プロローグ/Prologue
■トルコ・イスタンブール
登る朝陽の輝きを、高層ビルは窓で反射させて橙に煌めき、聖堂は照らされ威容を際立たせるように佇む。朝霧が全てをベールのように包み込み、淡い幻想的な雰囲気を醸し出していた。
そんな東西新古の坩堝の中を、轟、と一人のトレンチコートを羽織った青年が駆けていた。
霧霞む朝の街をパルクール顔負けのアクションで進んでいくさまには迷いが見られない。
地面からビルの壁へ、壁から屋上へ、屋上からまた地面へと。
ベルトが無いタイプらしく、ボタンを締めていないコートはマントのようにはためいている。
イスタンブールの4月の朝は寒い。
そのため青年は厚手のネルシャツにベスト、その上にカーディガンを着込むというしっかりした防寒対策をしているようだが、それでも冷えるようだ。白い吐息を吐きながら微かに肩を震わせて寒さを紛らわしている。
青年は一見赤毛の西洋人に見えるが、細部を注意深く観察してみると、所々北方の黄色人種のパーツを認めることが出来る。それらのパーツは互いを損ねることなく綺麗に組み合わさり、凛々しくも儚い印象を見る人々に与える。
彼は耳に装着した骨伝導ヘッドセットを介して彼の仲間にテキパキと指令を飛ばしていた。
「こちらアルファ。チームB、進捗は」
『避難完了しました』
「聞いたな?チームA!戦線をゆっくり後退しつつポイントRにてチームCとスイッチ、そのまま離脱!チームCは最低限の交戦でターゲットを惹きつけつつポイントPまで誘導。それまでには突発事象xを解消し、必ず僕も着く。だからそれまで持ち堪えてくれ」
『了解』
阿吽の呼吸。それは練度の高い兵団を思わせ(事実、隊員の中には元軍属の者もいた)、また長年付き添った熟年の夫婦をも思わせる。無駄のないやり取りから双方の信頼が窺える。それに加え、隊員たちの声からは若干の呆れも多少見え隠れしていた。
ああまたか、と今にもイヤホンから苦笑が聞こえてきそうだ。
それもそのはず、青年は約束を違えたことは隊員たちの知る限り一度もない。彼はやると言ったらやる。文字通り自らの身を削ってでも完遂させようとする。
それに隊員たちは知っている。青年はお節介焼きだ。それも重度の。最も彼は「不確定要素は余裕があるうちに排除したいだけ」と誤魔化すだろうが。現に今回も突発事象と称して、移動する災害から避難していた民間人女性のために、はぐれてしまった弟を単独で探しているのだから。
だから彼らはそれに応える。むしろ自分より若輩の隊長にこれ以上無理させてなるものか、と年長者の意地が彼らを鼓舞し、彼の期待を、努力を上回ってやろうと奮闘する。
それでも本人は隊員たちの心意気を知ってか知らずか、子供を探すため、例え隅にいようとも見逃すまいと意気込んで周囲を見回しながら駆ける。
――どこだ……どこだ…………見つけた!
子供はビルの間に潜むように隠れていた。
周囲に憚る大泣きぶりであったが、隊員たちがうまくやってくれれば今頃ターゲットには聞き取れない距離にいるだろうと青年は考えていた。
青年はビルの屋上から何の苦も無く10メートル程の高さを、猫を思わせるしなやかさで、建物の出張った窓枠や看板を足場に、すいすいと飛び降り、そして小走りで子供の元へ赴く。
「君がアレックスかい?」
アレックスと呼ばれた子供はびくりと肩を震わせ、青年の方に涙と洟に塗れた面を向ける。まだしゃくり上げていたが、大分落ち着いたみたいだ。そのためか、今度は顔からは見知らぬ人への警戒心が露わにしていた。
それを認めた青年は、これは困ったとでも言いたげに頭を掻きながら微苦笑を浮かべる。それから第二声を発するまで然程時間は掛からなかったが。
「そんなに警戒しないで貰えるかな。君のお姉さんから君の捜索を頼まれた者だよ。君がシェーリン・ダヴュアンの弟、アレックスでいいんだよね?」
少年アレックスは逡巡を見せたが、直ぐにわずかに首を縦に振った。
「うん、いい子だ。そんな君にお姉ちゃんと繋がった僕の電話を貸してあげよう」
そう言って青年はコートの内ポケットから携帯端末を取り出す。少年は半ばひったくるような形で端末を奪うと、それを耳に当て、息を潜めて姉の第一声を待っていた。
電話越しに放たれる怒涛の叱責。また泣き出してしまう弟。しばらくして姉から投げかけられる優しい言葉。泣き止んだと思った弟は今度こそ決壊し、カップ麺が出来る時間で3度も泣くという泣き虫っぷりを青年の前で披露した。
やり取りの一部始終を傍から見ていた青年は安堵と達成感がこもったため息を吐き出し、再び表情を引き締める。
――このまま胡坐をかく訳にもいかない。そろそろ動かなくては。
寄りかかった壁から離れようとした時、彼のヘッドセットから予期せぬ声が聞こえた。
『こちらチームB!新たな『幻獣』を視認!精霊類です!』
「種まで判別できるか?」
『はい、これより接敵します。目視範囲まで3秒。2……1……!?チームB交戦開始!』
「どうした!?一体何だ?報告しろ!」
『ダイモーンとケールです!』
ふざけるな!という叫びが青年の口から出そうになったが、開いた口からは代わりに鉛のように重いため息が吐き出される。
理不尽は当たり前。それがこの世界の常識。人間の事情なんてお構いなしに、ボーリングピンのように薙ぎ倒し、人形のように弄ぶ。
――そんなことはとっくのとうに理解しているはずなのに。
青年は頬を叩き、深呼吸。心持を変えて立ち直る。
――さあ、指示を出せ。最悪の可能性は常に考えていただろう?たったの下級の神霊2種が何だっていうんだ。この程度当たり前だっただろう、しっかりしろ!
「……チームBはそのまま交戦。何が何でもチームCのところには近づかせるな。くれぐれも無理はしないでほしい。チームAは二つに分かれろ。一方は民間人の護衛を。もう一方は戦闘可能な隊員の割合を多めに。二、三人で一組作り、遊撃して敵性体の数を減らせ。チームCは予定通りそのままターゲットと交戦状態を維持。……重ね重ね言うが無茶だけはしないでほしい」
『了解』
その言葉を最後に通信機から鬨の声や耳を劈く大音、その合間にチームメンバー間の交信が垂れ流される。どうやらもう戦いが始まったようだ。
「さて、ごめんよ!」
「!?」
言うや否や青年は子供を抱え、瞬時にその場から背を向けて飛び退く。
直後、少年がいた場所は粉塵と瓦礫を巻き上げ、爆発と錯覚させる程の衝撃を撒き散らす。
「随分とお早いことで」
土煙が晴れると、そこには悪魔の大隊がいた。
ダイモーン。
太古のギリシャにおける、神でもなければ人でもない、下位の神格または死した英雄の霊とされるもの。
普段は他の同じように霊体を持つ種と同様、目に見えないエネルギーの塊として顕現し、人間に過干渉しようとしない代物。しかし今は悪意に染まり、堕落し、この世全ての憎悪を表すかのように身を黒く染め、そのけだものの如き醜き容貌を晒す悪霊と化していた。
ケール。
骨ばった翼に、長い牙と爪。ダイモーンと同じ黒い体。
叙事詩『イーリアス』に登場する女怪たちは、その逸話に違うことなく戦場に死を振り撒き、死した者の血を啜ったのだろう、嘲笑とも威嚇ともとれる表情をしながら赤黒く汚れた牙を見せている。
――囲まれた、か。
青年は後ろからも同様の気配を感じ取っていた。逃げ道は断たれた。
青年は子供を守るようにして肩を寄せると、男の子に聞こえる程度の小声で言った。
「……少年、しばらく目をつむって。……そう、それでいい。すぐ終わるから」
◆
青年は疲労困憊の状態であった。
青年はふらついて、今回の異変を鎮めるために、彼と彼率いる部隊が命懸けで倒したターゲット――カイメラにもたれかかる形になった。
人々の幻想より生じた『幻獣』は、今までの暴虐が夢幻だったかのように冷たく硬直した動かぬものになっていた。けれど青年の預けた背中に、それが紛れもなく生きていた存在であったという感触が返ってきた。
現に辺り一面チューリップで埋め尽くされていたはずの花畑は、今や地面がひっくり返ったかのように荒れていて、奇蹟的に無事だったチューリップがまばらに咲くばかりだ。
この光景が如何に名の知れ渡った伝説の猛獣との闘いが熾烈なものかを如実に語っていた。
青年はそのままずるずると座り込み、ぼんやりと周りを見ていた。
青年に代わり指示を出す者。負傷者を担架で担ぐ者。癒す者。そして、死者を悼む者。
何かしなくてはと脳が喚くが、体はジャンクの塊のように重く、無気力で頑なに指令を拒む。
何かしなければ落ち着かないのに出来ない青年の焦燥感など露ほども知らぬとでも言いたげに、周りの白いチューリップは呑気に風に揺られていた。
しこりと呼ぶには些か大げさだが、確かに存在する心の澱を感じながらも、彼とついに諦めて四肢を投げ出した。
ぼんやり空を眺めていた青年はふと、こちらに駆け足で向かってくる存在に気付いて視線の先をそちらに向けた。
よく見れば、件の姉弟である。後ろには彼のよく知る隊員がいた。
彼女はいい事をしたと言わんばかりのドヤ顔である。
良かれと思って連れてきてくれたんだろうが、正直余計なお世話である、と青年は内心でため息を一つ。
感謝が欲しいわけではなく完全にエゴでやっただけだ、というのが青年の正直な感想だが、まあ彼女に言っても伝わらないからなあ……と、少年は密かに内心で呆れていたりする。
最も、感謝されると無下に出来ないのがこの青年の特徴でもある。
やがて互いに手を伸ばせば触れられる距離まで来た二人は跪き、姉の方は青年の手を優しく包み、額に寄せ、滂沱の涙を流しながらただ感謝の言葉を繰り返し告げる。ついでに弟の方も泣いていた。
青年は無言を貫く。
ここで気の利いた一言でもすれば良いものを、この青年はそういう事をしない。しないというより出来ない。妙なところで不器用なのもこの青年の特徴と言える。
唯一の反応らしい反応は、ただ彼女の気が済むまで、薄い笑みを貼り付け手を握らせるだけであった。