朝の挨拶
パンと頬を叩き、気合を入れて銀次は家を出た。昨日の話通りならば、本日のソラは女子用の制服姿のはずだ。
私服状態を見るに普通に可愛い可能性が高い。なんとか平静を装わなければならない。
自転車をこぎ、いつもの待ち合わせ場所である。商店街前へ向かう。遠目からソラの姿が確認できた。
「あっ、銀次っ! おはよう!」
薄手のカーディガンにリボンを付けたブラウス、下は膝丈のスカート。
制服姿のソラが元気に手を振って銀次を迎えた。自転車から降り、すべるようにソラの前に立った銀次は改めてソラを見て……膝から崩れ落ちるかと思った。
「……おう。おはよう……」
銀次は下腹に力を入れて、なんとか答える。遠目ではわからなかったソラの姿は予想をはるかに超えていた。
短めの髪を少し内側に巻いて、しっかりと目が見えるように整えられた前髪。いわゆるショートボブなのだが、それまでの陰キャという印象からボーイッシュな可愛さに変化しており、あまりに前と印象が違う。校則に触れないほどのナチュラルなメイクはそれまで眼鏡で隠していた目元を強調しており、大きなソラの瞳が綺麗に映えていた。
胸の膨らみを隠す為の猫背は消え去り、ピンと伸ばした背筋はリボンを乗せた胸と、それまで目立たなかった細く長い手足を銀次に見せつける。
可愛いとは思っていた。しかし、まさかここまで変わるとは想像もできなかった。
愛華のような美人というわけではないが、それ以上の可愛さを持つ美少女がそこにいた。
「ど、どうでい?」
ただし立ち振る舞いは伴っていない。腰に手を当てた仁王立ちにムンと胸を張る仕草に色気はないが、それはそれで可愛らしいのだから反則である。
いつも通りとか、そんな思考をしていた銀次だったがソラの姿を見て考えを改める。
ソラは本気で変わろうとしているのだ。その気概に全力で応えるのが漢というものではないだろうか。銀次はその理由が過去を乗り越えようとしている為と思っているが、その実ソラは、銀次に女子として意識してもらえるように頑張っているだけである。
まさか自分の為だけに、ここまで変わったとは露にも思わない銀次なのだった。
「……可愛いぞ。頑張ったな」
本心から出た言葉は文字通りソラの心臓を打つ。まさか真顔で褒めらるとは思っていなかった。
衝撃は甘い痺れとなって全身をめぐる。しかし、いまやすっかり欲しがりのソラはそれでは満足しない。
「じゃあ、撫でて」
「は?」
「撫でれ」
ズイっと頭を差し出すソラ。風に乗って柑橘系の香りがした。
「髪、整えたんじゃないのか?」
「すぐに直せるから大丈夫」
頬を赤くしながら、寄って来たソラの頭に銀次は手を乗せた。
「ったく、ほら」
ガシガシと乱暴に、だけれど優しく頭を撫でられる。くすぐったいのは頭じゃなくて胸で、熱いのは気温ではなくて頬で、一秒でも長く銀次を瞳に入れておきたくて、ソラは嬉しすぎて泣きそうになった。
「エヘヘ、うん、元気充電」
「鞄寄こせよ。いい時間だぜ」
「おうっ」
手鏡でを簡単に直して、ソラは鞄を自転車のカゴ入れた。
夏を知らせる風は坂を下り、二人の間を通り抜ける。
「すっかり、暖かくなったね」
「もう暑いくらいだ。期末テストも始まるな」
「今回は10位以内目標だから、各教科20時間くらいかな」
「……お手やわらかにな」
眼鏡の無いソラの表情は変化がわかりやすく、コロコロと笑ったり膨れたり、色んな顔を銀次に向ける。それを直視できなくて銀次は前を向くが、ソラが顔を覗き込んでにらめっこのようにお互い笑い合う。学校に到着し、自転車を銀次が停めるとソラはいつものように挨拶できる人を探す。
そこで銀次は自分たちの行動の問題に気づき、ソラを止めようとするが。
「待てっソラ……」
観察力に優れるソラがすぐに相手を見つけて元気に挨拶をした。
「おはよう、斎藤君」
銀次とのやり取りですっかり舞い上がったソラが普通に挨拶をする。
男子に挨拶するのはまだ緊張するソラだが、何度も挨拶をしている斎藤はわりと慣れた調子で、どもらずに挨拶できるようになっていた。
「おは……ブファアァアアアア!」
「斎藤君!?」
盛大に吹き出す斎藤に顔に手を当てて天を仰ぐ銀次。
「な、え、あ、誰?」
大柄な体をのけぞらせて斎藤はマジマジとソラを見る。女子から挨拶される機会なんて数えるほどしかないガチガチの運動部男子である斎藤は、雷に打たれたようにショックを受けていた。
しかも、相手はなんだかフレンドリーで、くっそ可愛い小柄な女子だ。覚悟を決めていた銀次と違い、奇襲一撃を受けた斎藤は膝をつき、すかさず銀次がかけよる。
「大丈夫か? 傷は深いぞ」
「銀次、俺はここまでのようだ」
ついノリでふざけてしまう男子高校生という生き物についていけず、ソラはハテナを浮かべる。
「ふざけてる場合か、いいから立て」
「そっちも乗ったじゃねぇか……ところで、えと、君は?」
まだ気づかない斎藤にソラは自分の顔を指さす。
「まだ気づかないんだ。ソラだよ。髙城 空」
「……は? 髙城?」
状況が飲み込めず銀次を見る。
「そうなるのはわかる」
うんうんと頷く銀次を見て、斎藤はようやく自分におはようと言ってくれた美少女がソラだと認識した。
「女子?」
「うん、本当は女子だったんだ。色々あって……」
「そ、そうか。あー、むしろ納得だけど……じゃ、俺、教室行かせていただきます」
「何で敬語?」
「そっとしてやれ、まだ理解が追い付いてないんだ」
ギクシャクと教室へ向かった斎藤を見送り、さらにソラは挨拶を続ける。
完全に止めるタイミングを逃した銀次は、遠い目をしてその後の凄惨な光景を見続ける。
「あっ田中君、お、おはよう」
「ブファ……えっ? 何? 何円?」
「よしっ、吉田君おはようっ!」
「……おはよう?」
その後も緊張しながら挨拶を続け、順調に『被害者』を増やしていくソラ。挨拶の相手は愛華との確執から基本的には銀次の友人であり、女子とは縁遠い人種が多数を占める『男子高校生』である。そんな女子慣れしていない男子が、急に可愛い女子に名前を呼ばれて『おはよう』なんて挨拶をされるとどうなるか……。
ソラはそのことを身を以て思い知ることになる。
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