夏に知ったこと
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腰を落とす。監督からの指示を確認して、相棒に向き直る。むせかえるような汗と土の匂い。
ピッチャーにサインを送るこの指からゲームは始まる。その特権を誰にも譲るつもりはなかった。構えたミットの先に見えるのは白球が描く白線。この光景に心底取りつかれていた。
『努力は必ず報われる』
そう信じていた。……あの時までは。
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「兄貴のかっこいいとこ見れますよ」
そう哲也に言われたソラは、一旦銀次と別れてお重を生徒会室へ運び、その足でグランドへ向かう。
すでに野球部の練習は始まっているようで、元気な声が響いていた。
「しゃぁ、声だせっ!」
『えぇえええい』
「声小くねぇか!」
『えええええええい!!』
「出せるじゃねぇか!」
『おおぉおおおっす』
グランドの外周を走る生徒に銀次が声をかけ、生徒が応える。銀次の横ではジャージ姿の教師が立っており、どうやら銀次に声出しを任せたのは彼のようだ。
「おぉ……男の子だ」
丸刈りの中学生達が列をなして走る姿をソラは高校でも見たことはあるが、やや乱暴ともとれる大声を出す姿は普段見ない姿だった。グラウンドに行くと、ユキと幸子が二人で大きなヤカンを運んでいた。
「あっ、ソラさん。来たんですね」
「う、うん。手伝おうか?」
「いいですよ。それよりも、見学ならこっちでどうぞ。何もない所よりかは涼しいですから」
女子マネの二人に連れられて、トタン屋根下のベンチに案内される。呼吸するだけで汗が出るような熱気の中で紙コップをユキが差し出す。中身は冷えた麦茶だった。
「どうぞ」
「あ、ありがと」
年下に気を使われているようで少しだけバツが悪い。グラウンドを見ると、ウォームアップを終えた部員達はストレッチをしているようだ。その後はキャッチボールをするソラからみれば遠投のような距離で軽々とボールが行き来する。それが終わると、内野の守備練習をするようだ。キャッチャーは二人が準備をしていてその内の一人は銀次だった。防具のサイズが合わないのか、苦労しているようだ。
「……キャッチャーなんだ」
野球そのものには疎いソラではあるが、そのポジションのことは知っていた。
「知らなかったんですか? ギン先輩は小学生のころからずっとポジションはキャッチャーだったみたいですよ。シートノックだって、ギン先輩が一番上手だったんですから」
ユキが自慢げにそう言う。ソラは目を輝かせて銀次を見つめていた。
『おぉおおおおう』
狂ったような声。声を出すこと自体が苦手なソラは圧倒される。視線の先では各塁でボールが高速で回されていた。
中学生といってもその表情は真剣そのもので、必死で声を出しながらボールを投げる姿は紛れもなくアスリートだった。
「ランナー一塁!」
銀次がホームから指示を出す。ランナーがいる時の立ち位置や塁間の連携。あみだくじのように複雑な線がグランドに描かれる。
グローブにボールが入るパァンという音は驚くほど澄んだ綺麗な音で、それが意図を持った音楽のように続いていく。
「ホーム!」
声が響き、一塁からボールが投げられるキャッチからの流れるような体の動きで二塁へボールを投げる。なんとかそれをキャッチした後輩を指さす銀次。『ナイスキャッチ』という意味なのが動きだけでわかる。ソラはそんな銀次をじっと見ていた。
シートノックが終わり。防具を外した銀次がソラの元へやってきた。グラウンドでは教師がノックをしているようだ。
「お疲れ様です。ギン先輩」
飲み物の準備をしていたユキがお茶を銀次に渡す。
「おう、ありがと。久しぶりだから太ももがツリそうだぜ。なまってんな」
「アハハ、全然動けてましたよ。じゃ、私達ボールの準備してきます」
「ん、熱中症に気を付けろよ」
「はい」
女子マネの二人を見送る銀次に後ろからソラがタオルを頭に被せる。
「はい、タオル。かっこよかったよ」
「ありがとよ。ハァ、疲れた。アイツ等後で送球を教えろってよ。まったく、疲れるっつの」
口調とは裏腹に全然嫌そうじゃない銀次を見て、ソラはその袖を引いた。
「ソラ?」
「ねぇ、なんで銀次は野球を続けなかったの? 高校でも野球部あるじゃん。斎藤君とも仲良いし……前に中学から仕事を手伝ってたって言っていたし、何かあったの?」
何かあったことは、銀次の様子や会話の流れでわかっている。それが銀次にとって大事なことだということもわかる。だから、ソラはどうしてもそのことについて聞きたかった。それが、銀次にとって話づらいことえあっても。
「……まっ、別に隠すことでもねぇか。座ろうぜ」
影になっているベンチに座った銀次がタオルを被りながら、グラウンドを眺める。
そして口を開く。ソラは無言で、ただ真剣にそれを聞いていた。
「俺さ、結構真剣に野球好きだった。今でもそうだけどよ――」
銀次が小学生の頃。ちょっとした不況が町工場を襲った。経済という意味でいえばニュースにもならないほどの規模だったが、それでもそれで生計を立てている者にとっては大変なことだった。銀次の両親はいくつかの工場を守るために働きづめで、幼い銀次と哲也は父方の祖父の工場に預けられることが多かった。子供との遊び方なぞ知らなかった祖父は銀次に自分の趣味を教えていた。将棋や相撲、そして野球だった。
「最初はキャッチボールでな。哲也や爺さんとずっとボールを投げ合ってたもんだ。哲也は将棋の方が好きだったけどよ。俺は断然野球だった。そんで少年野球をやって、中学でも軟式の部活に入ったんだ」
肩が強いという理由で任されたキャッチャーというポジションだったが、銀次はそのポジションが好きだった。
「ショップとか行くとたくさんのピッカピカのグローブが並んでいてな。その中で一番カッコよく感じたのがキャッチャーミットだった。黒色で紐がいっぱいついてるのを親父に頼んで買って貰った。一人で壁に向かって送球して、試合で盗塁を阻止したりしてさ……やればやるほどうまくなる自覚があって、あの頃の俺は無敵だった。自分より上手い奴を見ても、練習をすればいつか追いつけるって漠然とそう思っていた。才能とか言葉すら考えなかった」
そして、銀次にはキャッチャーとして真剣に向き合った相手がいた。
「ピッチャーだ。中学で俺とバッテリーを組んでいた。俺に負けず劣らずの野球好きでな。暇さえあればボールを握っているような奴だったよ」
出会ってすぐに気の合った二人は部活外でも暇さえあれば練習をしていた。そして、実際に二人は上手くなっていった。学校対抗戦、地区大会、県大会。舞台はどんどん大きく、果てしなく広がっていく。
「勝てなくなったんだ……。それまで無敵だった俺達の魔球は簡単に打たれるし、盗塁もバンバンされちまった。そんでこっちのバットはかすりもしない。練習しても、練習しても、どこかで負ける。県の代表練習とかに行くと、体からして違う奴がごろごろいた。俺はまだよかった。キャッチャーってのはやるべきことが明白だし、差が付きにくい。だけどよピッチャーってのは違う……」
球速、球種、コントロール、フィールディング、あらゆることに明確に数字で差が出てきて、それを叩きつけられる。生まれながらに絶対に越えられない『才能』の壁がそこにある。そして、銀次は相棒よりもほんの少しだけそういったことに鈍感だった。
「それでもさ、負けたくなかった。二年生になった俺とアイツは先輩達を押しのけてエースと正捕手になっちまった。中学生っていってもよ、本気で練習していた人達を押しのけて俺達が試合に出るんだ。俺達が負けたらチームが負ける。だから、俺達はとにかく頑張った、がむしゃらにな。『努力は必ず報われる』って書いたノートに練習メニューを書いて、二人やチームでずっと頑張った。野球だけに没頭して……哲也にも迷惑かけていたと思う。家が忙しかったのにな」
エースというプレッシャーに潰されそうになる相棒に銀次は、共に頑張ると言う選択をした。ひたすらに練習をして、練習をして……。
「二年の夏の時。先輩達の夏を少しでも長引かせたい大事な大会だった。練習試合でアイツは……」
7回裏、1点リードのツーアウトランナー無し。中学の軟式では7回が最終回なのでこれを抑えれば勝てる。出したサインは相方が最も自信を持っているツーシーム。これで終わらせる。これが最後の一球。
……その一球がミットに元に届くことは無かった。
「なんてことはねぇよ。アイツは俺の無茶に付き合って、追い詰められて、一人で無茶な自主練をしていたんだ。そんで……肘を壊した」
あの夏。学んだことは一つ。努力は……必ずしも、報われるとは限らない。
次回も月曜日更新予定です!!
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