ゾロという名の猫
今朝、うちのゾロが死んだ。
ゾロとは、今年で十六歳になる白黒模様のブチ猫である。猫としては、そこそこ長生きな方だったはずだ。
近頃では、名前を呼んでも見向きもしなくなっていた。それでも昨日は、普段と同じように外を出歩いていた。餌も、きちんと食べていた。その行動は、いつもと何ら変わらない。少なくとも、弱っているようには見えなかった。
まさか、今朝になって死んでいるとは思わなかった。
ゾロがうちに来るきっかけを作ったのは、他ならぬこの僕である。生まれたばかりの体で、神社の草むらでミイミイ鳴いていた所を見つけたのだ。
当時の僕は、まだ小学一年生になったばかりだ。どうすればいいのか分からなかったが、とりあえずは仔猫を抱き抱えて家に連れて帰ることにした。その後は渋る両親をどうにか説得し、うちの飼い猫としてもらうことを承諾させたのである。
ゾロという名前も、僕が名付けた。その時、たまたまテレビで『マスク・オブ・ゾロ』という映画が放送されていたのだ。子猫は主役のゾロのように頭と目の周りに黒い模様があった。映画を観て、そのままゾロと名付けた。今にして思えば、名付け親としてはあまりにも安易である。
当時のゾロは、僕に凄く懐いていた。暇さえあれば、喉をゴロゴロ鳴らしながら僕にじゃれついてくる。僕の方も、ゾロが大好きだった。学校から帰ると、すぐにゾロと遊んでいた……そんな記憶がある。
それから、いつの間にか十六年が経っていた。
成長したゾロは、僕とは遊ばなくなっていた。いつも外を出歩いていて、家の中にいる時間は少なくなった。たまに帰って来ると、部屋の隅でずっと寝ている。もっとも、たまに目を開けて、僕をじっと見ていることもあった。まるで監視しているかのように。
はっきり言って、晩年のゾロは全く可愛げの無い猫だった。猫の魅力はツンデレ、という意見はよく言われている。しかしゾロには、ツンはあってもデレは無い。いつも不機嫌そうな態度であった。うちの両親も、こんな可愛げの無い猫は見たことない、と常々こぼしていたくらいだ。
実際、成長したゾロは僕や両親たちが何をしようと、一切乗ってこなかった気がする。猫じゃらしなどのオモチャを買ってきても、ゾロは見向きもしなかった。面倒くさそうに、部屋の隅で寝ているだけだった。
そんなゾロが、気が付くと死んでいた。まるで眠っているかのように、安らかな表情で息を引き取っていた。
正直、とても不思議な気持ちだった。悲しくない、と言えば嘘になる。だが、涙は一滴も出てこない。むしろ、当惑のようなものを感じていた。ずっと一緒に生活していたはずのものが、ふと気づくと死んでいる……その事態に対し、僕の心はどう対処すればいいのか分からなかった。
僕の住んでいる町は、お世辞にも都会とは言えない地域だ。幼い頃には近所に畑もあった。築ウン十年になるオバケ屋敷のような空き家もあった。繋がれていない犬がうろうろしていたりもした。
そんな田舎町も、今では随分と変わってしまっている。ゾロを拾ってきた神社は、十年以上前に取り壊されてしまった。近所を自由に闊歩していた犬も、もう何処にもいない。大きな畑は、いつの間にか駐車場に取って代わっている。怪しげなオバケ屋敷も、今では取り壊され更地になってしまった。
僕自身もまた、変わってしまった。
いつの頃からだろう。僕の前に、妖怪が現れるようになったのは。
幼い頃は、自分が普通であると信じて疑わなかった。仮に妖怪が見えていたとしても、それがおかしいことだという認識がなかった。
そう、僕にははっきりと妖怪が見えていた。また妖怪の方も、僕を見ていた。
授業中に外の木に止まり、そこから窓ガラス越しにこちらを見ていたカラス天狗。
学校の帰り道、後を付いて来た喋る黒猫。
川の中を、のんびりと泳いでいた河童。
町中に、いきなり現れた一つ目小僧。
電柱にぶら下がり、ゲラゲラ笑いながら僕を指さしていた着物姿の女。
その他にも、様々な妖怪が僕の前に現れた。有り得ないはずの者、存在しないはずの何か、そんな者たちを数えきれないくらい見た。いや、見るだけならまだマシだ。妖怪に話しかけられたり、触れられたり、追いかけられたりもした。酷い時には、妖怪に物を壊されたりなどのイタズラをされたのだ。もちろん、全ては僕の責任にされた。
しかも、そいつらは決まって僕がひとりでいる時に出現する。他の人間がいる時には現れなかったのだ。もっとも、現れたとしても他の人間には見えなかったのだが。
そうした怪異に対し、幼い少年である僕に出来ることなど限られている。その限られた手段のうち、もっともマズイ方法を選んでしまった。大人たちに、妖怪が出ると訴えたのだ。
助けを求める僕に、大人たちは初めは笑っていた。だが次には、強い口調で叱りつけた。その次は、本気で怒った。唯一の味方であるはずの両親ですら、言うことを信じてくれなかったのだ。
やがて僕は、心療内科に連れて行かれる。すると、医者はこう言った。
「君は病気だね。でも大丈夫だよ、先生が治してあげるから。治るまで、病院に通いなさい」
医者の言うことを信じ、僕は病院に通った。それでも、人外の者たちは現れ続ける。さらに、他の子たちに嘘つき呼ばわりされるようになった。「あいつ、嘘つきなんだぜ」などと噂され、誰も寄って来なくなった。
やがて、僕は悟った。
妖怪の話は、誰も信じてくれないのだ。それならば、誰のことも信じないのが正解だ。たとえ両親の言うことであっても。
しかし、その状況は変わる。
いつからか、はっきりとは分からない。確かなことはひとつ、僕の前に妖怪が現れなくなったのだ。
医者は治療の成果だ、と誇らしげに語っていた。それに対し両親が、バカみたいにペコペコ頭を下げていたのも覚えている。
こうして僕は、晴れてマトモな人間の仲間入りをすることとなる。めでたし、めでたし……という訳にはいかなかった。
田舎町というのは、ただでさえ情報が広まりやすい。ことに悪い情報は、放っておいてもあっという間に広まる。僕は頭のおかしい少年という目で見られ、その評価はいつまでも変わることがなかった。みんなは僕を避けていたし、友だちなど出来るはずもない。中学校に進級しても、ずっとひとりぼっちだった状況は変わらない。
その後は、どうにか近くの高校に進学した。最低の成績でなんとか卒業したものの……それから二十三歳の今まで、何もせずにブラブラしている。将来など、もはや知ったことではない。毎日、漂うように生きていた。
そんな爛れた日々を過ごしていた中、突然ゾロが死んでしまった。
まるで、眠るように安らかな最期だった。僕の部屋の片隅で、ひっそりと。正直言えば、ゾロが死んでいることに、しばらく気が付かなかった。
こいつは、何のために生きていたのだろう?
ふと、そんなことを考える。ゾロは、生産的なことを何もしていなかった。ただ食べて外で遊んで寝る、それだけだ。無意味に生き、無意味に死んでいった。ゾロが死んでも、何事も無かったかのように世の中は動いている。
仮に僕が今この場で死んだとしても、世の中は何も変わらずに動いていくのだろう。
生きることも死ぬことも無意味だ。
だが、そんなことは今はどうでもいい。ゾロを、このままにはしておけない。
服を着替え、ゾロの亡骸を抱き上げた。とても冷たい。生前は僕が触れようとすると、迷惑そうな顔をしていたのだ。特に腹に触ろうとすると……手に噛みつき、後ろ足で引っ掻いてくる。腹を触られるのが、よほど嫌だったのだろうか。
もっとも今となっては、どれだけ触ろうとも何の反応もないが。
冷たいゾロの亡骸を、ビニール袋に入れる。そして部屋を出て行った。
「どこ行くの?」
玄関で靴を履こうとしていると、母親が案じ顔で聞いてきた。
分かっていた。母は、僕のことを案じているのではない。無職で無就学のニート息子が近所をうろつくことにより、自分たちの評判が落ちるのを案じているのだ。
ため息を吐きつつ答えた。
「ゾロが死んだんだよ。今から埋めてくる」
「えっ!? 本当に!?」
顔を歪め、そう言った母。それを見た時、腹が立った。普段の母はゾロのことを、こんな可愛げの無い猫は見たことがない、とぼやいていた。そんな気持ちを察したのか、ゾロも母には近づこうとはしていなかった。
なのに、ゾロが死ぬと悲しそうな表情を作っている。母にとっては、死んだ猫だけが善い猫なのだろうか。
「ああ、間違いなく死んでるよ」
「そんな……可哀想に」
母の言葉を聞き、さらに不快になった。どうせ形だけなのだ。数分後には何事も無かったかのように、いつもの生活に戻る。
ゾロが死んでも、母の生活は何も変わらないのだ。もちろん、世の中に何の影響もない。皆、いつもと変わらぬ生活を送る。
「どんな生き物も、いつかは皆死ぬんだよ。可哀想なことないでしょうが」
素っ気ない態度で言葉を返し、僕は家を出た。
運命とは、なんと皮肉なものなのだろう。
かつて僕は仔猫のゾロを抱いて、この道を通った。ゾロはミイミイ鳴きながら、腕の中で震えていたのだ。そんなゾロを抱いたまま、走って家に帰り、父と母に飼ってくれるよう頼んだ。
その同じ道を、今はゾロの亡骸の入ったビニール袋と小さなシャベルを抱いて歩いているのだ。
ゾロを葬るために──
やがて、小高い丘にたどり着いた。丘をゆっくりと登っていき、頂上を目指す。
ゾロは、外にいるのが好きだった。下手すると、丸一日帰って来ないこともあった。つまり、ゾロは家に居たくなかったのかもしれない。少なくとも、家より外の方が好きだったのは間違いないだろう。
ならば、大好きな場所である外に墓を作ってやろう……僕は、そう思ったのだ。
丘の頂上にたどり着くと、反射的に腰を降ろしていた。運動不足の身には、少々こたえる距離だ。土の上で僕はしゃがみこみ、下に広がる風景を見ていた。ここは、町が一望できる場所なのだ。きっと、ゾロも喜ぶだろう。
今になって、僕はゾロの存在の大きさに気づいた。自分の部屋に、ずっと閉じこもっている日々。世の中の全てを呪っていた。妖怪が見えてしまう体質に生まれてしまったばかりに、病気扱いされていた。学校の同級生からも避けられ、居場所など存在しなかった。
ゾロは、そんな僕のそばにいてくれた。晩年は無愛想で、欠片ほどの可愛らしさも感じられなかったが……それでも、外から帰って来ると、まっすぐ僕の部屋に来た。
世の中の流れから完全に取り残され、部屋の中で膝を抱えていた僕。だけど、そばにゾロがいてくれる。その事実だけで、どれだけ心が癒されていたのだろうか。
ゾロの一生にも、ちゃんと意味はあったのだ。無意味な生じゃない。ゾロの存在は、僕のためになってくれていたのだ。
胸の中に、欠片ほどの後悔の念が湧いてきた。その後悔の念を振り払うため、穴を掘り始める。
園芸用の小さなスコップでは、穴を掘るのも一苦労だ。ましてや、運動不足な上に経験不足の僕が上手く掘れる訳がない。途中、何度も中断し休む羽目になった。
それでも、どうにか掘り続けられたのは……意地と、胸の中に湧いていた後悔のせいだろうか。さらに流れる汗が、心の中に蠢く暗い何かを浄化していくような、そんな不思議な感覚にも襲われていた。
どのくらい掘り続けたのだろうか。
気がつくと、陽が沈みかけていた。もう夕方だ。穴も、かなり深く掘ることが出来た。これなら、ゾロの体を埋めることが出来るだろう。
ゾロの体を、ビニール袋から出した。固くなり始めている。その感触は、あまり気持ちいいものではない。
そんなゾロの体を、穴に入れた。そして、上から土をかけていく。出来るだけ、何も考えないように努めた。考えていると手が止まる。この作業は、一刻も早く終わらせたい。
でないと、感情に押し潰されてしまいそうだから。
時間はかかったが、ゾロの埋葬は完了した。立ち上がり、出来たばかりの墓を見下ろす。出来れば、ここに墓石のような物を置きたい。だが、そんな物を置いたら、無関係の人にいじられるかも知れなかった。とりあえずは、このままにしておこう。
そんなことを考えた次の瞬間、僕は突き飛ばされたかのような衝撃を受ける。耐えきれず、よろけて前のめりに倒れた──
後ろに何かがいる。
久しく味わうことのなかった感覚。それは、僕にとって忘れることの出来ないものだ。幼い頃から、ずっと僕の悩みの種であり、恐怖の源でもあったもの……妖怪がいる。
うつ伏せに倒れた状態のまま、首だけを後ろに向けた。
数メートル離れた位置にいたもの、それは白く巨大な犬だった。体は仔牛と同じくらい大きく、透き通るように美しい白い毛皮を身にまとっているのだ。
その犬は尻を地面に着けた姿勢で、何か言いたげな様子でこちらをじっと見つめていた。
僕には分かっていた。あれは犬ではない。間違いなく妖怪なのだ。それも、ただの妖怪ではない。その体から発している妖気は普通ではなかった。息苦しさすら感じるほどなのだ……こんな存在と出会ったのは、生まれて初めてだ。
僕は震えながら、どうにか体の向きを変えた。仰向けの体勢から、必死で立ち上がろうとする。だが、腰から下に力が入らなかった。恐怖のあまり、それ以上は動くことが出来なかったのだ。
一方、犬はじっとこちらを見つめている。実に不思議な瞳だった……強烈な野性と、高い知性とが感じられるのだ。僕は怯えながらも、その不思議な瞳から目を逸らすことが出来なかった。
「ゾロは、死んだようだな」
不意に、犬の口から出た言葉。それは、流暢な日本語だった。僕は恐怖に震えながらも、うんうんと頷く。その時になって、ようやく気づいた。
目の前にいるのは、犬ではなく狼だ。かつて日本では、狼を山の神として祀る信仰があったらしいが……今目の前にいるのは、太古の時代には神として祀られていたかもしれない存在なのだ。その周囲に立ち込めている妖気は、尋常な量ではない。今や、手で触れることが出来るのではないかと思えるくらいに濃い。
これは、幼い頃の僕が出会った妖怪とは、まるで違うものだ。野生の狼と犬が似て非なる存在であるように、目の前にいる者は、普通の妖怪とは全く違う。妖怪というより、むしろ神にも近い存在だ。
「それで、お前はどう思うんだよ?」
狼は、そう聞いてきた。どう思う、とは何のことだろうか。僕は何も分からぬまま、震えているだけだった。
すると、狼はなおも聞いて来た。
「おい、聞いてんのかよ? それとも、ビビっちまって声も出せねえのか?」
その口調は、妙に砕けたものだった。身にまとう妖気や威圧感とは、真逆の軽さが感じられる。僕は困惑し戸惑い、何も言えなかった。
狼は、ため息を吐いた。
「しようがねえなあ」
言葉の直後、狼を覆う空気が変化する。さらに、狼の姿も──
次の瞬間、狼は姿を変えていた。
僕の目の前には、人間が立っている。さっきまで、狼の姿をしていたはずの者のようだ。若く野性味あふれる顔立ちの青年で、年齢は僕と大して変わらないように見える。黒いTシャツとジーパンというラフな格好で、こちらをじっと見下ろしていた。
ややあって、青年は僕の隣にしゃがみ込んだ。
「俺の名前は……そうだな、ユウジとでも呼んでくれ。お前のことは、ゾロから聞いてるよ」
青年の言葉を聞いたとたん、僕は我に返る。同時に、次々と疑問が湧いてきた。ゾロから聞いてる? どういうことだ?
「あの、それはどういうことです? あなたは、ゾロを知ってるんですか?」
その問いに、ユウジと名乗った青年は大きなため息を吐いた。
「おいおい、やっぱり気づいてなかったのかよ」
「えっ? なっ、何をですか?」
思わず聞き返していた。だが、それも当然だろう。言っている意味が分からない。何を気づいていなかったと言うのだろう?
ユウジは、真剣な表情で僕を見つめた。
「あいつはな……ゾロは毎日、俺の所に来ていたんだよ。お前のためにな」
その時、僕は驚きのあまり言葉が出てこなかった。
何だよ、それ。
どういうこと?
驚愕の表情を浮かべ、あんぐりと口を開けていた。さぞかし間抜けな表情だったろう。
一方、ユウジは黙ったまま僕をじっと見つめている。その瞳からは、哀れみと同時に微かな怒りのようなものも感じられた。
少しの間を置いて、静かな口調で語り始める。
「もう、十年以上前の話だよ。ゾロは、妖怪に悩まされているお前のことを心配していた。そこで、あちこちの妖怪の所を回り、お前の前に姿を現さないよう頼んでいたんだよ。もちろん、妖怪があんな猫の頼みなんか聞く訳は無いよなあ。うるせえ! と一喝されて引き上げるパターンがほとんどだったそうだ。ひどい時には、食われそうになったこともあったらしいぜ。ゾロの奴、ビビりまくって必死で逃げたって言ってたっけ」
そう言うと、ユウジはくすりと笑った。おかしくて笑ったのか、あるいは昔を懐かしんで笑ったのか、僕には分からない。
ひとつ確かなのは、僕には少しも笑えなかったことだけだ。
「そんなゾロの姿を見て、哀れに思った一匹の猫叉がいた。その猫叉が、ゾロを俺の所に連れて来たのさ。ゾロの奴、必死になって頼んできたよ。他の妖怪が、お前を困らせないようにしてくださいってな。面倒くさいから、最初は追っ払ったけどよ」
またしても、くすりと笑うユウジ。その時になって、僕はようやく言葉を発することが出来るようになった。
「そんな……僕は、全然──」
「知らなかった、と言いたいのか? まあ、それは仕方ないよ。だがな、ひとつだけ知っておいてもらいたいことがある。ゾロはめげることなく、それから毎日俺の所にやって来たんだ。お供え物として、捕まえた鼠や虫や小鳥なんかを咥えてな。健気な話だと思わねえか? 全ては、お前のためだよ」
ユウジの口調は、淡々としていた。だが、僕の心を静かに抉っていく。それは、殴られるより辛いものだった。
「そこまでされたら、俺も動かない訳にはいかないからな。俺は、あいつに力を授けてやった。この町の妖怪どもと戦えるくらいの妖力を、な。あいつは、妖怪どもに必死で立ち向かっていったそうだぜ。ゾロの気迫に負けて、妖怪どもはあっさり退散したらしいけどな」
信じられない話だった。僕は、ただただ途方に暮れていた。
そんな僕の態度などお構いなしに、ユウジは語り続ける。
「だかな、その後もゾロはやって来た。俺の所に、獲物を供えるためにな。毎日、必死になって狩りをしていたらしいぜ。お前を守るために家の周りをパトロールし、妖怪どもを追っ払う合間にな。俺もずいぶん長く生きてるが、あんなに義理堅い猫を見たのは初めてだよ」
「なんで……なんで、もっと早く教えてくれなかったんですか!」
我慢できなくなり、思わず叫んでいた。すると、ユウジは奇妙な目つきでこちらを見つめる。彼の顔には、それまでと違う感情が浮かんでいた。
「ゾロに止められてたからだよ」
「そんな!? どうしてゾロは──」
「お前の前では、普通の猫でいたかったんだよ。それに、お前に余計な気を遣わせたくなかったんじゃないのかな。それ以前に、お前が察してやるべきだったと思うがね」
「えっ……」
それ以上、何も言えなかった。言える訳がないのだ。ユウジの言葉は正しい。
僕は、察することが出来なかったのだから。
自分のことしか、考えていなかったから。
「ゾロは、いつも言ってたんだよ。仔猫の時、いきなり神社の草むらで親猫とはぐれちまって……とても寂しくて悲しくて怖かった、とな。でも、お前が家に連れ帰って、美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせてくれた。本当に嬉しかった、とも言っていたよ」
ユウジは、懐かしそうに空を見上げた。その顔には、優しい笑みが浮かんでいる。微笑みながら、彼は言葉を続けた。
「ゾロは昨日も、俺の前に顔を出したんだ。お前を守ってやってくれと……最後の力を振り絞って、俺に言いに来たんだよ」
そう言った後、不意にユウジは言葉を止めた。真剣な眼差しで、じっと僕を見つめる。
「ゾロは、妖怪どもとずっと戦い続けていた。それだけじゃねえ……一日も欠かさず、俺の所に来ていたんだ。本当に凄い猫だったよ。俺はあいつに、敬意のようなものすら感じていたんだ。だから、ゾロの最期の頼みは聞くつもりだよ。これからは、俺がお前を守る。妖怪どもには、手出しさせないからな」
だが、僕はユウジのことなど見ていなかった。彼がその後に言った言葉も聞いていなかった。
心の中から湧き出てくる感情……それを押さえつけることは、もはや不可能だったから。
「ゾロ……」
ゾロは、ずっと戦ってくれていたのだ。まさに怪傑ゾロのように。
誰に知られることもなく、知られることもよしとせず、たった一匹で戦い続けてくれていた。
ただ、僕のためだけに。
「僕は、なんてバカだったんだ」
呟きながら、立ち上がっていた。
そう、僕はバカだった。よく考えれば、分かったことではないのか……ゾロが外を出歩くのと時を同じくして、妖怪が現れなくなったことに。
だが、気づいてあげられなかった。たったひとり、いや一匹で僕のために戦い続けていたゾロ。老いた体に鞭打ち、へとへとになるまで妖怪どもと戦い、ユウジに貢ぎ物を捧げていたのだ。
妖怪たちを、僕に近づけさせないためだけに。
僕が、普通の人間として生きていけるように。
なのに僕は、ゾロをどうしようもないワガママな馬鹿猫だと思っていた。きままに外を遊び歩き、餌を食べる時だけ帰って来る奴だと。
こちらが何をしようが、完全に無視していたゾロ。だが、それは当然だった。戦いと狩りで疲れきっていたゾロは、僕の相手など出来るはずも無いのだから。
「どうして、気付かなかったんだ」
もう一度、呟くように言った。その時、予想もしなかったことが起きる。
目から涙が溢れ出していたのだ。
「ごめんよ、ゾロ……」
そんな言葉を吐きながら、僕は涙を流していた。そして次の瞬間、さらにみっともないことが起きる。
僕は耐えきれなくなり、泣きながら地面に崩れ落ちていた。




