第二章 『深夜の廃病院でかくれんぼ』②
「思ってたより遠かったな」
緩やかな右カーブの坂を上がり終え、そうサンゴがつぶやく。
だが、言葉の割に呼吸はまったく乱れていなかった。毎日“ひとりかくれんぼ”で走り回っていたのが図らずも体力作りとなり、功を奏したようである。
正門付近からも見えていた“又田病院”が、今、サンゴの眼前に現れた。
病院はこちらに顔を向けて建っているため奥行きが分からないが、学校の校舎ほどの大きさがあった。外壁のあちこちははがれ落ちていて、随分と古めかしい建物だ。夏という気候のせいか、霊的なものが集まっていそうな気もする。
にわかに鎌首をもたげ始める恐怖心をふり払うと、サンゴは一直線に正面玄関へと進んで行った。
正面玄関には、急患の受け入れのためか、電灯が点いていた。彼は、まるで街灯に導かれる昆虫にでもなったかのようにそれを目指した。
すると、ガラス扉の玄間の前に、三人の少年少女がうずくまるようにして座っているのが目に入った。短髪の少年と坊主頭の少年、それと、三つ編みの少女だ。
「こんな時間に、何をしてるんだろう?」そう思いながら、ゆっくりとサンゴが近づく。
短髪の少年がそれに気づいた。
「あれ? 君は誰?」
その場に立ち上がり、サンゴにたずねる。
サンゴは、いつもどおりどぎまぎしながら返した。
「あ、あの、僕は、青井サンゴ」
教室の動物達の前ではまだまともだった彼だが、人間相手はどうしても苦手なようだ。
「サンゴ君か。この辺りでは見かけないから、僕達とは別の小学校なのかな?」
引き続き、短髪の少年が問う。
「う、うん。……たぶん」
サンゴは、あいまいにうなずいた。
「そうか、なるほど。あ、僕は、ヤマト。小学四年生だ。それと……」
短髪のヤマトが座っている二人に目を落とすと、
「俺は、タケル。ヤマトと同じクラス」
「私も。私は、ミコトよ。よろしくね、サンゴ君」
坊主頭のタケルと三つ編みのミコトも立ち上がり、そう自己紹介をした。
「うん、よろしく。僕も、四年生だよ」
同じ学年だと知っての安心感からか、先ほどより少し落ち着いてサンゴが会釈する。
そこに、ヤマトが真剣な顔をして言った。
「せっかく出会えて仲よくなれそうだったのに悪いんだけど、サンゴ君、君は早くここから離れたほうがいい」
「え? どうして?」
「出たんだよ。ドクター・マーダーが」
「ドクター、マーダー?」
サンゴは首をかしげた。
「何だ、ドクター・マーダーを知らないのか? 教えてやるよ」
ヤマトの代わりに、タケルがそう答える。彼は、自分の携帯電話をいじり始めた。
「……ほら。ここ、読んでみろよ」
タケルがそれを手渡す。
「あ、ありがとう」
礼を言うとサンゴは、携帯電話に目を落とした。
『ドクター・マーダーについて』
ドクター・マーダーとだけ聞いてもぴんとこないだろうが、又田才蔵という名を併せて述べれば、少なくとも、医学界でそれを知らぬ者はいない。
そう。我が国日本が、世界に誇る天才外科医、又田才蔵こそがドクター・マーダーなのである。
若くしてドイツで博士号を取得した彼は、その後帰国し、某大学病院の助教授として招かれた。現在でいうところの准教授である。
通常、教授や助教授は、自分の研究や日々の授業に時間を費やすものだが、彼の場合は違った。そういったことにはまるで無関心に、休むことなく患者のためにメスを握り続けたのである。
また、病院側も「又田助教授の場合はそれでよい」と、お墨付きを与えていた。それほどまでに、彼の執刀技術は素晴らしいものだったのである。
又田は、当時の日本では不可能だと言われた文字通り“医者もさじを投げる”ような大手術を次々と成功させていく。そして、ついには、「もはや、又田に切れぬ臓器はなく、治せぬ病もない」とうわさされるまでになった。この間、帰国よりわずか二年だというのだから驚きである。
ところが、天才外科医との評判が全国各地に広がり始めたちょうどそのころ、又田は、突然行方をくらませる。失踪してしまうのである。
この事件は、新聞やテレビを通じて大きく報道され、「病院側は、又田助教授を酷使しすぎた。彼は手術に疲れて失踪したのだ」と非難した。
これに、事情をよく知らない世間は容易く流され、結果、総責任者である病院長が引責辞任する事態にまで発展した。
だが、それでも、又田の行方は依然として不明のままであった。
それから五年。とある街のとある場所に、“又田病院”が誕生する。
病院は、入院施設を完備した三階建て。院長は、又田才蔵その人であった。
天才外科医、又田の復活に、開院したばかりの病院は手術を求める多くの患者であふれ返った。明日の命さえ分からぬ彼らにとって、又田は、まさに希望の光そのものだったのである。
……しかし、現実は、そんな理想とは大きくかけ離れていた。
“又田病院”に入院した者は数多くいたが、退院した者は誰ひとりとしていなかったのである。
運よく病院から逃げ出した看護師は、警察署で次のように語っている。
「又田院長は、天才外科医ではなくなりました。三階に入院していた患者さん達は、皆、二階の手術室で体を切り刻まれ殺害されました。私以外の職員も、全員です。どうして又田院長がそのようなことをしたのかについては、私にも分かりません。失踪していた五年間で彼を変える何かがあったのかも知れないし、もともと人を切り刻むことが好きで外科医をやっていたのかも知れません。全ては推測で、私には何も分かりません。……ですが、ひとつだけはっきりと分かっていることがあります。それは、又田院長は“殺人”という罪を犯した、ということです」
この証言により、警察は、“又田病院”へと急行した。だが、病院内のどこにも患者や職員の遺体はなく、又田の姿を発見することもできなかった。
ただ、唯一、二階の手術室に残されていたものがあった。
それは、心臓。プラスチックのトレーの上に、ぽつんとひとつ、心臓が置かれていたのである。
ちなみに、約十年の歳月を経たのちに開始されるDNA鑑定において、この心臓は又田才蔵のものであることが判明している。
いったい又田は、何のために罪もない人たちを殺害したのか? 本当に人を切り刻みたかっただけなのか? それならば、手術室のトレーに残された彼の心臓が意味するものとは?
様ざまな憶測が飛び交う中、最も有力視されたのは、「実は、又田は心臓を患っており、適合する患者の心臓を自分に移植した」とする説であった。
その後、又田に関する目撃情報は一切なく、当時の法律により、この事件は時効を迎えた。
結局、看護師が証言していた「又田院長は“殺人”という罪を犯した」という事実以外、全ては幕引きとなってしまったのである。
さて、最後になってしまったが、何故、又田才蔵がドクター・マーダーと呼ばれているのかを説明しておく。マーダーとは英語で“murder”と綴り、“殺人”を意味する。そこに、彼の名字である又田をかけて、そう呼ばれるようになったというわけだ。ドクターは、言うまでもなく医者。つまり、ドクター・マーダーは、日本語では殺人医者となる。まさに、彼にぴったりな呼び名であると言えるだろう。
かくして、ドクター・マーダーの引き起こした忌まわしき殺人事件を境に、“又田病院”は廃病院となった。
しかし、その建物は現在も残っている。事件から既に三十年がすぎているとはいえ、彼が再び病院に現れないとは限らない。不用意に近づかないことを強くお勧めする。
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次回更新は、8月14日(月)を予定しています。