第8話「収斂」
その薬学者は血塗れだった。白衣はかろうじて原型を保ち、体に縋っている。傷だらけの体は、薬で治すには到底間に合わないほどだった。
「アハハハハハ!ショセンハコンナモンダ!ヤハリニンゲンノハンチュウデハカナワナイナア!」
立っていることすらままならないダーシャは、前方からくる岩石を避けられずに後方の壁に叩きつけられる。遠のく意識の中で、夢を見た。走馬灯と呼ばれるものを見た。20年以上前のことから、つい昨日のことまで。幼い記憶から順々にフラッシュバックしていく。
そっと目を瞑った。
その2人の少女は、幼なじみだった。隣の家に住んでいる、その条件があるだけで十分なほど仲が良かった。その2人の少女は、好奇心が旺盛だった。小さい頃から科学の世界に引き込まれ、日常で起こる全ての現象を理解しようと勉強していた。2人は一緒に学び知ろうとする中で、互いを良きライバルとして見るようになっていった。やがて1人は薬学の道に、もう1人は物理学の道に進んだ。研究部門が違えど、時には意見交換をし時には議論を重ねた。切磋琢磨するその2人の研究者たちは、次第に頭角を現していった。しかし、全てはあの事件によって狂うこととなる。
2085年3月20日(火) 午前9時3分
その日、ダーシャはヴリティカの研究所へ呼ばれた。どうやら原子番号121の元素、”仮称ウンビウニウム”の線形加速器を使った合成実験を行うらしい。ダーシャの物理学の知識量は決して多くは無かったため、具体的なことは理解できていないが、どうやら成功したら世紀の大発見らしいことは知っていた。
「やあダーシャ!今日こそは歴史に刻まれる良い記念日になると嬉しいな、なんて思っている僕でーす。」
少しやつれて目の下に隈ができているヴリティカは、健康を装ってダーシャに話しかけた。
「ヴリティカ、相変わらず元気...ではなさそうだね。しっかり睡眠はとりなよ?それで研究ができなくなったら元も子もない。」
そう言われ、ヴリティカはため息をついて肩を落とす。
「それはごもっともなんだけどさぁ。中々実験が上手くいかなくて...。それで今日は、第三者である君の意見が聞きたいなって思ってね。是非とも協力して欲しいんだ~。」
手を擦り合わせて懇願するヴリティカに、ダーシャは快くOKを出す。
「そこまでしなくても良いって。今日は君のために来たんだ。」
「ありがとうダーシャ~。それじゃ早速こっちに来てくれ。」
そして、実験は始まった。
実験開始から3時間が経過したが、依然何の進展も無かった。2人はもはやゲシュタルト崩壊をしてしまいそうなほど、同じ光景を眺め続けた。何度やっても、少しずつ条件を変えても、何も変わらない実験結果にうんざりしていた。そこでふとダーシャが、ヴリティカに提案をする。
「気分転換に何か違う実験をしないかい?そうだなぁ、今やってる奴とは別の元素の合成実験をしてみたらどうだい?普通では考えないような奇想天外な発想こそが、奇跡への第一歩というものだった。未知の領域に踏み込むことは科学者の宿命じゃあないか?」
「確かに... そうしよう!じゃあ準備をしてくるよ。」
そういうと、ヴリティカは機械の調整に入った。同時に、ヴリティカは元素合成の詳しい説明をダーシャにして第三者視点の意見を改めて求めた。
様々な元素の合成実験が始まり、2人は雑談を交えつつ意見交換をしていた。そしてある時、一つの実験結果を見てヴリティカは驚愕する。
「ん?どういうこと?」
「どうしたんだい?」
得体の知れないものを見たときのような恐怖を帯びた目をするヴリティカに、ダーシャは疑念を抱く。
「これを見てくれ!今の元素合成の結果なんだけど、ここをよく見て。”何もないんだよ”!」
「どういうこと?」
「普通に考えて、元素同士の衝突によって融合なり崩壊なり何かが起こるはず。なのに、この二つの元素が衝突した瞬間、1マイクロ秒たりとも何の反応もせずに消えた!まるでそこには存在していないかのように...。いや、もしかすると。」
ヴリティカは加速器の方を見て、その唇を震わせていた。
「もしかして、まだその中にいるのか?」
「何もないんじゃ無かったのか?」
「いや、正確には違うんだ。もしかすると、何の属性も持たない”無”というあり得ない性質を持った元素かも知れない。」
その言葉に、ダーシャは驚愕する。”無”という性質、そんなものはこの世に存在するはずがない。この世の物質は何かしらの性質を持ち、物質として安定した状態で存在するはず。
ヴリティカは、急いで加速器内の現在の状態の写真を撮影する。そこに、ソレは写っていた。
「なんだ...これ?」
そこには、まるでブラックホールのように歪んだ小さな空間があった。光を反射せずそこには正真正銘他のものが入る術のない、真空を越えた何かが鎮座していた。まさに”無”という性質と呼ぶにふさわしいものだった。しかも、大抵はすぐに崩壊するはずが、未だそれは崩壊の様子を一切見せなかった。本来の目的を忘れ、2人はその得体の知れない何かに夢中だった。
2085年3月27日(火) 午後1時21分
ヴリティカは一週間前の出来事を、統合国際科学連合に通達し先ほど返答が届いたとダーシャに電話をしてきた。その内容に、2人の科学者は戦慄した。
簡単に言えば、その元素の処分命令だった。詳細は語られず、ひたすらそれは危険だ、それは既にこちら側で発見し保管してある、と書かれていたらしい。一般人への公開はもちろん、一切の他言を許さないとのことだった。もし命令に従わなければ、それに即した処遇をするとも書いてあった。まさに、”君たちは何も見ていない、わかったな?”ということだ。
「ヴリティカ、私はもちろん従うよ。妙なことに巻き込まれたくないし、何より予期しない実験結果だったし。」
「私も従うよ。だけど、こんなの納得いかない。」
電話越しにヴリティカの焦りが伝わってくる。その喋り具合にダーシャは思わず制止に入る。
「まさか、まだ実験を続ける気か!?やめたほうがいい。こんなにも脅迫めいたメッセージが送られてきて、腑に落ちないのはわかる。でも、これ以上私たちの今後に関わるようなことは...」
「君は何もわかってない!」
突然聞こえたヴリティカの激昂した声にダーシャは固まる。
「”未知の領域に踏み込むことは科学者の宿命”って言ったのは君じゃないか!こんなことで私の奇跡のような功績が邪魔されるのはごめんだ!」
「落ち着け!目の前のことに執着してはダメだ!そうやって身を滅ぼしては...」
「うるさい!僕は前から君に嫉妬していた。今回のことだって、君が気分転換にと提案しなかったら起こらなかった。君は昔から僕より必ず上にいる。必ず前にいる。君は薬学者として人々に貢献した。それを君は実感していただろ?でも僕は違う!自分で選んだ道だった。でも、目に見えて人々に貢献していると実感できなかった。君がまた新薬を発明し人類に光明をもたらすニュースが流れるのを観て、僕は悔しかった。特に何にも知らない一般人は、物理学で人類の限界に挑戦しようとするのを理解してはくれない。でも君はいつも誰かに信頼されて、誰かの光になっていた。もちろん僕の光でもあった。それでも、どうしても君が羨ましくて、恨めしくて、深く嫉妬した。君をどうしても超えたかった。だからひたすら挑戦した。ひたすら神の境地に立とうとした。でも、神様は見向きもしてくれなかった。...僕はこの機会を逃したくない。神から与えられたこのチャンスを諦めたくない。」
ヴリティカは、全ての胸の内をダーシャに吐き出した。今まで過ごしてきた中で、こんなことを言われたのは初めてだった。返す言葉が見つからないダーシャは、電話越しに聞こえるヴリティカの過呼吸を聞いていた。
「だから、僕はやるよ。君はそこで見ていればいい。僕は僕だけで人を超えてみせる。」
「ま、まって!」
既に電話が切られていた画面をダーシャは見続けた。取り返しのつかないことになると、本能で感じていた。しかし、ヴリティカの本心を聞いてしまって電話をかけ直す勇気がないのと、もし関わった後の自分の身の安全を考慮して、ダーシャは諦めた。
その後、ヴリティカとの連絡は途絶えた。いや、連絡をしなくなったが正しかった。ヴリティカは行方不明となり、上部の関係者たちに呼び出しをされたがもちろん何も知らなかった。しかし、”圧力”というものがあり多少の処分があった。研究者の立場としては何の影響もなかったが、全ての研究が監視されるようになり、うんざりするような毎日を送るようになる。この実態に、ダーシャの研究意欲は次第に薄れていき、やがて廃人と化したような生活をしていた。これがヴリティカへの自分なりの贖罪だと信じ切っていた。自分の研究で人々が救われるよりも、どこにいるかもわからない自分を恨む1人の友人への贖罪のために、自分の全てを放り出した。
怠慢を絵に描いたような人に成り下がった1人の研究者に、一つの電話がかかる。その相手は、大学時代に親しかった教授であった。教授は、自分の研究室へ招いた。そこから全てが変わった。全てを投げ出していたダーシャに、改めて”化学”の世界に引き込むように教授は尽力した。
「これでも見て、元気を出したまえ。あの頃の君は、そんな顔じゃ無かったぞ?」
そうやって教授は”象の歯磨き粉”の実験を見せてくれた。もちろんその実験は知っていたが、その時の教授の顔がダーシャの脳に強く焼きついていた。空っぽの人間だったダーシャに、その人物はオアシスを用意してくれた。神からの恵みとして、ダーシャは受け取った。
徐々に正気を取り戻していったダーシャは、助手として研究の手伝いをするようになり、元の顔に戻って行った。いつしか”教授”ではなく”師匠”と呼ぶようになり、以前の大学時代以上に親しい関係になっていった。
2088年9月14日(火) 午後2時46分
”あの事件”から3年ほどが経ち、再び薬学の世界に舞い戻っていたダーシャは、以前のように人々に慕われていた。自分を恨む存在を忘れ、1人の研究者として立場を確立させていた。
そして事件が起こった。
普段通り、教授の研究室を貸してもらい新薬の発明をしていた。棚から薬品を取り出そうとしていた時、細かく地響きが鳴り出した。不審に思ったダーシャはすぐさま棚から離れて部屋の中心へ向かう。地震にしては初期微動が長く、ただの横揺れが十数秒続く。そして収まったと思った瞬間だった。窓側の壁が轟音を立てて崩壊し、そこから一つのシルエットが浮かび上がってきた。
「久しぶりだね、ダーシャ。どうだい?研究の方は。みんなのヒーローになった気分は?」
そこには、宙に浮いた地面に立っているヴリティカの姿があった。その右目には、緑色に輝く宝石が嵌められてた。
「ヴリ...ティカ...なのかい?今まで何してたんだ!それに、これは一体...?」
「愛しく憎たらしい君との再会だけど、お喋りする暇はないんだ。だから......死んでくれ。」
その瞬間、鋭く尖った鋼の塊が目に入る。それは迷うことなくダーシャの心臓に真っ直ぐ飛んできた。避けようとするまでの思考を遥かに超える速度だった。
死を覚悟した。思わず、目を閉じた。
だが、その塊はダーシャの体を貫くことは無かった。明らかにそれが刺さって身を貫通する音が聞こえた。恐る恐る目を開けると、そこには飽きるほど見た背中があった。心から尊敬している、憧れである背中があった。その人影は、ゆっくりと後ろに倒れ込もうとする。それをダーシャは受け止め、その人を凝視する。
「師匠...?師匠...どうして...。お願いです、死なないでください。いやだ、いやだ!師匠...師匠!!」
そこには胸元から大量の出血をして、吐血する教授の姿があった。教授は、微かな命の灯火を絞り切って、喉を震わせる。
「ダー、シャ、くん。」
「師匠!!!」
一拍置いて、教授は最後の力を振り絞り満面の笑みをして、その言葉を紡いだ。
「こんなっ、世界にも...君のいば、しょはっ...、ある、はずだ...。だか、ら」
涙でよく見えない教授の顔を見つめ、一言一句聞き逃すまいと自分の嗚咽を跳ね除けて聞いた。
「だから、強く...誇りを、持ってっ...生きなさい...。」
「ししょおおおおおおおおおお!!!!!」
もう目を閉じて動かない教授を抱きかかえ、ダーシャは泣き叫んだ。喉を潰すほどに叫んだ。全ての感情、全ての細胞を使って叫んだ。もう戻ってこない亡骸を抱えて、もう聞こえない声を記憶の中で噛みしめながら。
1人の薬学者は、初めて人を失った。
その様子を見ていたヴリティカは、胸元を強く手で抑えていた。今にも嘔吐しそうな感覚を味わっていた。
「一般人、がっ。くそっ!こんなことにっ!なるなんてっ!!!ぐぞっ、ぐるじい。ぐぁ、いっ痛いぃぃ!これが、”制約”...かっ!!!」
ヴリティカは苦しさに耐えながら地面を操作して引き上げていった。
部屋に1人、ダーシャだけがそこに座り込んでいた。
私は、何のために、生きているのか。
憎きアイツを、殺すためか?
違う。師匠の分も、私の分も。
自分の底無しの研究意欲に果てが来るまで。
師匠のために、生きると誓った。
”生きるために”、私はここにいる。
そう、あの日から始まった復讐劇を終わらせるために。
だから、起きろ。目を覚ませ。全ての神経を、全ての細胞を、使え。
”生きろ”
ダーシャは目をかっと開く。壁にめり込んだ腕と足を引き剥がす。ボロボロになった体を、引きちぎれそうな勢いで動かす。今にも折れそうな足で大地に立つ。今にも砕け散りそうな体を支える。その唇は極寒にいるかのように震え、口で過呼吸をしていた。
そして、顔を上げる。その目は輝きを失っておらず、その瞳は真紅に染まっていた。20m上にいるその本体に、人間とは思えぬ眼光を飛ばし恐怖に陥れる。しかし、その目は人間を保っていた。正気は失っていない、正真正銘”人間の目”だった。
「ナ、ナンダソノメハ!ダイチノケシンデアルコノボクニ!!」
図太い岩石の触手のようなものを、数本ダーシャに叩きつけようとする。だが、ダーシャの前に突然出現した厚い朱色の防御壁に全て砕かれる。
「ナ、ナニッ!?」
「やっと戻って来れたよ...。やっぱり自分の体はスッキリするもんだねえ。ヴリティカ?」
ダーシャは口元を緩め、その身体中の損傷とは比例しないほどの余裕ぶりを見せる。
「ド、ドウシテウゴケル!キミノナイゾウモロモロハ、スデニクダケテイルハズ!!」
「そりゃあ”人間”ならねぇ?私は今、”魔女”として”深淵”に至った。やっと体の主導権を取り返せたんだ、存分に戦おうじゃないか!」
歯軋りをするヴリティカは、余り無くダーシャに岩を投げつけ岩石の触手を叩きつけ、石礫を何百も飛ばした。しかし、全てその防御壁の前には無意味だった。ヒビが入ったと思っても、すぐに修復されていく。悉くを砕かれ、絶望するヴリティカにダーシャは語りかける。
「知らないのかい?ルビーはダイヤモンドの次に固いんだよ?」
「ボクノマエデ、キミガコウブツノハナシヲスルノカアアアァァァ!!!」
ヴリティカは、ダイヤモンドの槍を何本も作り出し、それを雨のようにダーシャに降らせる。それを華麗に躱しつつ、徐々に距離を詰めていく。それを拒絶するかのように、ヴリティカの猛攻は激しくなる。既に人間の域を超えたダーシャには、それらはまず当たらなかった。避けられるたびに怒りが募っていくヴリティカは、歯が欠けるほどに歯軋りをした。
その攻撃に対して、ダーシャは試験管を何本もばらまいた。煙幕を張り一瞬姿を消すが、出てきた先でも攻撃が止むことはなかった。半ば出鱈目に繰り出してくる鉱石の嵐は止むことを知らない。高く飛び岩石の上を駆け抜け、いくつもくる鉱石の槍を何本も躱す。肩や足をかすめても、その猛進は止まらない。ダーシャは走りながら瞬時に調合した鋭利な結晶や金属を何十本も投げつける。ヴリティカの本体はその場から動けないため、岩石でどうにか受け止める。しかし、壁に反射した金属が腕や横腹にいくつも刺さる。
ダーシャはヴリティカの攻撃が止んだ一瞬の隙を突いて、本体のある場所まで高く跳ね飛んだ。ルビーの短剣を握ったダーシャは、思いっきりそれを本体に突き付けようとした。しかし、ヴリティカは寸前でダイヤモンドの厚い壁を築き、ルビーの短剣は砕け散った。その隙に、ダーシャに向かって鋼鉄の塊をぶつけて、遥か上のドームの天井へ叩きつけた。
「ッタク、アブナイナァキミハ!ヤクガクシャノキミガ、ボクニイドモウトスルノガムボウナンダヨ!」
血反吐を吐きながらヴリティカは吹き飛ばした方を見やる。蓄積したダメージは確実にヴリティカの体力を奪っていた。
しかし、巻き上がった砂塵の中から人影が出てきた。頭から出血しているダーシャが、血眼でヴリティカに向かっていく。その手には、黒く煌く太い金属芯を握っていた。
「コクヨウセキカァ!ダカラムダダッテイッテルダロオオオ!!!」
またもやダイヤモンドの壁を作り上げ、ヴリティカは笑みを浮かべていた。しかし、そのダイヤモンドの壁は、酷く薄かった。既に体力を多く消耗していた。
「君にもわかるようにやってやるさ。身を持って知るんだなあ!!」
勢い良く振り下ろされたソレは、ダイヤモンドの壁に触れた。が、世界一美しく硬いと言われるその物質は、その金属芯の侵入を許した。激しい音を立ててガラスが割れるように粉々になっていくダイヤモンドは、ヴリティカには儚く見えた、いや見えてしまった。
「これはバラスだ。君にならこれがどういう事か理解るだろう?」
ダーシャは振り下ろした金属芯を持ち直し、先端を前に向ける。それをヴリティカの胴体に向かって突き刺した。ヴリティカの心臓を貫いたバラスの塊から、まとわりついた血が滴り落ちていった。ヴリティカの本体以外の異形部分が徐々に崩壊していく。同時に、ドーム状の結界も崩れ落ちてゆく。足場をなくした魔女と魔人は、重力に引かれて落下していった。
2085年3月27日(火) 午後1時31分
1人の物理学者は、幼なじみでありライバルであり、嫉妬深き薬学者と別れを告げた。例の物質を瓶の中に詰めて。
ひたすらニューヨーク市から遠いところへ歩き続けた。当時の北アメリカ大陸では、ニューヨーク市以外でも多少の人々が住める環境になっていた。どこでもいい、どこか遠い場所でこの物質の研究をしようと考えた。誰にも知られずにひっそりと生きたいと願った。生涯をコレに捧げると誓った。ある程度の実験ができるように器具を詰め込んだバッグを背負って。
途中で休憩しつつ3日間ほど歩き、隣町まで来た。宿も見つけ、2日滞在した。そして宿を後にして、さらに遠くの場所へ向かっている最中だった。
山中を歩いている途中で酷い風雨に巻き込まれた。若干整備されていない道を歩いていたため、ぬかるみに足を取られることもあった。それでもヴリティカは歯を食いしばって歩き続けた。ふと、後ろから車のクラクションの音がした。振り向くと、軽トラックが止まっていた。運転手が窓から手を出して、乗れと合図をしてきた。運よく早い移動手段を見つけたヴリティカは、神からの恵みとして受け取った。トラックの運転手は初老のようだったが、威厳のある風貌で逞しい髭を生やしていた。気さくな男性は、雑談を交えながら嵐の中をゆっくりと運転していった。
一段と雨風が強くなったと思った時だった。車両が風に煽られ、左側の急斜面へ真っ逆さまに転落していった。
気がつくと、深い森の中だった。横を見ると、横倒しになっている軽トラックがあった。どうやら斜面を転がりきった衝撃で車外へ放り出されたらしい。右目が開かない。眼球に傷が入っていることが痛みで分かった。運転手の安否を確認しようと、身体中が痛むのを必死に我慢してゆっくりと歩き出した。しかし、車内から漏れ出す大量の血液を見て、ヴリティカは腰が抜けた。この出血量では、もう既に絶命している。その容体を見ることすら憚られる。ヴリティカは怯えて逃げ出した。
ひたすら走った。ボロボロの体を引きずってでも走った。絶望の真っ只中の彼女には、前など見えていなかった。気づいたら、足元に地面はなかった。崖があったことに気づかなかった。絶望を通り越した彼女の心には、恐怖などありはしなかった。しかし、生命へ執着する心が彼女を現実に振り落とした。遥か下の地面が見えた。
死を覚悟した。思わず目を閉じた。
はっと大きく目を開けた。そこは薄暗い部屋だった。崖から飛び降りた後の記憶がない。いや、むしろあの状況からどうやって生き残ったのかわからない。ここがどこかを気にする余裕が無かった。今自分は生きていると実感した。理解できなかった。
「おはよう...。私と同じ...哀れな”元”人間さん?」
唐突に右から少女の声が聞こえた。そこには、白髪のショートボブで、群青色の服の少女が立っていた。
「誰、ですか?後僕はなんでこんなところに?」
「ふふ...質問は一つずつ...。まああなたの聞きたいこと…それ以上のことを...教えるわ...。」
”空の刻”という少女から全てを聞いた。自分が人間を辞めたことも、魔人のことも、人類を滅ぼす計画のことも。そして、自分はあの憎きアイツを殺す”手段”と”力”を得たということも。それを聞いて心が躍った。傲り昂ったヴリティカは高笑いをした。その感情も既に人間由来のものでは無かった。いや、”元”人間であり半端者になってしまったため、人間時代の負の感情が強く表に出てしまっていた。それでも、ヴリティカは自分の力を誇った。せっかく人間を辞めたのだから、まずは心から神に近づこうと思った。その様子を見ていた空の刻は、意味深な含み笑いをしていた。
それから3年後、自分の力を十分に制御できるようになり、ヴリティカは決意した。そしてあの日、ダーシャを殺しにかかった。しかし、一般人が庇ってしまったため、”制約”が発動しヴリティカは再起不能寸前まで苦しめられた。
そう、”制約”とは魔人が直接的に人間を攻撃できないという縛りのこと。基本的には、自然災害や能力を使用した現象などでしか人間に害を及ぼせない。もしこれを破った際は、魂を根本から潰されるような痛みが生じる。より多くの人間への同時攻撃、より悪辣さが増せば、再起不能になるまで苦しむようになり、魔人として使い物にならなくなってしまう。これが、魔人が簡単に人類を滅亡させることのできない要因の一つ。これによって、約7年魔人としての活動ができなくなっていた。
そして、今に至る。
2096年6月2日(土) 午後4時25分
雨が降ってきた。ダーシャは大の字になって、地面に横たわっていた。少しずつ呼吸を整えていた。雨粒が口の中で血と一緒に喉に入りそうになる。それを唾とともに吐き出す。右を見ると、ボロボロの上半身しか残っていない、胸に穴の開いたヴリティカが倒れていた。それを見て、トドメを刺さねばと思い、最後の力を振り絞って立ち上がる。ルビーの短剣を手に持ち、ソレのそばに立ってから膝をつく。
「人間を、辞めても...君には勝て、なかったなぁ...。」
「はっ、その状態でもまだ喋れるのか。」
もはや白化しそうなほど生気の無い上半身には、まだ話すだけの力が残っているらしい。
「これにて、私とお前の復讐劇はお終いだ。やっと...ね。」
ダーシャも、さほど残っていない体力を振り絞って喉を震わせる。
「あぁ、長いよう...で短い劇、だったなぁ...。やっぱり、君はいつ、までも...僕より先に、いるんだね。」
「それが私の役目であり、人間の未来を背負う者の宿命だ。」
ヴリティカは、ははっと乾いた笑いをした。
「君は、やっぱり...憎たらしい、な。かっこいいよ...君は...。」
ヴリティカに初めて言われたことだった。昔はいつも、”まだ負けてない!”だの”次は僕が勝つ!”だの言って、決してダーシャのことを褒めたり認めたりしなかった。現に、強く嫉妬したせいでこんな事態になっている。そんなヴリティカは、最期にダーシャを認めた。その言葉に、ダーシャは一粒涙を零した。
「そんなこと...今更言われても嬉しくないよ、ヴリティカ。」
「もっと...正直になれば、よかった、のかなぁ。」
ダーシャは上を向いた。空は薄暗かった。雨はそんなに酷くなく、優しく頬を撫でるかのように降り注いだ。
「そうだろうな...。」
涙を見られたく無かった。こんな形にはなってしまったが、11年ぶりにきちんとヴリティカと話せることに、懐かしさを感じていた。同時に、薄汚いと思っていた本心と疑念は晴れて、”人間”のヴリティカと心を通わせることができた。もっと大泣きしたい気分だった。師匠の時のような悲しみに暮れたような感情では無かった。複雑に絡み合った事情と感情を、全て涙に変えて放り出したかった。でも、彼女の前でそれを見せたく無かった。”かっこいい”と言われたから、最期までそうあり続けようと思った。
「もう、時間が...来たみたい、だ。最後は、綺麗に終わら、せてくれない...か。ダーシャ。」
その声を聞いて更に、涙腺が崩壊しそうになる。それでも我慢して、ヴリティカと目を合わせる。
「君の、手で...。」
ダーシャは頷き、ルビーの短剣を握りなおす。両手で大きく振りかぶる。あとは振り下ろすだけ。
「ごめん、ね。そし、て...ありが、と...。」
思いっきり振り下ろす。全体重を乗せて振り下ろす。ざくっと鳴った。軽く儚い音がした。その短剣の刃先は、ヴリティカの左頬を掠めて、髪を伴って地面に突き刺さっていた。ダーシャの震えた声がヴリティカに注がれた。
「殺せ、ない。私には、そんな勇気はない。こっちこそ、ごめん。ヴリティカ...。」
右目に埋め込まれていたマラカイトが、割れた。既に息絶えていたヴリティカは、優しい顔をしていた。ダーシャがトドメを刺そうと刺さまいと、どちらの結末であってもその表情は変わらなかった。最期に、ダーシャの全てを認め、全てを受け止めようとしていた。
「ヴリティカ...あぅ、くそっ、泣くなよっ。うぅ、ヴリ、ティカ...」
ダーシャは泣き叫んだ。師匠の時と同じように、いやそれ以上に。自分の尊敬する師匠を決して踏みにじらないように。それでいて、1人の友人を無様に逝かせないように、ひたすら泣いた。泣き喚いた。涙が枯れるまでではなく、自分の命が続くまで泣いた。その泣き声は、雨に掻き消されないほど響いていた。
1人の魔女は、大切な人を失った。
2096年6月3日(月) 午前12時21分
昨日の戦いで重症を負ったダーシャは、すぐさま病院へ運ばれた。緊急手術の結果、命に別状はなく意識ははっきりしており、約2ヶ月ほどの入院が必要とのことだった。美楽は昼休みの合間に、ダーシャのところへ見舞いに向かった。
「ダーシャさん!お見舞いに来ましたよ!」
美楽が病室のドアを開けると、そこには横たわってテレビを見ているダーシャの姿があった。
「あぁ美楽くん、わざわざ来てくれてありがとう。」
「もう起きてて大丈夫なんですか?」
「大丈夫だとも。まぁ体の中はまだボロボロだけどね。すぐに治そうと思えば治せるけど、ここは優れた医療に甘えようかな。」
笑顔で対応するダーシャに安心した美楽は安堵した。結果的には無事で良かったが、戦闘が終わった後のダーシャは既に肉体が崩れかけていた。美楽たちが助けに来て、シスターの緊急治療と自身の薬品のおかげで一命は取り留めた。
「ダーシャさんが無事で良かったです、本当に。まさか1人で魔人を倒せるなんて。すごいじゃないですか!」
「はっはっは!たまたまだよ。君も、いずれ来る災厄に備えておいた方がいいよ?あいつはいつでも君を見ている、きっと。」
「そう、ですね!」
ふと窓の外を見る。自分が病院で目覚めた時と同じ、綺麗な快晴だった。空を見る。あの姿が脳裏に浮かび、改めて決意した。自分に似たあの”空の刻”を必ず倒す。全ては人類のためだと。固く決意した。
常闇に満ちたその壊れかけの建造物は、あらゆる自然の住処になっていた。
「”地の刻”、あれで良かったのですか?」
冷静沈着な自然が、小柄で物静かな自然に問うた。
「そうよ...あの子は無事に...成仏できたから...。」
小柄で物静かな少女は、微笑みながら答えた。
「それに...私たちの計画には...何の影響もない...。順調よ...。」
小柄で物静かな少女は、冷静沈着な自然に語りかけた。
「そうですね。では、次はあなたが?」
冷静沈着な自然は、含み笑いをした。
「ふふっ...見てるだけは...もう飽きたわ...。準備運動でも...しようかしら...。」
小柄で物静かな少女は、クスクスと笑った。
常闇に満ちたその壊れかけの建造物は、未だそこに立っていた。
第8話「収斂」 終
第4章 傲慢 開幕