俺達は幸せになれる
ソラが仕上げを描き始めて二時間ほどが経ち、右下に細い筆でサインを書いた。
振り返ったソラは室内の照明に照らされ、影の場所から銀次は一歩前に踏み出した。
「待ってっ!」
ソラが手を前に突き出す。銀次の足が止まる。
「……見て欲しいものがあるんだ。ボクと愛華ちゃんのこと」
ソラが椅子から立ち上がり、机に置かれていたアルミの箱に手を置く。
「あのね、ボクと愛華ちゃんは昔は仲が良かったんだよ。お母さんがいなくなって……お父さんが帰らなくなって……ボクは愛華ちゃんの後ろにずっといたんだ。勝手だけどさ、お姉ちゃんみたいって思ってた。でもだんだん怒られるようになって、お願いが多くなって……それでもボクは良かったんだよ」
その背中は小さく震えていた。
「皆にすごいって言われていた愛華ちゃんを支えたいって思ったし、なによりも居場所を与えてくれた愛華ちゃんに……『ありがとう』って言いたかったんだ……だから、中学生最後のコンクールで、これを描いたんだ」
箱を開ける。慎重に取り出した、ナイフで切られたその絵を見て銀次は目を閉じたかった。
ソラが持っていたのは……。愛華の人物絵だった。切り裂かれ、それでもわかるほどに憧れと誇らしい自分の自慢の従姉妹が描かれている。ソラは絵を抱きしめながら膝をついた。下を向き、懺悔するように語る。
最後のコンクールに提出するこの絵が完成した時、ソラは何か月もかけて描いたこの絵を一番に愛華に見せた。中学の美術室で、布をとって愛華の前でこの絵を見せた。当時、徐々にあたりが強くなっていた愛華との仲直りを望んだソラの、唯一の気持ちを伝える方法がそれだった。喜んでくれる、そう思っていた。
「ボクの絵を見た愛華ちゃんはね。言ったんだ……」
涙が零れる。辛い、本当は話したくない、見ないふりをして、貴方と一緒にいればいい、だけど……。
『……よくわかったわ醜い子。貴方のお母さんはね……ソラ、貴女が怖くて逃げだしたのよ』
わからないから『私』が君を傷つける前に、知って欲しいと思った。
ソラは痛みを銀次に伝えた。
その痛みをソラは一生忘れられない。古い記憶、まだ幼く喋ることもできない時、二人そろって手を伸ばしてくれた確かに仲が良かったはずの両親。その二人を切り裂いたのは自分だった。美術室から愛華が出て行った後、ソラは机に置かれていたナイフをキャンパスに突き付けた。
「どうしてか、わかんないよ。なんで愛華ちゃんはボクにイジワルするの? お母さんはなんで出て行ったの? お父さんはなんで帰って来てくれないの? 聞けないよ……わかんないよ……怖いよ……」
銀次には愛華の感情をある程度理解できた。ソラの絵を見てわかってしまったのだ。自分よりもソラの才能が優れていたこと、そして……自分が一番輝いている瞬間をソラは決して忘れないことを……愛華は恐れたのだ、いつか未来で自分が過去の自分と比べられてしまうことを、積み重なる栄光はそのまま重荷となる。周囲の目よりも親の評価よりも絶対的なソラの記憶を恐れた。いつか、ソラに抜かされ、自分が過去に潰されることを恐れた。
だからその未来が来る前に、今のソラを否定した。
絵を否定し、才能を否定し、容姿を否定し、性別を否定し、最後にソラを遠ざけて。
ソラという少女を恐れる自分を否定した。
「銀次……」
否定された少女は俯いて愛しい人の名前を呼んだ。わからないから、傷つけるのが怖くて『助けて』と言えない。
「ソラっ!」
しかし、銀次にはずっと前からはっきりと聞こえていたのだ。
今だってちゃんと聞こえている。
何度だって、応えて見せる。
影の暗幕を切り裂いて、照明の光の中へ躊躇なく銀次は足を踏み入れる。
初めて出会った時よりも強く、確信を持って、ソラを抱きしめた。
「大丈夫だ。俺達は幸せになれる」
いつも通りにニカっと笑って。
迷いなく、真っすぐに、宣言した。
次回の更新は明後日の予定です。
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