言うのが下手でさ。
嫌だって言う前に、我慢して。
助けてって言う前に、笑って。
寂しいって言う前に、強いふりして」
彼は黙って聞いている。
黙っているから、私は続けられる。
今日の沈黙は、怖い沈黙じゃない。余白の沈黙だ。
「それで、限界が来て、最後に『もう無理』って言った。
でもあれ、あなたに向けた言葉じゃなかった」
「じゃあ、誰に向けたの」
その問いが、私の喉を掴んだ。
でも、掴まれたからこそ、言葉が出た。
「……私に」
私は言った。
「“もう無理だよ”って、私が私に言った。
あなたに言ったふりをして」
彼が息を吐いた。
怒りじゃない。痛みの吐息。
私は胸が痛くなる。痛いのに、逃げない。
今日は、痛いまま居る。
「言いたかったことがある」
私は続けた。
これが今日の目的だ。未送信を送る。
「あなたが悪いんじゃないって、言いたかった」
彼が目を細める。
その細め方が、悲しい。
「今さら?」
彼の声は優しくない。
優しくないのが、正しい。
私はその正しさを受け取る。
「今さらだよ」
私は頷いた。
「今さらだけど、ずっと口の中に残ってた。
残ってるせいで、私は前に進むのが遅かった」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
その動作が、時間稼ぎだと分かった。私のためじゃない。彼のための。
時間稼ぎは、ここでは悪じゃない。人は飲み込むために時間がいる。
「……じゃあ、何が言いたかったの」
彼が聞く。
私は、今度こそ言う。
たった一言で済ませられない言葉を、ちゃんと並べる。
「ありがとうって言いたかった。
あの頃、私がちゃんと笑えてたのは、あなたがいたから。
でも、助けてって言えなくて、ごめん。
寂しいって言えなくて、ごめん。
好きだって、言いたくて言えなかった」
最後の一文で、声が震えた。
震えたまま、私は言い切った。
震えるのは、私が弱いからじゃない。飲み込まずに外へ出したからだ。
彼は、目を伏せた。
しばらく、言葉がない。
私はその沈黙の中で、心臓の音を聞く。
ドクドク。
自分の中の送信音。
「……俺さ」
彼がようやく言った。
「ずっと、俺が悪かったんだと思ってた」
私は首を振った。
「悪いとかじゃない。
私が、言わなかった。言えなかった。
あなたは、気づけって言われても気づけない。
だって私は、平気な顔をするのが上手すぎた」
彼は苦く笑った。
私も苦く笑った。
苦い笑いは、今の私たちにちょうどいい。
「……今なら言える?」
彼が聞いた。
今なら、って言葉は、未来の入り口だ。
私は少し迷って、でも正直に答えた。
「言える。たぶん。
でも、言えるようになったのは、あなたと離れたからかもしれない。
だから……これは、復縁の話じゃない」
彼が頷いた。
頷き方が、痛いのに大人だった。
「分かってる。……分かってるけど、ちょっとだけ悔しい」
「うん。悔しいよね」
私は、彼の悔しさに寄り添う言葉を選べた。
昔の私は、相手の悔しさに触れるのが怖くて避けた。
今は、避けない。避けないことが、成長じゃなく、回復だ。
彼はコーヒーカップを置き、私を見た。
「じゃあさ」
「うん」
「その未送信、届いたってことでいい?」
届いた。
その言葉が、胸の奥の引っかかりを少しだけ溶かした。
「うん。届いたなら、よかった」
私は深呼吸した。
息が、ちゃんと肺に入る。
窓の外の雨は、いつの間にか止んでいた。
濡れた道路が、街灯を反射して光っている。
光は派手じゃない。
でも、地面の上にちゃんとある。
「……帰る?」
彼が聞く。
私は頷いた。
「帰る」
帰る場所は、彼の隣じゃない。
でも“帰る”って言える。
その言葉が、私には嬉しかった。
会計を済ませて店を出る。
外の空気は冷たく、雨上がりの匂いがする。
私たちは駅まで並んで歩いた。手は繋がない。繋がないことが、今の正しさだ。
改札の前で、彼が言った。
「言ってくれて、ありがとう」
私は頷いて、今度は逃げずに返した。
「こちらこそ。……言いたくて言えなかったから、今日言えてよかった」
彼が笑った。
私は笑った。
別れの笑いじゃない。区切りの笑いだ。
改札を通り、それぞれのホームへ向かう。
私は階段を上りながら、舌の奥を確かめた。
引っかかっていた言葉が、少し減っている。
未送信が減ると、口の中は軽くなる。
軽くなると、次の言葉が入りやすくなる。
私の人生は、たぶんそうやって進む。
言えなかった言葉を、ちゃんと送って、空いた場所に、これからの言葉を置く。




