第二章 『深夜の廃病院でかくれんぼ』⑤
「行ってみよう。三〇五号室に」心の中で自分にそう伝えると、サンゴは、部屋から出ようとドアのノブに手をかけた。
ところが、
「あの小娘め、どこへ行った?」
そんな低い男の声が、ドアの先、遠くの方から聞こえてきた。
「ドクター・マーダーだ!」 サンゴは、そっとドアノブから手を引いた。
「まぁ、いい。こちらにはマスターキーがあるんだ。逃げられんぞ」
その声は、少しずつ、だが、確実にこちらへと近づいている。
「マスターキー?」サンゴはキーボックスへと目をやった。
そんなものはここにはない。ということは、ドクター・マーダーが持っているのだろう。
「……そうだ!」何かを思いつき、サンゴは、キーボックスに向かった。
三〇一号室の鍵を外し、それを三〇五号室の場所にかける。続けて二〇一から二〇八号室までの鍵を全て外すと、こちらはポケットの中にねじこんだ。
そのまま、音が鳴らぬようポケットを押さえて移動し、奥の机の下へと身をかくす。
サンゴは、“ひとりかくれんぼ”の時と同様に、その場で息を潜ませた。
やがてガチャリと部屋のドアを開け、ドクター・マーダーが入ってきた。
ペタ、ペタ。スリッパ履きで歩く音が聞こえる。サンゴはその身を固くした。
だが、それは二歩ほどですぐにとまった。
「さて、あの小娘、どこにかくれたかな。とはいえ、私の持つマスターキー以外、鍵はここにしかない。持ち出せば簡単に分かってしまうのだ。愚か者め」
そう言って、ドクター・マーダーは小さく笑った。どうやら、彼はキーボックスの前にいるようだ。
「鍵に夢中になっている。今がチャンスだ」サンゴは、机の脇からちらりと様子をうかがった。
見えた。ドクター・マーダーは、四十代半ばの中年だった。白衣を着て眼鏡をかけている。
「二階の病室全てと三〇一号室。それと、手術室か。手術室は既に見てきたから、次は、二階の病室をさがしてみるとするか。それにしても、随分と多くの鍵を持って行ったものだな。どの道、逃げられやしないのに……」
サンゴの策にまんまと嵌まったドクター・マーダーは、鍵のない場所をさがすことに決めたらしく、そのまま部屋を出て行った。これで、少しは時間稼ぎになるはずである。
「……ふう」
深く息をつき、ポケットの鍵を取り出して床に置くと、サンゴは机の下から這い出した。
ゆっくりとその場に立ち上がる。
「あれ?」
彼は、机の上に新聞紙が置いてあるのに気がついた。
何気なく目を落とすと、大きな字で書かれた見出しが見えた。
“天才外科医、又田助教授 突然の失踪”と記されている。
「なるほど。これは、又田才蔵の行方が分からなくなった時の記事か」
事前に『ドクター・マーダーについて』を読ませてくれていたタケルに感謝しながら、サンゴはそうつぶやいた。
記事の下のほうには、又田の顔写真も載っていた。今し方見たドクター・マーダーを少しだけ若くしたような、それでも同一人物であると分かる、そんな写真であった。
又田の失踪期間は、五年。その後、“又田病院”を開院した彼は、ドクター・マーダーとなる。
「五年だと人の顔ってあまり変わらないんだな。……え、でも」
首をかしげるサンゴの頭の中に、大きな違和感が押し寄せてきた。
合わない。何かが合わないのだ。
天才外科医、又田才蔵。五年間の失踪。“又田病院”の開院。殺人。看護師の証言。トレーに残された心臓。ドクター・マーダー。そして、廃病院。
一つひとつを、パズルのピースのように組み合わせていく。やはり、合わない。
「ちょっと待って。それならば、もし、“あれ”が嘘だったとしたら……」
自分と会話をするように目を閉じて、サンゴがそう声に出す。
その瞬間、合わないピースは形を変え、枠にきちんと収まった。
「そうか。……分かった」
サンゴは、ゆっくりとその目を開けた。
彼が分かったこと。それは、この“又田病院”で起きた惨劇の“真相”であった。
しかし、
「でも、それなら、僕が見たのは、いったい何だったんだろう」
最後に残された疑問をサンゴが思案する。
「ひょっとして……」
怖い話と推理物の両方が好きなサンゴだからこそたどり着いた結論に、彼は身震いした。
「と、とにかく、今は三〇五号室に向かおう。そうしよう」
説得するようにそう自分に言い聞かせると、サンゴは、今も院内を歩き回っているあの男と出会さぬよう祈りながら静かに部屋を後にした。
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