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石の時間

作者: 宵千 紅夜

 くすんだ琥珀色の葉が、冷えた風に吹かれてハラハラと落ちる。僕は白衣の襟に首をうずめるように身を竦めた。

 白衣だけで外を歩くのはそろそろ厳しい季節になってきた。もう秋も終わるだろう。研究室のある棟の入り口で、僕は肩に付いていた枯葉を払った。

 廊下に響く賑やかな生徒たちの声をどこか遠くで聞きながら、研究室の鍵を開ける。建物の中だというのに、いつもひやりとしている研究室。それでも慣れのせいか、何年もそこに居れば不思議と落ち着いてしまうものだ。僕が助教としてこの大学に勤めて、もう四年になる。

 研究室に一つしかない窓を背にした机を眺める。机の上には、誰が置いたのか鉱石の標本箱が置いたままになっていた。白色の方解石が、西日を受けてコーパルのような色に染まって見える。

 ふと郷愁のような感覚に囚われ、僕は西日の中に一人の教授の影を見た。

 木内教授は五十代という年齢より老いて見える外見だが、フィールドワークにも頻繁に行き、細い体ながら若者に引けを取らない達者ぶりだった。だが一方で、大学内では物静かな人だった。他の教授たちが躍起になる、予算の確保や権力争いには目もくれず、講義以外の時間は、ほとんど研究室で石に囲まれて過ごしていたと思う。

 それでも木内教授を慕う人が絶えずいたのは、彼の人柄のためだろう。穏やかで動じない、まるで自身の研究する石や地を体現しているような人物だった。僕も彼の事を尊敬していた。

 西日の射す窓に歩み寄り、ブラインドをまわして陽を遮る。

 僕が最後に木内教授を見た日も、同じような西日が射していた。それを背に受け、影の塊そのもののようにじっと動かない木内教授。

『石岡君、人というのは面倒なものだね』

 悩んでいるとも、呆れているともつかない声音だった。あるいは、何かの結論に対する独り言だったのかもしれない。

「そうかもしれませんね。何かありましたか?」

 僕は抱えていた標本の石の入った箱を、棚近くの長机に置きながら尋ねた。この頃の教授は何かに疲れていたのか、以前にも増して静かだったから気にかかっていた。大学内での人間関係か、それとももっと別の事か。そもそも自分の話をあまりしない人だから、色々と抱え込んでいたのかもしれない。

『いや、何もないよ』

 穏やかな拒絶の言葉だ。本人がそう言う限りそっとして置くしかないと思い、僕は標本箱から鉱石を一つ取り出す。ギラリと金属光沢を放つ方鉛鉱はずっしりと重い。

『石を前にすると、どんなものも些細なことに思えてくる。そう、よく言われるけれど』

 小さくつぶやく木内教授の方を見ると、彼は僕の手にする方鉛鉱を眺めながらも、それを通り越してどこか遠くを見ていた。

『私は、研究すればするほど、石が怖くなったよ』

「怖い? それはどういった意味ですか」

『石は、生きている者が到達できない世界に存在していると気が付いてしまったからだよ』

 西日の影をまとい遠い目をした教授の言葉を、僕はよく理解できなかった。今思えばそれは、地質学的な話ではなく、哲学的な話だったのかもしれない。

 だが、教授の言葉の中には、恐怖というよりも憧れのようなものを漠然と感じた。

「化石にでもなれたら、その世界がわかるんでしょうかね」

 僕は静まり返った空気に耐え切れず、少しおどけて返したが、教授はいたって真面目に首を振り、磨かれた小さなアンモナイトのループタイに触れながら言った。

『化石は……不完全だろうなぁ。これは、生き物が鉱物に置き換わったものだが、どこまでいっても、生き物の枠からは出られないのじゃないかね』

「はぁ」

 いよいよわけのわからない話に、僕はあいまいな返事を返すことしかできなかった。

 それから、木内教授は机に向かい何かを書いていたし、僕も講義で使う資料をまとめたりしており研究室を出るまで言葉を交わすことはなかった。

「すみませんが、お先に失礼します」

 青白い蛍光灯が照らす研究室には、教授だけが残っている。

『ああ、そうか』

 その返事に軽く一礼し、ドアを閉じる。

『私もそうしようか』

 ドアが閉まる一瞬前に、木内教授がそうつぶやいた気がした。

 その翌日、木内教授は失踪したらしい。伝聞なのは、彼が独身で独り暮らしのため、正確な失踪日が分からないせいだ。とにかく、あの日を最後に木内教授は大学に来なくなり、連絡もつかなかったため、無断欠勤から二週間後に警察へ連絡した。

 木内教授の家族は、母親一人だった。父親はずいぶん前に他界し、現在は老人ホームに入居する母親だけだったそうで、母親も木内教授とはずいぶん会っていないそうだった。警察は事情を聴き、教授の自宅を捜索したが、争った形跡や不審なものは見つからず、遺書の類も出なかったそうだ。

 失踪人として捜査が始められ、最後に目撃したのは研究室のカギを預かる守衛で、その前に会話をしたのが僕だとわかり、色々と事情聴取を受けた。けれども、木内教授がここしばらくふさぎがちだったのは僕じゃなくとも知っていたことだし、失踪に直接結びつくような会話をした記憶もなかった。

 木内教授の失踪から数週間がたった頃、警察が再び大学を訪れた。その姿を目にしたとき、教授の失踪を知る者は皆、彼の遺体が出てきたのだと疑わなかった。

「こちらを見ていただきたいのですが」

 机の上に置かれた写真を見るのが怖かった。本人確認のためとはいえ、腐敗した遺体の写真などを見る勇気はなかったからだ。

「ああ、ご心配なく。ご遺体の写真ではありませんので」

 緊張している僕に気が付いたのか、警察の男性はそう言って確認を促した。

「これは……なんですか?」

 恐る恐る写真に目を向けた僕は、今度はその意味が理解できずに固まった。写真に映っていたのは、茶色味を帯びた岩だった。少しざらついてなめらかな表面から察するに、砂岩か石灰岩の類のように見える。しかし、その岩がある場所は、本来その岩があるようなところに見えなかった。森のような、枯葉や草の覆う腐葉土の上で、汚れた布を下に敷き、これまた汚れたネルシャツのようなものをかぶせられている。

 別の角度から撮られたもう一枚の写真を見て、僕は呼吸が止まった。

 岩のすぐ脇に、アンモナイトの化石で作られたループタイが落ちていた。

「木内教授の……ループタイです」

「間違いないですね」

「これは、なんの冗談ですか?」

 かすれた声で尋ねるが、警察の男性は首を振ってため息を吐いた。

「我々にもわかりません」

 警察の話によると、場所は近くの山の登山道から少し外れたところだそうだが、これ以外の物は見つかっていないそうだ。

 衣服からは教授の毛髪が見つかっており、本人のものらしいとされたが、血痕などはまったくついていなかったそうだ。岩はその山ではあまり見ない石灰岩の塊で、推定六、七十キロほどらしい。それが、教授のズボンを下敷きにし、服を羽織っていた。ごろんとした丸い塊は、一人で運ぶには重たく、どうやってそこに運ばれたかもわからないという。

 結局、発見物が木内教授本人の持ち物であるという確認以外の成果を出せずに、僕からの聴取は終わった。

 それからもしばらく捜査は続けられたそうだが、結局それ以降はなにも見つからなかった。

 あれから三年。新しい教授が来たり、木内教授を知る生徒がいなくなったり、周りはせわしなく変化していった。ただ、僕の記憶の一部を除いて。

 警察に見せられた写真。その時は気が付かなかったが、あの岩はあるものに似ている気がした。いや、ある種の確信のようなものすらある。

 ――あれは、うずくまる人だ。

 丸みを帯びた形にほのかに見られるおうとつは、膝を抱えてうずくまる人の姿のようだった。人というにはみっしりと詰まった丸い岩だが、どことなくそう思えて仕方がない。そう気がつくと、僕にはあの岩が木内教授本人のような気がした。

 人の世界が嫌になったのか、石の世界に魅了されたのかは分からない。だが、木内教授は生きている者が到達できない世界に行ってしまったのだ。死ぬでもなく、化石になるでもなく、あちら側の世界に。

 そう気が付いたとき、僕は何故だか泣いていた。教授が居なくなって悲しくなったわけではない。ただ、空虚さと得体の知れない羨ましさだけが静かに頬をぬらした。

「あ、石岡くん。居たんだ」

 研究室のドアが乱暴に開き、壮年の男が入ってきた。

「この標本箱を出しっぱなしにしたのは佐々木教授ですか? ちゃんと片付けてくださいね」

「ああ、すまんすまん。石岡くんは、石のことになるといつも厳しい」

 頭をかきながら笑う佐々木教授を尻目に、僕は標本箱を棚に戻した。

 木内教授がいる頃からずっと変わらない石たちは、きっとこれからもこのままなのだろう。そして、僕はゆっくり歳をとって、いつか死んで火葬され塵になる。その時も、石はただこうしてあるだけだ。

「そういえば、この間ここを片付けていたときに、木内教授の論文とかが出てきたよ」

 佐々木教授は窓際の机の椅子にドカリと腰を下ろし、机の上に紙の束を乗せた。

「まあ、書きかけだったりと研究的にはあまり価値が無いけれど、捨ててもいいものかねぇ」

 面倒そうに佐々木教授はため息を吐く。少し黄ばんだ紙をペラペラとめくって読んでいたが、僕の手が一枚の原稿用紙で止まった。

 それにはタイトルと思しき一文だけが書かれ、後は空白が続くだけの紙だ。でも、それが、最後に木内教授が書いたもののような気がしてならなかった。

『石の時間』

 丁寧な字で書かれたその先の空白を、僕はただただ眺めていた。


   〔了〕

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