第一話 【第三章】
始業式の日は、朝から憂鬱だった。
春休み中のやらかしが何かの間違いならよかったのだけれど、そんなことはなく。その証拠に、妹の真奈がずっと機嫌が悪い。きっと図書館でのことを亜紀から聞いているんだろうな。
亜紀との出来事は、僕にとっても初めてのことだったし、亜紀にとっても初めてのことだろうと思う。だからどうしたらいいかなんて分かるはずもないのだけれど、このまま黙っているわけには当然いかない。分かっているのだけれど、どうしたらいいのかが分からない。とりあえず、登校しようと制服を着て学校に向かう。朝食は食べていない。
学校へと続く道を行きながら、亜紀への手紙でも書いたらどうかなと考えている自分に気が付いた。いかにも後ろ向きな思考だ。悪いことではないと思うし、実際、文学的にはアリな手段なのだろうけれど、気持ちを伝えるために手紙を書くなんて、正直僕には女々しく思えてしょうがない。そんな手段を使ったら、かえって気持ちが伝わりにくい気がするのだ。
それじゃあ手紙じゃなくてメールにしようかと思いとどまり、メールの送り先を知らないことに気づく。彼女のこと、全然知らないんだ。真奈に聞いても、朝の機嫌からすると、素直に教えてくれるとも思えない。
女々しいな。
女々しいってのは、女がふたつ並んでいるけれど、それはどうにも女性に失礼な気がする。言葉って難しい。
学校の下駄箱の下の段に靴をしまい、顔をあげたところで誰かとぶつかりそうになって、身を引いた。クラスメイトの女子だった。
「あ、ごめん。おはよう」
「ううん、おは……え?」
「え?」
……あれ?
僕、今「おはよう」って言ったな。この女子と話したことなんかないのに。ほら、向こうも驚いている。ひきつった顔をして教室の方に歩いていった。なんで僕、おはようなんて言ったんだろう。
タイミング?いきおい?誰かと勘違いした?
それらのどれも当てはまるようでいて、結論は出なかった。だけど、話しかけるきっかけなんて、そんなものなのかもしれない。言葉って難しい。
などと考えながら、ぼうっと突っ立っていたら、背中からどつかれた。振り返ったら、真奈がいた。
「お兄ぃ、見惚れてたでしょ」
「見惚れてって……。そんなことないよ。変なこと言うなよ」
「そういうことにしといてあげる。どうするの?亜紀のこと」
やっぱりそれか。
「お兄ぃは自分勝手なんだよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「なんで、問い詰めモードに入っているんだよ」
「べつにぃ。なんにもないけどさぁ」
彼女は腕を頭の後ろで組んで、ちょっとむくれているような表情をつくる。こういう真奈は、本当に可愛い。兄の贔屓目かもしれないけれど、クラスでも人気者なんじゃないだろうか。亜紀は真奈のことを信頼して、色々と相談しているんだろうな。
「で、どうするの。お兄ぃは亜紀が好きなの?嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。でも、それと付き合うとかって話は違うじゃん」
「違わないし」
「そうなのか?」
「なんでそこで疑問形なのかなぁ」
「いや、疑問形だろ」
僕はそう言う。亜紀のことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。どこが好きかと聞かれたら困るけれど、彼女のことをもっと知りたいと思っているし、先日の失敗は取り戻したい。だけど、取り戻したいイコール付き合いたいではないのが、厄介なところだ。
「自分勝手なんだよ……」
真奈はそれだけ言い残すと、自分の学年の校舎のほうに向かっていった。今の会話も、亜紀にインプットされてしまうのかもしれないな。
そんなわけで、午前の始業式は気もそぞろ。ようやく乗り越えて、放課後になって、僕は図書室に向かった。現実逃避にはうってつけの場所だ。
ぼんやりと本棚に目をやる。何かおもしろい本はないかな、なんてことはなく。小さな図書館なので、どんな本がどこにあるのかなんて、ほぼほぼ把握しているから、こうやって本棚を眺めるのは、慣れ親しんだ情報量の流れに頭を泳がせてる感覚が気持ちいいからだ。自我の浮遊、みたいな感じ。
現実逃避だなあ。こういうところが、自分勝手なのかな。
あ、視線がすべった。ちょっとふらついて、一歩を踏み出して体を支える。頭を振ってリセットし、顔を上げる。人影があった。
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫ですか……先輩?」
「え、あ、亜紀さん?」
「めまいですか?」
「平気。気にしないで。ごめんね、心配させちゃった」
「気になります。倒れたら困るし」
「そうか、そうだよね、ちょっと集中しすぎちゃった」
「本が好きなんですね」
「亜紀さんもね」
そう言ったら、亜紀はくすりと笑った。あれ、僕ら、自然に話せているな。なんだろう、タイミング?勢い?
急に肩の力が抜けた気がした。
「この前は、ごめんね」
「私こそ、ごめんなさい」
ふたりで顔を見合わせて、改めて笑いあい、頭を小さく下げる。なんだ、簡単なことだったんだ。
問題は棚上げかもしれないけれど。
それからの僕らは、他愛のない会話をして、メッセージ送信先を交換し、家に帰ってからもメッセージのやりとりを続け、それを朝まで続け、眠い頭で朝を迎え、それでも学校に行ったらおはようの挨拶をして、昼休みには図書館で落ち合って。毎日の日課が、あっという間に出来上がってしまった。
──楽しい。初恋って、こんなに楽しいものなんだ。
夜の時間。自室で机に向かう。彼女からのメッセージを待つ。豆本を手の中で転がす。真っ白なページ。何かを書いてみようか。今の気持ちを。今のこの、楽しい気持ちを。
最初のページ。何文字かけるだろうか。シャーペンの細い芯を探して、大きさの感覚を合わせてみる。三文字×三文字くらいか。最初の文字は何にしよう。
「あ」と書いた。
始まりの文字でもあり、「亜紀」の「あ」でもある。
次の文字はどうしよう。「い」……ちょっと恥ずかしい。どうしようどうしようと悩んでいるうちに、僕は机に突っ伏して寝落ちした。
翌朝になって、僕は奇妙に頭がすっきりしているのを感じた。寝ぼけた状態で書いたのだろうか、豆本には数文字が書かれていた。冒頭部分の言葉だ。
これを起点として、何か書けそうな気がした。翻訳家志望の僕が、自分で書いていいのか迷ったけれど、書けそうな気がしたのだ。この豆本は、道標なんだから。
その日から僕は、亜紀に内緒でノートに小説を書き始めた。そんなに長いものではない。小説サイトに載っているような、百話もあるようなものではなく、ほんの短い小説だ。僕にとっては初めての小説なので、書いては消しを繰り返したけれど、不思議と筆は止まらなかった。
数日が過ぎて、短篇小説ができあがった。日曜日の朝だった。僕は亜紀に、今から会いたいというメッセージを送った。
返事はすぐに来た。待ち合わせの場所である図書館に、僕はすぐに向かった。
ツルゲーネフが落ちた場所で、僕らは落ち合った。
「小説ができたんだ」
「小説?先輩が書いたんですか?」
「短いんだけど」
彼女は頭を巡らせて、考えを整理している風に見えた。僕が手渡したノートを受け取って、最初のページをめくる。豆本からつながる物語がそこにはあった。僕にだって書けるんだから、亜紀だって最初の一歩さえ踏み出せれば、きっと小説を書けると、僕は信じている。
ぱらりぱらりと流し読みをしている。最後のページ──と言っても全部で5ページの小説なんだけど──にたどり着き、最後だけ時間をかけて、ノートを閉じた。
「……完結してる」
「うん、短くなっちゃったけど」
「先輩、これ私への嫌味ですか?」
「ええっ!嫌味なんかじゃないよ、違う、違うって」
「だってそうじゃないですか!私は小説書けないって言っているのに、先輩は書いちゃって、しかも完結させちゃって!」
「こんな短いんだから、そりゃ、完結するよ」
「違います!書き始めるより、完結させるほうが難しいって言ってたもの!」
「誰が?」
「ネットのひと」
「そんなこと言われても……」
「ずるい!私ばっかり何もできないみたいじゃない!これ、返します!」
亜紀はノートを僕に押し付けて、図書館の出口のほうに走って行った。
また、間違えた。
どこで、なぜ、間違いになってしまったのか、僕には皆目見当がつかなかった。