第4話 肉好きの若者が、名前を考える話。
捕獲したキングボアの枝肉は、絶賛冷蔵保管中である。
その捕獲中のやり取りで、若者は、老人が肉は新鮮なほど美味しいと思っているのではと感じていた。
帰り際にそのことを聞いてみると、案の定そんな感じだった。
それについては、ある程度準備ができたら実際にやってみた方がいいだろう。
若者は、そんなことを考えながら帰路についた。
そして、老人の「何だかんだで疲れておろう。今日は休め。」という言葉を聞いた若者は、いろいろあった1日を振り返って、素直にその言葉に従って休むこととした。
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次の日。
自分が思った以上に気が張っていたのだろうか。
若者はまだ早朝と言っていい時間帯に目が覚めてしまった。
二階の窓から外を覗くと、こじんまりとした裏庭の向こうに森が広がっているのが見えた。
老人はまだ寝ているのだろうかと下に降りると、既に起きていた。
「まだ早いが、あまり寝れんかったかの?」
「いいえ大丈夫です。ありがとうございます。」
老人は湯気の立ったコップを若者に向けて差し出す。
テーブルの反対側に座った若者は、受け取ったコップの中を覗き込みながら、
「これは何でしょうか?」
「木の実を炒って砕いてから、湯に浸した奴じゃ。巷ではよく飲まれとる。」
若者が一口すすると、多少の苦味の中にほのかな甘さを感じる。
「いいですね。」
「そうか。」
静かな朝だ。老人はずっとここに住んでいるのだろうか。
「えと…。」
「マルスマーダじゃ。マルス、と呼んでもらってかまわんぞい。」
「…わかりました。」
そういえば名前も知らなかったな、と微妙に悩んでいたが先んじて答えられてしまった。
そんなに分かり易く顔に出ていたかな、と思う若者へ、老人は、
「それはそうと、まずは朝食じゃな。」
と、ニカッと笑いながら声をかけるのだった。
「はい、…マルス…様?」
「様は余計じゃな。」
「しかし呼び捨てはちょっと…。」
若者は何となく雰囲気で、老師・翁などを提案してみた。
「翁とはまた…まあ何でもよいわ。」
その後、老人が周囲の人々からはマルスマーダ様、マルス導師、筆頭様、などなど色々呼ばれていることを教えてくれた。
せっかくだから翁で良いぞ、とも。
「わかりました。」と若者が答えると、老人は、
「まあ、恐らくじゃが暫くはここで寝泊まりすることになりそうだしの。気楽に呼んでくれたらええ。」
と言ってカラカラと笑った。
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その後、軽めの朝食を終えた後、若者は一番重要な話を切り出した。
「自分の名前は、というか名前以外もそうですが、ほぼ覚えていないんです。」
「まあ、そうじゃろうとは思ったよ。」
「一時的に忘れているだけなのか、それとも、そもそも自分がこの世界の人間なのか…」
と、若者は微妙に顔を伏せる。
老人は、穏やかな笑顔を浮かべながら若者に告げた。
「この世界では儂は結構な立場にいての。」
それは、若者もすでに気づいている。
その実力もさておき、普通の人は「導師」や「筆頭」などとは呼ばれないだろう。
「なので、お主がいろいろ事情を抱えていたとしても、まあどうとでもできるじゃろ。」
むしろ、どういう事情を抱えておるか、ちょっと楽しくもある、と老人が言う。
それを聞いた若者は、世間体的にも実力的にも「どうとでもできる」と言っているんだろうな、と思う。
自分の境遇を鑑みて色々と言葉を選んでくれていることも。
そして、
「お気遣いに感謝いたします。しばらくお世話になります。」
と深く頭を下げた。
老人は、うむ、と頷くと、
「まあ、とりあえず名前は必要じゃの。何か希望はあるかの?」
と若者に問う。
若者は、うーん…、と悩んだまま黙ってしまう。
「まあ、もう少し自分が何者かを知ってからでもよいかもしれんが。正直不便での。」
「そうですね。」
「とりあえず、【ニック】でよいかの」
ふむふむ、と提案を咀嚼した若者は、いい名前ですね、と返した。
特に無理強いするわけでもなく、何者なのか分からない自分をそのまま受け入れる老人。
一連のやり取りや気遣いに触れた若者は、草原に一人放り出されたとき、あえて考えないようにしていた不安や焦燥感を思い返し、この優しい老人に会えた幸運に深く感謝したのだった。