必要な淑女教育
――お母様が、悪魔に見える。
確かに私は男として過ごしていた期間が長過ぎたため、歩くのは早いし、動作も荒い。
男の姿でお淑やかになどしていられないからだ。
普通の令嬢より少しガサツなのは認めよう。だけど、それにしたってお母様のしごきは常軌を逸していると思う。
「お母様、ちょっと、待って。少し、休ませて」
頭に分厚い本を三冊も載せて歩く練習をしていた私は、ヨタヨタしながら休憩を申し出る。
頭が、首が、もう限界。
「何を言っているの。せめて基本的な所作だけでも習得しないと、恥をかくのはケリエル様なのですよ」
そう言って、まだまだこれからですよ。と笑うお母様が怖すぎる。
小さい頃は、わりと甘やかされて育った。
周囲は伯爵家の令嬢だから可愛い可愛いともてはやしてくれたし、私自身ケリエル様の横に立ちたいがために、お母様や周囲の貴婦人を真似て大人びた動作を心掛けていた。
だからわざわざ個人的に学ばなくても、令嬢として様にはなっていたのだろう。
だけどそれも、あくまで七歳までのこと。
男として生きてきた私は、男女共に共通の貴族のマナーはできても、女性らしさの所作は一切忘れてしまっているのだ。
特に大人の女性の所作など、学んですらいない。
男の姿の時は女性の仕草など、皆同じに見えて気持ちが悪いとさえ思っていたのに、いざ女性に戻るとその嫌悪していた所作さえ思い出せないほど、ガサツな動きをしてしまう。
男の時のようにドレス姿のまま廊下を勇ましく歩く姿に、お母様や侍女達に大きな溜息を吐かれた私は、そのまま別室に拉致られ、淑女教育の基礎を叩き込まれている最中なのだ。
……だがこれは、かなりの苦行。
コルセットと同様、何度も気を失いかけた。
「ケリエル様の婚約者にしていただいたのでしょう。それならば、ちゃんと侯爵家の恥にならないよう、貴方自身が頑張らないといけないのですよ」
そう言うお母様のお顔は凄く怖いけど、確かにその通りだと思う。
私は今まで自分の境遇が不運だと嘆いてばかりだったし、周りも私に対して腫れ物にさわるかのように気を使ってくれていたので、この十年は好き勝手に生きてきた。
お母様も決して、私に小言を言うようなこともなかった。
だから女性に戻った私に、お母様は今までの分も厳しく接してくれているのだろう。
私が外で恥をかかないために、ケリエル様に迷惑をかけないようにと。
「クリス様、ケリエル様からドレスが届きましたよ。あと、お手紙も」
侍女が持ってきた箱を見た私は、頭の上に本が三冊も載っていたことなど忘れて、さっと手紙を受け取った。
箱は侍女に言って、蓋を開けてもらう。
そこには普段使用のドレスが三着も入っていた。
ラベンダーとピンクとオレンジ色のドレスだ。
そういえば、ケリエル様は仰っていたわ。ドレスを送るって。
こんなにすぐに送ってくださるなんて、申しわけないけど凄く嬉しい。
私はドレスを確認すると、続いて手紙を開封して読み始める。
〔淑女教育は、はかどっているかな?
あまり無理はしないように夫人にもお願いしたのだけれど、夫人もとても張り切っていたので強くは言えなかったよ。ごめんね。
明日は回復薬を沢山持っていくので、それまで頑張ってくれると嬉しい。
ドレスは先日約束した通り、何着かこちらでも頼んでいたのだけれど、とりあえず三着だけ仕上がったとのことなので送らせてもらうね。
それと、数日後には伯爵からも話があるとは思うけど、近いうちに王族主催の夜会が開かれるそうです。
基本、王都に滞在している貴族のほとんどが、出席しなければならない大きなものです。
クリスはもちろん、私のパートナーとして出席することになります。
そう考えると、夫人の淑女教育はありがたいものかもしれませんね。
ああ、パーティー用のドレスも、もちろん私が用意します。
デザインの希望があれば、遠慮なく言ってくださいね。
では、詳細は直接会った時に改めて説明します。
取り急ぎ連絡まで。
ケリエル・イブニーズル〕
ケリエル様からの手紙からは、本人のように爽やかな甘酸っぱい柑橘系の香りがした。
普段使用している香水の匂いだろう。
まるでケリエル様がそばにいてくれているようで、安心する。はずだったのだが、内容を読んで私はピシッと固まってしまった。
お母様に淑女教育をほどほどにするよう頼んでくれたのは、嬉しい。
約束を忘れずに、早速ドレスを送ってきてくれたのも、嬉しい。
だけど……夜会⁉
まだ、全然令嬢らしくない私がもう王族の夜会に出席するの?
しかも、ケリエル様のパートナーとして?
実質上のお披露目? デビュタント?
…………………………嘘でしょう?!?
手紙を凝視して動かなくなった私を不思議に思ったお母様が、横から手紙を覗き込んだ。
淑女がとる行動とは思えません。
お母様のはしたない行為にハッと気が付き、すぐに手紙を胸に押し当て内容を隠したのだが、お母様の目はキラキラと輝いていた。
夜会の文字がしっかりと見えたのだろう。
お母様が、むふーっと鼻息荒く私の腕を掴む。
その衝撃で、私の頭からは三冊の本がドサドサッと落ちた。
い~~~~~や~~~~~!
私は涙ながらにブンブンと頭を振るが、お母様はに~っこりと笑う。
思わず侍女達に助けを求めるが、侍女達の表情もお母様と同じでキラキラと輝いている。
私の悲鳴も虚しく、ずるずるとお母様に引きずられ、頭には先程落ちた三冊の本と一冊の本を追加で載せられた。
「夜会ということは、すぐにダンスも必要となるわね。良い先生を探さなければ。さあ、クリス。休んでなどいられないわ。覚えることは沢山あるもの。頑張りましょう」
「クリス様、頑張ってください。私達もクリス様磨きに全力を注ぎます」
血色の良いお母様の顔と顔面蒼白の私。
侍女達からは熱い声援をもらう。
私はケリエル様の手紙を、胸にギュッと抱きしめる。
ケリエル様。回復薬、たっぷりどっさり用意してきてくださいね。