第五十六話 ジュース
「ほらよ!」
そう言って流が炭酸系のジュースの缶を明に向かって投げる。
「って、投げるなー!」
叫びながら明は放られた缶をなるべく衝撃が少ないように受け取った。
「お前、完全に嫌がらせだろ!」
「そんな訳ないじゃないか。俺が愛しの明に嫌がらせなんて……」
「じゃあ、何で投げるんだよ!」
「いや、別に炭酸が溢れることによって明の服にそれがかかり、あわよくば服が透けて見えるんじゃないかなー、なんて思ってないからな」
「………お前の考えていることは良く分かった。そしてそれを私に告げたと言うことはそれは挑戦状として受け取って良いんだな?」
額に怒りマークを浮かべながら明が流に歩み寄っていく。
「ま……まて!そんな恐い顔したらせっかくの可愛い顔が台無し……」
流が話している途中で明の目の前を巨大な何かが横切り、流の話は途切れた。
「あれ?」
先程まで明の目の前に立っていた流の姿が見あたらない。
「どわーっ!!何だ何だ何だ!?」
その流の声が明から少し離れたところで聞こえてきた。
明がそちらに顔を向けると、明の視界の中に巨大な白い何かが入ってきた。
その白い物体の横と下の方から人間の手と足が出ている。
おそらくそれの下敷きになっている流の手足だろう。
そこから少し間を置いて明にもそれがようやく巨大な犬だと理解できた。
「おい、明!こいつ何とかしてくれ!息が……」
「おー。すごいなこの犬。ふかふかだ」
明は流の言葉を無視し、その犬の背中を撫で始めた。
「おいっ、明!俺がどうなっても……わーっ!顔を舐めるんじゃない!」
「ふっ、変なこと考えた天罰じゃないのか?」
「わ、分かった!謝る、謝るから!こいつをどかし……おえっ!犬とキスしちまった!!」
「…………愉しそうだな」
そう呟いて明はその犬の邪魔をしないようにそっとその場を離れた。
しばらくして、ようやくその犬の飼い主が明と流の元に訪れた。
年の頃はおそらく20代の若い男性だ。
「太郎、おいで!」
飼い主の声を聞き、すぐに流の上から退く白い犬。
後に残されたのは完全にノックダウンしている流。
「おい、大丈夫か?」
「…………」
明が話しかけるが、無言。
どうやら答える余裕すらないようだ。
「大丈夫ですか!?」
その飼い主はそんな流の様子を見て、あわてて駆け寄り、助け起こした。
「………し、死ぬかと思った」
「うちの犬がすみませんでした。どうも人懐っこすぎるところがあるもんで」
飼い主がポリポリと頭を掻きながら謝る。
「い…いや、別に良いですよ。噛まれたわけでもないし」
立ち上がり、服に付いた泥をはたいて落としながら流が笑顔でそう言った。
「でも、どこか怪我でもしていませんか?太郎、ずいぶん重かったでしょう?」
「ああ、いや、大丈夫です。特に問題無いですよ」
「そうですか。良かった」
その飼い主はホッとしたようにそう言うと、最後にもう一度お詫びの言葉を口にしてその場を後にした。
「お前って犬には人気あるんだな」
飼い主と犬を見送りながら明が呟く。
「そこは『は』じゃなくて『も』だろ?」
「へえ、お前って犬以外にも人気あるのか。初耳だな」
そう言って明は手に持っていた自分の缶を開けた。
ブシュウゥゥ。
大きな音を立てて溢れ出す炭酸飲料。
しかしそれは明の衣服にはかからずに手にかかる程度にとどまった。
「チッ……!」
失敗したと言わんばかりにしたうちをする流。
「お前、どうしてくれるんだよ!手がベトベトだろうが!」
ジュースまみれになった手を流の目の前に突きつけながら明が文句を言う。
「ふうん。そりゃあ災難だったな」
流は素知らぬ顔をしながらそう言うと、自分の持っていたジュースの缶を開けた。
ブシャアアアアァァァァ。
大きな音を立てて流と明、二人の間でジュースが噴火した。
「…………」
「…………」
呆気にとられる二人。
実は流の持っていた缶も炭酸飲料で、それをずっと犬に押し倒されたときに手に持っていたのだ。
お互い服がジュースでずぶ濡れになり、二人で顔を見合わせる。
「………なあ、明」
「何だ?」
何事もなかったかのように話し始める二人。
「俺、人を『人を呪わば穴二つ』って言葉、信じるよ」
「………私も信じるけど、他人にもそれが降り懸かるとは思ってなかった」
二人、意味のない会話をすると、同時に大きなため息をついた。
「帰るか」
「ああ、俺も丁度それを考えてた」
明が提案すると、流も疲れたように呟き、家路についた。