第一話 【第一章】
何かの小説で読んだのだけれど、カオス理論というものがあるらしい。偶発的な振る舞いのように見えても、実は決定論的であるという理論だ。
たとえば、恋に落ちる瞬間。
まったくの偶然のように思えて、実は運命であったりする。
ある時に引いたガチャの結果に従うように。
僕らの初恋は、その瞬間に落ちることが運命づけられているのかもしれない。
──ある春の日のこと。
新学期はまだ始まらず、それどころか新年度もまだ始まっておらず、僕はまだ下級生と呼ばれる立場にいた。来春からは最上級生になる。
平穏な春休みの始まり。朝から図書館に出かけ、街の古本屋をめぐり、昼食前に家に戻る。そんな計画をたてていた。
「えっと、はじめまして。山中亜紀です」
帰宅したところ、僕の部屋には来客がいた。それも二人も。しかも女の子だ。
一人目は妹の真奈で、二人目は知らない女の子だった。山中……亜紀?聞いたことのない名前だ。
「はじめまして、だよね?」
「お兄ぃ、さ。もうちょっと気を使ってよ」
真奈があきれた様子で言った。
「え?」
「確かに亜紀は『はじめまして』って言ったけど、社交辞令に決まってるじゃん?学校で会ってるに決まってるじゃん?」
「じゃん、って言われても……」
「ああっ!はっきりしない!亜紀も、こんなののどこがいいんだろっ」
「ちょ、待って、真奈」
「あ、ごめん」
分からん。
僕は正直言って、困惑していた。真奈がにぎやかなのはいつものことだけれど、女の子がふたり集まると、こんなにも姦しいのかと。
そして、なんて言ってた?
「ほら、亜紀!」
「うん……あの、先輩!好きです!」
これは……、きっとあれだ。
「山中さんって」
「亜紀でいいです!」
「亜紀さんって」
「はい!」
「もしかして、転校する?」
「え?しません」
「もしかして、病気で入院する?」
「え?しません」
「もしかして、罰ゲームか何か?」
「違います!先輩のことが、好きなんです!」
「……どう反応すればいいのか、わかんないや」
「お兄!バカッ!アホッ!ドンカン!亜紀、行こう、こんな奴、知らない!」
真奈は亜紀の手をとって、部屋を出て行ってしまう。だいたい、勝手に部屋に入ってきておいて、そこの失礼っぷりに対する謝罪はないのかとか、そんなことを僕は考えたけれど、きっとそんなことばかり考えているから、僕は答えを間違える。今回みたいにだ。
だけど、告白なんかされたことがない僕が、いきなり妹の友達に告白されたりしたら、何か裏があるって勘ぐってしまうのは仕方がないことじゃないか。だってそうだろう?僕みたいな文学オタクの地味系男子に好きだなんて言う理由が思いつかないのだ。
僕は混乱した。妹に引っ張られて出て行く亜紀の後ろ姿を眺めながら、「なんなんだ、一体」とつぶやくしかなかった。
ふぅと息を吐き、部屋の机に向かう。並ぶ本からドストエフスキーの著作を取り出して冒頭を読み始める。
ロシア文学には重量がある。背中にのしかかる重さがある。鈍重な空が落ちてきて僕等を押しつぶすかのような、それでいてその重さに耐えて生きていくような、そんな強さを感じる。
僕は文字の重さが好きだ。文学の重厚さが好きだ。
ひらがなとカタカナと漢字で作られた文字の列が、元は異国の言葉で書かれた文章を、この国の言葉でつむぎ出す時、元の文の重さを維持して書き出される妙味がたまらない。
いつかは元のキリル文字の文章を読めるようになりたい。自分でも重さを保った言葉の変換ができるようになりたい。
「おーい、お兄ぃ〜」
部屋の外から真奈の声がした。
「ちょっと来てよぉ」
「いま忙しいんだけど……」
「来ないと後悔するぞぉ」
「なんだよそれ?」
仕方なく立ち上がる。リビングに行くと、真奈と両親がソファに座っていた。両親はふたりとも深刻そうな顔をしている。
「どうしたの?」
「あのね……お父さんの仕事の関係で、アメリカに移住することになったの」
「へぇー、お母さんも一緒に?」
「それでね、あなたもお父さんと一緒に向こうに行って欲しいの」
「ん?どういうことだ?」
難しい顔をしていた父さんが、口を開いた。
「向こうの大学に進学したらどうかっていう提案だ。もしその気があるのなら、前もって移住して向こうの環境に慣れておいたほうがいい」
「待ってよ、僕まだ進学とかって」
「そんなことないだろ。みんな進路のことはとっくに考えているだろ」
正論だった。学校からは何度も進路のことを聞かれているし、そもそも二年になった時点で文系コースを選んでいる僕は、既に進路の半分を選んでしまっていると言ってもいい。
翻訳家になりたい。そのために露文学科がある大学に行きたい。そこまでは決めている。どうせ行くなら、いい大学に行っていい環境で勉強したい。
だけど今大学を決めてしまったら、その入れ物に収まってしまうような気がして、大学までは決められずにいた。
そこに沸いてきたのが、この話だ。
アメリカの大学……考えてみたことなかった。でも、ロシア文学を学ぶのにアメリカの大学は適当なのだろうか。日本の大学よりも……?ならいっそロシアの大学……は、世情からはありえないな。学びたいのは、歴史上のロシア文学であって、今のロシア社会に興味はない。
色々なことを考えて、考えて、口から出た言葉は、
「ちょっと、考えさせて」
「ああ。そうしなさい。沢山、考えるといい。将来のことだからな」
父さんの言葉に薄ら笑いを返すしかなかった。
真奈だけは僕の反応を複雑な表情で見ていた。
「ふうん、興味がないわけじゃないんだ」
それだけを言って、部屋に引っ込んだ。僕もまた、部屋に戻った。考えると言ったもののそんなことできるはずもなく、しばらくベッドでブランケットをかぶっていたけれど、いてもたてえもいられなくなって、家を飛び出した。図書館の本の匂いに包まれたかった。
走ること、二〇分。なんと、走り続けること、二〇分。本当に止まらずに、走りつづけて、僕は図書館についた。
冷たい水飲み機械(なんていう名前が正しいのか、僕は知らない)は、疫病以来使われなくなっていて、しかたがないのでスマホを自販機に押し当ててウーロン茶のペットボトルを買った。一気に飲み干すと、今度は体がたぷったぷになった気分がする。
図書館の入口で呼吸を整えて、館内に入る。目標とするのは文学の書架だ。奥まった狭い入口から入れる地下の書庫もお気に入りだったが、今は明るい場所にいたかった。
海外文学をうろついていたら先客が目に入った。
「山中、亜紀……さん?」
先客はハッとして僕のほうを見て、手に取った文庫本をあやうく取り落としそうになる。本が落ちて傷つかないようにと、あわてて手を伸ばしたら、亜紀の手に手を重ねた風になってしまった。
彼女が持っていた本は、
「『初恋』?ツルゲーネフの?」
「ひゃっ!ちがうんです、これは参考書っていうか!」
「参考書?」
「違うんです!違うんです!」
そうか、と、僕は分かってしまった。彼女は僕が初恋なんだ。
ああ、なんて。
ああ、なんて──。
なんて、光栄なことなんだろう。
僕は次の言葉が継げなくて、重ねた手を離す。
あっ、と彼女が小さく叫び、ツルゲーネフが落ちていく。僕は動けない。足が出そうになったけれど、本を蹴るなんてもってのほかだ。
本が床に落ちる。小さな文庫は、ぱさりという小さな音をたてる。
落ちた本と一緒に──、僕は恋に落ちた。
僕もまた、これが初恋だった。