序章 『逆様の少女』
序章 『逆様の少女』
大きな鳥居をくぐり抜けると、サンゴは境内に敷かれた石畳の上を真っ直ぐにかけた。
「まあだだよ」
そう声に出し、走りながら周囲の様子を確認する。
誰もいない。今がチャンスだ。
サンゴは、賽銭箱が置かれている拝殿の左側、高さ六十センチメートルほどの床下のすき間にその身を潜りこませた。そのまま、四つん這いの姿勢で体を百八十度回転させる。両眼に、今し方通ってきた参道が映った。
「完璧だ」サンゴは、心の中でほくそ笑んだ。
夏休みに入ってから約十日。彼は、毎日かくれんぼの練習をしてきた。かくれる場所探しから足音を抑える境内の走り方に至るまで、すべてを研究してきたのだ。完璧にもなろうというものである。
ほおを伝う汗を半袖シャツの肩口で拭うと、最後にサンゴは告げた。
「もういいよ」
その合図が聞こえたかのように、境内のあちこちの木から蝉の鳴き声が響き始める。
下は地面、上は拝殿の縁板のせまいスペースで、サンゴは息を潜ませ続けた。
数十秒か、それとも数分か。いったい、どれくらいの時間そうしていただろうか。
それでも、彼を見つけにくる者は一向に現れなかった。
そう。待てど暮らせど一向に、だ。
「……はぁ」
サンゴは、深くため息をついた。
実は、このかくれんぼ、通常とは大きく違う点がひとつあった。“鬼がいない”のである。
そして、現在かくれている子はサンゴひとり。
つまりは、“ひとりかくれんぼ”だったのである。
「友達、欲しいなぁ」
心に浮かぶ切実な願いが、サンゴの口からこぼれ出た。
あの日、僕に、ほんの少しだけでも勇気があったならば……。
情けない自分をふり払うように、サンゴは頭をふった。
その時、
「もういいかい?」
参道のほうから小さな声が聞こえてきた。
「え?」
四つん這いの姿勢のまま、サンゴがその身を固くする。
すると、
「もういいかい?」
そう再び声がした。
今度ははっきりと聞こえた。女の子の声である。
恐らく、“ひとりかくれんぼ”ではなく、本当のかくれんぼが始まったのだろう。
「ど、どうしよう」サンゴは焦った。
仲間に入れて欲しいと頼むべきか。それとも、もう少し様子を見るべきか。
迷っているうちに少女は、三度あの言葉をくり返した。
「もういいかい?」
思い切って、サンゴは答えた。
「もういいよ」
女の子の言葉は自分に向けられたものではない。そんなことは、サンゴにも分かっていた。
だが、それでも彼は、そう返事をしたのである。
そうすることで、自分の存在に気づかせ、仲間に入れてもらおうとする作戦だったのだ。
ところが、
「かくれたんだね。じゃあ、さがしちゃうよ」
ごく自然に少女は言う。
サンゴの耳に、軽快な靴音が聞こえ始めた。
「これって、ひょっとして、僕を見つけようとしてるってこと?」期待と不安が半分ずつの気持ちの中で、サンゴは、じっと参道に目を凝らした。
タッ、タッ、タッ、と石畳の上をかける、赤い靴をはいた少女の足が見えた。
「この女の子が、鬼だ」サンゴはそう確信した。あと少しで顔も見えそうだと地面すれすれまで目線を低くしてみるが、残念ながら、少女の全身を確かめることはできなかった。
そうこうしているうちに赤い靴の少女は、賽銭箱の前までやってきた。
サンゴとの距離は十メートルほどだが、現在、彼は床下にいる。少女が覗きこまない限り、見つかることはないはずだ。
「こっちのほうから声が聞こえたと思うんだけど、どこにかくれたのかなぁ。上かな?」
賽銭箱の脇を抜けると少女は、ためらうことなく拝殿へと上がって行った。
「あ、だめだよ。勝手に入ると、神主さんから怒られちゃうよ」そう思いつつも、サンゴは、それを注意しようとまではしなかった。少しでも長くかくれんぼを楽しみたいと考えていたからである。
かくれんぼには、いつ鬼に見つかるとも知れぬドキドキ感やハラハラ感がある。
だが、それよりも前に、今のサンゴは、誰かが自分をさがしてくれているのだというその事実にワクワクしていた。“ひとりかくれんぼ”では決して体験できない充実感を味わっていたのである。
「あれ? いないなぁ。でも、人の気配はするんだよね」
意外と勘が鋭いのか、そうつぶやきながら少女が縁板の上を歩く。
キィ、キィ、と板のきしむ音が、サンゴの頭上で鳴った。
「……いる。真上に、いる」サンゴは、まるで石仏にでもなったかのように身動きをとめた。呼吸さえもなるべく回数を減らし、慎重にゆっくりとする。地面の土と縁板の裏に生えたカビのにおいが混じり合い、鼻の奥にむっと広がった。
「この辺にかくれていると思ったのに、おかしいなぁ。他のところをさがしてみようかな」
少女は、賽銭箱のほうへと踵を返し始めた。
今度こそ顔を見ようと意気ごみ、サンゴも動き出す。しかし、これは失敗だった。
ガザッ。四つん這いで移動する彼のつま先が、わずかに地面を擦ったのである。
「あれ? 今、何か音が聞こえたような……」
そう言って少女が立ち止まる。
どきり。サンゴの心臓が飛び跳ねた。
ここですぐにその場を離れたならば、少女に見つかることはなかっただろう。
だが、それをサンゴはしなかった。心の片隅に、「僕をさがしてくれている女の子に会ってみたい。会って話をしてみたい」という思いがあったからである。
そして、その時は、実に“ホラーチック”に訪れた。
既に見つかる覚悟を決め、床下から参道のほうを見つめるサンゴの視線の先、二メートルほどのところに、突然、大量の黒い毛糸のようなものが降ってきたのである。
「ひっ!」口から出そうになる悲鳴を、サンゴは無理やり呑みこんだ。
黒い毛糸だと思ったもの。それは、髪の毛だった。黒く長い髪の毛が、縁板の端から地面へと向かって、一直線に垂れてきたのだ。
「さ、“逆さ女”だ!」サンゴの頭の中に、最近本で読んだ怖い話が浮かんだ。
“逆さ女”についてのうわさは全国各地にあるが、彼が読んだのは、愛知県と静岡県の境目に位置する旧本坂トンネルのものだ。そのトンネルを自動車で走行していると、逆様になった女が、いきなりフロントガラスに落ちてくるというのだ。そして、そこに描かれていた挿し絵が、今の状況にそっくりだったのである。
眼前でゆらゆらと揺れる黒髪を、サンゴは、何もできずにただじっと見つめた。
やがて、それは重力に従うように、やおら地面へと向かって下がっていく。
サンゴの前に、女の額が、目が、鼻が、口が、顔の全てが現れた。
それは、大きな瞳が印象的な少女であった。恐怖の“逆さ女”ではなく、可愛らしい“逆さ少女”だ。
「あれ? 君は……」
そんな逆様の少女を指さし、サンゴが何かを言おうとする。
だが、それよりも早く、少女は告げた。
「サンゴ君、見ぃつけた」
次の瞬間、サンゴの視界が大きくゆがみ始める。
「え? どうして、僕の名前を?」そうたずねようとするも、彼の意識はそこで途絶えた。
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次回更新は、7月21日(金)を予定しています。