自分の中の二人
駅のホームで、ガラスに映った自分が先に瞬きをした。
いや、違う。私がした。私が。私が……?
改札内の売店で買った缶コーヒーの熱が、手袋越しにじんわりと掌へ染みていく。冬の朝は身体の輪郭をくっきりさせるくせに、心の境界だけは曖昧にする。息を吐くたび白い靄がほどけ、私の中から誰かが抜けていきそうになる。
電車が来るまでの数分、私は窓の自分と目を合わせた。
鏡の私も、同じように目を合わせ返した。
当たり前だ。自分なんだから。
……なのに。
「ねえ」
声に出したのは、私だ。けれど発した瞬間に、誰に向けたのか分からなくなる。窓の向こうの私が、ほんの少しだけ口角を上げた気がした。
その表情は、私が普段する笑い方じゃない。
胸の奥が、カチリと鳴った。
電車の到着を告げる音が、金属のレールを鳴らしながら滑り込んでくる。私は一歩下がって列に合流し、いつもの癖でスマホの画面をつけた。未送信のメッセージが一通、下書きに残ったままだ。
『今日は、行けない。ごめん』
たったそれだけなのに、送信ボタンを押せずにいる。
送れば終わる。送らなければ始まらない。
そんな単純な話を、私は何日も握りしめている。
ドアが開き、車内の温風が頬を撫でた。私は空いている優先席の端に座り、缶コーヒーのプルタブを起こした。小さな音。自分の中で、もうひとつ何かが起きる音。
そのとき、向かいの窓に映った私は、私より先にコーヒーをひと口飲んだ。
ありえない。映像は遅れない。逆に、先に起きるはずがない。
私は息を止めた。
窓の私が、片眉を上げる。まるで「やっと気づいた?」と言うみたいに。
「……誰」
声が掠れた。車内は静かで、誰も私を見ない。イヤホンの中で世界を閉じている人たち。新聞に折り目をつける人。まぶたを降ろして眠る人。
窓の私が、口を動かした。
音は聞こえないのに、言葉だけが胸の中にすっと入ってきた。
『私だよ。あなたの、私』
冗談だ。疲れている。眠れてない。そういうとき、人は変なものを見る。
分かっているのに、私は窓から目を逸らせなかった。
『今日は行けない。って、書いたまま?』
窓の私が、下書きのことを知っている。
知っているに決まってる。私の頭の中なのだから。
でも、その“知ってる”が、今は怖い。
「……送れないんだよ」
私は小さく言った。誰にも聞こえないように、でも自分には聞こえるように。
窓の私が、うなずく。
『送ったら、あなたが悪者になる気がするから?』
「違う。悪者とかじゃなくて……」
言い直そうとして、言葉が出てこない。
私は、何を怖がっている?
『送ったら、“戻れない”って思ってる』
窓の私が言う。私の口じゃない形で、私の弱点を正確に突く。
そうだ。送った瞬間、私は「行かない人」になる。
約束を守る人。期待に応える人。そういう私じゃなくなる。
いや、そもそも“そういう私”は、本当に私だったのか?
電車が揺れる。窓の自分がほんの少しだけ滲んだ。
『ねえ。分けよう』
「何を」
『あなたの中の仕事する私と、守りたい私。ごっちゃにしてるから苦しい』
窓の私が、指で胸元をトントンと叩く仕草をした。
それも、私が普段しない仕草だ。だからこそ分かる。窓の彼女は、私の中の“別の私”だ。
私は缶コーヒーを膝の上に置いて、スマホを両手で包んだ。
画面は冷たく、でもどこか脈を持っているみたいに震えている。
「守りたい私って、なに」
窓の私が、少しだけ目を細めた。
優しい顔。私は、自分にこんな顔ができるなんて知らなかった。
『あなたが、今日やめたいことをやめる私』
「……やめたいこと?」
『“いつもの私”を演じること』
胸の奥が痛くなる。そこに言葉を置かれた途端、痛みが形を持った。
私は、職場で笑う。平気な顔をする。無理じゃないふりをする。
友人に会えば「元気だよ」と言う。家族には「大丈夫」と言う。
恋人みたいな距離だったあの人には、ずっと「行ける」と言ってしまう。
全部、できてしまう。
できてしまうから、止めどころが分からない。
『あなたは、強いんじゃない。器用なだけ。器用は、放っておくと自分を削る』
窓の私の言葉は、説教っぽくない。
それが逆に痛い。親しい人ほど、甘やかしてくれない。
駅に着き、人がどっと入れ替わる。
車内の空気が変わった瞬間、窓の私の輪郭がはっきりした。
『ねえ。質問していい?』
「……うん」
『あなたは、あの人に“行けない”を言いたい? 言いたくない?』
単純な二択。
私は、唇を噛んで考えた。
言いたい。言いたくない。どっちも本当だ。
「言いたい……けど、言いたくない」
『どっちを守る?』
私は即答できない。守りたいものが多すぎて、守り方を知らない。
窓の私が、肩をすくめた。
『じゃあ、こうしよう。“行けない”じゃなくて、“今日は行かない”』
「……同じじゃない?」
『違う。行けないは、無力。行かないは、選択』
選択。
その言葉に、背筋が少し伸びた。
私は、選べる。選べるはずなのに、ずっと誰かの期待に引っ張られて選んでいなかった。
スマホの下書きを開く。
カーソルが点滅する。心臓の鼓動と同じテンポで。
『今日は、行けない。ごめん』
ここから、どう変える。
私は親指を動かし、文を削って書き換えた。
『今日は、行かない。ごめん。
返事が遅くなって、もっとごめん。
嫌いになったわけじゃない。
ただ、いまの私は、私を先にしてみたい』
最後の一文を打った途端、胸の奥がざわめいた。
窓の私が、ふっと笑った。
『ほら。あなた、こんなにちゃんと言える』
「……送ったら、終わる?」
『終わらせたいなら終わる。続けたいなら続く。どっちも、あなたが決める』
その優しさが、少しだけ腹立たしい。
今まで誰も言ってくれなかったくせに。
……いや、言ってたのかもしれない。私が聞かなかっただけで。
送信ボタンに指を置く。
押せば、世界が少し変わる。押さなければ、いつもの世界のまま。
私が迷っていると、窓の私が両手を上げた。降参のポーズ。
『ねえ。もう一つだけ、提案』
「なに」
『送る前に、あなた自身に約束して。返事の結果がどうなっても、あなたを放っておかないって』
私は、笑いそうになった。
自分に約束。そんなの、子どもみたいだ。
でも、子どもみたいなことをちゃんとやる人ほど、大人になっても折れにくい。
「……分かった」
私は小さく頷き、心の中で言った。
“私は私を放っておかない”。
指に力を込める。
送信。
画面が一瞬だけ白くなり、未送信が消えた。
代わりに、送信済みの表示が並ぶ。
世界が崩れる音はしない。雷も落ちない。電車はいつも通り揺れている。
けれど、胸の奥に刺さっていた棘が一本抜けた感覚があった。
痛みはまだ残る。けれど、痛みが「生きてる」側の痛みになった。
私は深く息を吐いた。
窓の私も、同じように息を吐いた。
そのタイミングが、ぴたりと重なった。
「……ねえ」
私は窓に向かって、もう一度呼びかけた。
今度は、恐る恐るじゃない。確かめるために。
「あなたは、私のどっち?」
窓の私が、ちょっと困った顔をした。
それが妙に可笑しくて、私は笑ってしまった。
『どっちも。あなたが見捨ててきた方と、あなたが頑張ってきた方。
ふたつに分けたんじゃない。ふたつあるって気づいただけ』
なるほど。
私は、ひとりでいて、ひとりじゃなかった。
誰かが増えたわけじゃない。もともと居たのに、見ないふりをしていただけ。
スマホが震えた。
返信が来たわけじゃない。通知は、ニュースアプリのどうでもいい見出し。
それでも私は、反射的に画面を閉じずに、ただ握った。
握って、離さない。
今日の私は、少しだけ自分を先にする。
次の駅で降りる人たちの波に混じりながら、私は立ち上がった。
窓の私も立ち上がる。
その動きが、もう怖くない。
ドアの前に立ち、外の光を待つ。
ガラスに映った私が、にやっと笑った。今度は、私が先に笑ったのだと思う。
「行くよ」
誰に言ったのか。
私に決まってる。
ドアが開き、冷たい朝が頬を叩いた。
私は一歩踏み出す。
その足取りは、少しだけ軽い。
そして心の中で、もう一人の私に言った。
先に行って。ちゃんと、戻ってこい。




