愛華のアトリエにて
銀次達が二人の時間を過ごしていたころ、澪は愛華のアトリエにいた。一限目の授業の休憩時間中に手伝いに来るようにIINEに連絡がきていたのだ。
学校から歩いて数分のこの場所は、小さな庭付きの木造の平屋であり、愛華の父親が愛娘の愛華と姪のソラの為に用意した場所だった。高価な画材や絵の具が並び空調設備も整っている。別室には寝室とシャワールームすら備えて快適に作業に集中できるように工夫されていた。もっとも、この場所を気に入った愛華は自分専用の絵画工房として使い、ソラには掃除や画材の準備をさせるだけだった。
普段は病的なまでに片付けられているアトリエだったが、今は見る影もなく散らかっている。
地面にばら撒かれた下書きの山とワンセット数万の高級油絵具のチューブが無造作に床に投げ捨てられていた。
「愛華様……あの、終わりました……ですが、リストの絵を全て完成させるのは無理です」
絵画を梱包しながら澪はこの場所の主に進言する。学校を休んでいた愛華は銀髪を後頭部で束ね、腕まくりをしたワイシャツに作業用のエプロンをつけて、筆を走らせている。油絵は絵の具の乾燥に時間がかかる為、一度色を付けると一日以上経ってから違う色を重ねないと絵の具が混ざってしまう。その性質上、何日もかけ何度も色を足し、削り、時間と共に絵と向き合う非常に消耗の激しい絵画である。
愛華が取り組んでいるのは、自分が取り組んでいる油絵の一枚、夏のコンクールように描き上げようと途中までソラに任せていた一枚だった。今日の分の加筆を行い。澪に向き直る。やや疲れた表情で愛華は机に筆を置いた。
「間に合わせる必要はないわ。あの子への嫌がらせの為だけに、贈答用の依頼を受けていただけだから、時間のかかるコンクール用の油絵だけ終わらせればいいの。私の将来の為にどうしても必要な相手への贈呈用の絵はアクリルですませるわ。とりあえずその絵を送れば、当面はこの絵だけに集中できるから。それを業者に送ったら、部屋の掃除をしなさい。手伝いも呼んでいるわ」
澪が梱包の終わった絵画を抱えながら机を見る。そこには愛華のスケジュールと愛華が嫌がらせと言った未完成の絵のリストが書かれていた。澪が驚いたのはほんの数週間前までこの異常なリストがこなされていたという事実だった。
「髙城はどうやってこの量の絵を描いていたのでしょう?」
「……シャワーを浴びてくるから、片付けをしていなさい」
地面に捨てられた描きさしの絵を踏みながら愛華はエプロンを外して、シャワールームへと向かった。そして、熱めの湯を浴びながら壁を手で打つ。
「……クッソ、クソクソクソ。あの化け物……醜いソラの分際で……」
愛華が踏みつけた絵は、ソラがしていたことを愛華がしようとした結果だった。
ソラは愛華が押し付けた凡そ無理な絵の作業をこなす為に、様々な方法を使って絵を描いていた。特に技法を問われない贈答用の絵に関しては下書きすらせず、油分を調整し未乾燥の塗膜に描画することで絵の具の乾燥を無視して短時間で作品を書き上げていた。その技法自体は広く使われているものであり、変わってはいるが取り立て珍しくはない……だが、ソラの絵はクオリティが異常だったのだ。一発勝負で線を引き、絵の具を重ねて頭の中の情景を直感的にキャンパスに浮かび上がらせるこの方法で描くと、ソラが描いた『愛華の作品を真似して描いた絵』よりも遥かに出来の悪い作品になってしまった。
絵の上手い下手とは別次元の、髙城 空という人間の持つ特異性。それに由来する、作品の根本的な『差』を実感させられる。さらに、ソラに作業を任せていた為に一から絵を描くと違和感がでてしまい簡単な絵でも筆が走らない。すぐにでもカンは戻ると考えていたが、違和感を拭うことができず結局昨晩から工房にこもりなんとか感覚を取り戻そうとしているのだ。
「どうして私がこんな屈辱を……私にこんな思いをさせるなんて、許せない……」
シャワーを浴びて、タオルを巻いたまま寝室のベッドに腰かける。なんとか一枚描き上げることができたが疲労困憊だ。このまま眠りたいがスマフォを取り出し、SNSを確認する。
「今日は記事がネットに上がっているはずだから……」
前回のコンクールの結果と自分の容姿の美しさから取材がきていたのだ。その記事がネットに乗るのが今日のはずだ、反応を見ようと学校内のSNSを確認するが、そこに愛華の名前はほとんど流れていなかった。
「嘘よ……このっ!!」
そこには、ショップ店員に撮影されたソラのワンピース姿が取り上げられており、彼女が校内の人気を見るSNSではその話題で持ち切りだった。わずかに、自分の取り巻きが記事を宣伝するのみ、コメントすら期待の半分もついていない。スマフォを壁に投げつける。
「愛華様!? あの、音がしましたが……」
心配した澪が部屋に入る。画面の割れたスマフォと、意気消沈した愛華を見て澪は言葉を詰まらせる。
「ソラが校内のSNSで噂になっているようね……不愉快だから、私の記事が流れるようにしなさい……少し寝るわ……あと、新しいスマフォを準備しておいて」
「は、はい。わかりました」
そのまま愛華はベッドに倒れ込み、目を閉じる。眠気があるにもかかわらず、一向に眠ることはできなかった。
次回の更新は明々後日になりそうです。すみません。
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