バス停にて
朝から忙しい。和宏は、起床すると、置き時計を見る。時計と睨めっこだ。午前6時52分。朝のジョギングがある。まだ時間はある。急いで白いトレーナーと運動靴に着替えて、マンションの扉を飛び出す。最初はいい。調子よく疾走できる。しかし、道が堤防に差し掛かった頃から、息切れが始まる。苦しい。ひたすら苦しい。しかし、そのうちに急に楽になる。身体が浮いたような気分だ。これをジョガーズハイと呼ぶらしい。身体が順応したというか、麻痺したというか、とにかく楽なのだ。そのまま、駅前広場をぐるりと回って、帰宅への折り返しだ。あとは、小学校の隣を通って、上り坂を上がり、役場の隣を横切り、マンションに着く。帰宅すると、急いで腕時計を覗く。午前7時23分だ。普段着に着替える。次は、ゴミ出しだ。このマンションはゴミの分別にうるさい。この前も、間違った日に出したら、窓から目撃された1階の管理人から、こっぴどく叱られた。それで、分別カレンダーを睨んで、間違いないことを確かめて、両手に大きなゴミ袋を持ち、扉をお尻で開けて、5階の通路に出る。エレベーターで、隣の吉川さんとご一緒する。和宏は、あまり話したくない。しかし、女性というものは、どうやら口から先に生まれてくる生物らしい。とにかく、ペチャクチャと話しかけてくる。適当に相鎚を打つ。それで満足らしい。彼女は、ゴミ置き場にゴミを捨てると、さっさと先に帰っていく。助かった。和宏は、ホッと一息ついて、ゴミを捨て、帰宅する。
午前7時52分。さあ、朝食の準備だ。トースターで食パンを焼く。何でも、今日の天気が食パンに焦げ目の形で分かるという優れものらしい。よく出来たトースターだ。あとは、フライパンで、ベーコンと卵の目玉焼き。コーヒーは、インスタントだ。一番安いのを買っている。それだけで、軽い朝食を済ませる。簡単に身体のウオーミングアップをして、スーツに着替える。彼は、まだ若い。元気がある。時計を確認する。午前8時23分。間に合った。急いで、革靴を履いて、部屋を飛び出していく。
加寿子は、とにかく忘れっぽい。昔からそうだ。よく忘れる。今朝とて、例外ではない。
朝起きた。置き時計を見る。と、そこに、時計がない。あら、あたし、どこ置いたっけ?よく見ると、床の上に置いてある。そうだわ、夜中に起きて、時計を確かめて、そのまま床に置いたんだわ、忘れてた。仕方なく、ベッドに座って、白いパジャマを脱ぐ。そこまではいい。よく見ると、パンティーを履いていない。ノーパンなのだ。あれ、まただわ、どうしたんだろう、あたし。それで下半身裸という実にみっともない姿で、部屋中捜しまくる。ようやく見つけた。浴室の脱衣場だ。籠の中に放り込んである。何でこんな所よ、何で?記憶がない。それでも、ともかく下着を着て、歯磨きと洗顔だ。気づくと加寿子は、惚けて、歯磨きのチューブと間違えて、洗顔フォームで磨いている。何だか変な味ね、と気づいた。あたしって、本当に惚けてるわ。
それから顔のメイクだ。その時も、うっかり、ファンデーションとコンシーラーを買っておくのを忘れたのに気づいて、薄化粧で妥協した。
朝食は何とかなった。メニューは、ツナとハムエッグのサンドに、オニオンスープとゴボウサラダの簡単なものだ。加寿子は、食後の紅茶も忘れなかった。それで気を良くして、ルンルン気分で着替える。しかし、今度は、ブラジャーをつけるのを忘れてしまう。気づいたのは、玄関の鍵をかけてからだ。あらっと気づいて、また部屋に戻り、着替える。出た頃には、午後8時を過ぎていた。
駅前通りに到着するバスのバス停は、近くのたんぼ道に沿った国道にある。急いだせいで、和宏は少し早く着くことが出来た。まだ10分近くはあるな。よしよし。見れば、パラパラと人が列をなして並びだしている。バス停でよく見る光景だ。和宏も列の最後尾に着く。でも日本人って、よく並ぶよな、あれって、真面目っていうか、群集心理っていうか、よく見かける。それから、バスって、もともとフランスの天才数学者、パスカルの発明だそうで、17世紀のフランスで、「決まった時刻に、決まったルートを走る馬車」から始まった。それから、日本初のバスは、蒸気自動車だったそうな。そんなことを考えているうちに、彼の後ろにも人が並んだ。続々と並び出す。そうしているうちに、国道の向こうから、バスがやって来る姿が見えた。だんだんと近づいてくる。そして、目の前で停まった。その時、停まった勢いで、道路に溜まった水たまりの水が跳ね飛んで、後ろの人のスカートに思いきりかかった。
「きゃ、やだ!」
後ろにいたのは、加寿子だった。スカートは、びしょびしょだ。思わず和宏は、ポケットのハンカチを取り出して、加寿子に手渡し、
「良かったら、僕のハンカチ、どうぞ」
と、笑顔で言った。加寿子は、
「これはありがとうございます」
と、嬉しそうに借りて、ゴシゴシと拭く。
「どうもありがとうございます」
と、ハンカチを返すときに、加寿子は、和宏の手首にある青い星のような形をした痣に気づいた。それを見て、
「あれ?かずくんじゃないの?」
と叫んでいた。和宏も、加寿子の顔をまじまじと眺めてから、
「ああ、加寿ちゃん!」
と叫んでいた。
「中学以来だわね、和良君」
「和宏だよ。まったく、加寿ちゃんの忘れ癖、変わってないなあ」
「いけない。また惚けちゃったわ」
見れば、バスはもう去っていく。乗り損ねてしまったらしい。
「行っちゃったわね、バスは」
「次は、8時56分発だよ。16分ある」
「ベンチに座って、ゆっくりと待ちましょ」
「そだね」
国道沿いの麦畑が綺麗だ。黄色い穂が、鮮やかに実って美しい。走る車も少ない。のびのびとした雰囲気だ。
「お互い近所に住んでたんだね?」
「世の中って、狭いのね、笑えるわ」
「あれから、どうしてたの?」
「まあ、いろいろとね」
中学以来の幼馴染みである。積もる話もあるのだろう。仲良くベンチに座るふたりを、金色の麦畑が、黙って優しく見守っているようである..................。




