新学期
目覚まし時計が鳴る前にチョップでベルを止める。寝ぼけ眼を擦りながらパジャマを脱ぎ捨てる。前日に準備した夏用の制服を取り出して、スカート、ブラウス、サマーベストの順に来ていく。二階へ降りて椅子にかけてあったエプロンを掴んで着けながら、食器棚からお重を取り出した。
「よっし! 頑張る!」
仕込みは完璧と冷蔵庫からこれでもかと準備した材料と、準備していた具材を取り出して調理しながらお重に詰めていく。早朝の五時の静かな台所に響く賑やかな調理の音は軽快な音楽のようにも聞こえた。トーストとゆで卵、そしてたっぷりの牛乳を弁当作りの合間に口に入れて朝食を済ませる。
調理が一段落して、お重を保冷剤と一緒に風呂敷に包んだら、エプロンを外して洗面台に駆け込む。
夏休み前よりは少しだけ丁寧に朝の身支度をして、居間に置いてある姿鏡に自分を移す。
「んー? 大丈夫かな?」
可愛い……はず? 想い人はたいてい褒めてくれるのだが、いつも褒めてくれるので違いがわからない。こればかりは自分の記憶力だけではどうしようもない。ギリギリまで髪を整えて深呼吸。
誰もいない道を進む。夏の朝日はまだまだ健在だとすでに高く昇っていた。
「暑い……」
日焼け止めなんて意味あるのだろうか? とか考えながら商店街前の交差点を目指す。
待ち合わせまでは少し時間があるが、それでいい。
朝の忙しさも、想い人を待つ時間も一か月のぶりの大切な時間なのだ。アルファルトに温められた風とセミの鳴き声の中で相手を待つ。
お重と夏休みの課題でパンパンの鞄は少し重いけど、負けてなるものかと気合を入れると、やっぱりいつもより早く相手は自転車でやって来た。
「おはよう、銀次っ!」
「早いっつーの。おはよう、ソラっ!」
これ以上ないほどの満面の笑みでソラは銀次を迎えたのだった。
お重と自転車のカゴに入れると、二人で歩き出す。
「久しぶりの制服だな。似合ってるぜ」
「さらっと言うんだもんねー。でも、ありがと。銀次もかっこいいよ、バルブに例えるとゲートバルブくらいかっこいい」
「例えがニッチすぎる! しっかし、久しぶりに制服を着ると首が閉まるな」
白のシャツはやや窮屈そうで、どうやら銀次は夏の間に身長が少し伸びたらしい。無論、銀次の身長は常に把握しているソラはそのこと理解している。
「身長が1.2㎝ほど伸びてるもんね。体重も0.7キロほど増えたでしょ。でも筋肉も付いているからかっこいいんだよね。今度、ボクが髪の毛切ってあげる。そうだ銀次、メンズようのスキンケアセットもたっくさんあるんだよ。おすすめは――」
「落ち着け。なんで俺の体重までわかるんだよ」
「あはは、ボクが銀次のことを知らないわけないじゃん」
彼氏のパーソナルな情報は当然把握している。なんなら銀次よりもソラの方が銀次のことを把握しているまであるのだ。
「お、おう。ソラはどうなんだ?」
「……どう見える?」
横から上目遣いで見上げるソラ。短くしていた髪を整えながら伸ばしたこともあり、夏休み前よりもずっと女子らしい。印象的なヘーゼルアイは光の粒子を受けて煌めいて、白桃のような頬はどこまでも滑らかだ。銀次から見た角度ではやはりどこか違うような……。
「変わってはいるな。身長伸びたか……」
「0.3㎝だけ伸びた……うぅ、銀次との身長が開いていく」
「まだまだこれからだろ」
励まされたソラはポスンと自転車を押す銀次の肩に頭を寄せる。そして、見上げるように囁いた。
「……お胸はおっきくなりました」
「ぐぶっ!! 急に何言ってんだ」
「彼氏のことは全て知りたいボクだけど、ボクのことも全て知って欲しいからね。もうちょいでD……」
「わかったっての。他に聞かれたどうするんだよ」
「ちゃんと、周りは見てるってば」
そんなことを言いながら、どうりで見下ろすソラのシルエットが前に比べて少し女性らしかったんだな。と違和感の正体に思い当たってさらに混乱する銀次である。だが、決してソラを引き剥がすことはなく二人で仲良く登校する。学校前の坂道に着くと、生徒もチラホラと増え始め否が応でも二人……もとい、ソラは視線を集め始める。
「この感じも久しぶり」
好奇の視線に混じる、確かな敵意、畏れの悪感情。入学してからずっと一年の女子達の半数と一部の男子はソラの敵だった。以前よりはずっと減っていたが、それでもここに来ればそれは纏わりつく。ソラは気づかなかったが、その悪意の視線には新たに強い嫉妬がこびりついていた。
「……大丈夫か?」
「うん? んー、なんていうか。全然ちっぽけに感じちゃう。むしろ、それ以外の視線の方が無図痒い……」
自分でも意外なほどにソラはその視線を受け止めていた。銀次と一緒にいることに比べればこんなものに思考を裂くことすらもったいない。問題は……自分に対して悪感情ではない熱視線を送って来る一部生徒である。横を見れば、いつかの電車で話しかけてきた先輩が手を振っている。恥ずかしいのでそそくさと銀次の背に隠れるソラなのであった。
「まっ、そりゃそうか」
二人で坂道を上る最中に。何人かの先輩やクラスの男子に挨拶をしながら校門を入る。
自転車置き場に自転車を置いて昇降口まで来ると、ソラは自分の靴箱の前で距離を取って手を伸ばしたまま止まっていた。銀次が訝し気に声をかける。
「どうした。そんなところで止まって?」
「一応安全距離からチェック……えいっ!」
ソラは下がりながら靴箱を開ける。特に何もなく、靴箱の中は空だった。
「ありゃ、ちょっと拍子抜け」
「なんか仕込まれていると思ったのか?」
「そりゃ、銀次と出会った頃は凝りもせず毎日落ち葉とかゴミとか入ってたもん。挨拶運動とかしているうちに無くなっていたけど新学期だから何かされるかと思ったのさ。靴も隠されるから下足を入れる袋はマストだもんね」
そう言いながら取り出した下足入れにローファーを入れるソラ。靴箱に何かされていたわけではないが、靴箱を使う気にはなれないようだ。
「思い出したら胸糞悪くなってきたぜ。お礼参りするなら付き合うぜ」
夏休み前のソラの置かれていた現状を思い出して、眉間にしわを寄せる銀次。ただでさえ見る者を威圧する強面が三割増しに凶悪になっていた。
「いらないよ。それよりも、今はこっちのがずっと大事なんだ」
照れながらもまっすぐにソラが銀次に手を伸ばす。
「なんつうか。マジで俺の彼女はいい女だぜ」
「いまさら気づいたの? ……とか言ってみたり」
「ハハ、そこは胸張って言い切れよ」
「まだレベル足りないし……」
そっと手を握る。以前なら周囲を気にしていた銀次だったが自然に受け入れて二人で教室まで行く。見せつけるわけでなく、少しでも触れていたいが故の行動だったが、それを見せられる者はたまったものじゃない。教室に入った瞬間、胸を押さえながら呼吸を整えている斎藤に詰め寄られる。
「銀次、朝から髙城ちゃんとの仲良さそうで何よりだなぁ! 髙城ちゃんおはよう。夏休み前と違いすぎてすげぇ話題になってんぞ」
「暑苦しいぞ斎藤」
「おはよう斎藤君。話題って何が?」
「そりゃ、テストで学年一位が夏にこれだけ……まぁ、俺達は知っていたけどよ。流石にこれはシャレにならんぞ銀次」
小首をかしげるソラを見て、一体誰がかつて男子として過ごしていたと思うだろうか。人ごみの中にいてもすぐにわかるだろうと断言するほどに纏う雰囲気が違う。『羽化』と形容できるほどに、夏休みの間に女性らしさに磨きをかけたソラはあまりに可愛く、愛らしく、登校してくるだけで学校の話題をさらっていた。
それは単なる見た目の良さという枠に収まらない。銀次との関係を深めることで得た自信の表れと、愛華とその取り巻き達により受け続けた陰惨な虐げや性別すらも塗り替えられた抑圧を乗り越えた先で、意図せず身についていた内面の強さがもたらす美しさであった。
坂道でソラが感じた悪感情の視線。そこに混じる嫉妬の感情は同時に敗北の感情でもあった。
皮肉なことにそれは虐げて来た者にはよくわかるのだ、ソラはもう自分達が傷つけられる場所にいないことに。銀次はお礼参りをすると言ったが、実のところ、すでにこの上ない敗北をその者達に叩きつけている。
衝撃とは大きければ大きいほど伝わるのはゆっくりとなる。
夏休みを経て成長を遂げたソラの衝撃はゆっくりと大きな波となって学校に広がっていた。
「まぁ、ソラは可愛しな」
「ちょ、最近の銀次はずるいよっ! でも好きっ!」
……本人達がそのことを自覚するのは、しばし後になる。
次回更新は、多分月曜日です。余裕があれば追加で更新します。
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