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外に出ると既に辺りは薄暗くなっていた。
やはり冬の訪れが近いと暗くなるのも早い。
フゥディエは脚を引きずりながら目的の店へと急ぐ。
“うぅ……入りにくい”
店の前に辿り着いたものの、踏み入るのに躊躇する。
とてもファンシーで可愛らしいその店は街で評判のいい菓子屋だ。
若い娘さん方が楽しげに菓子を選ぶ中に飛び込むのはなかなか勇気がいる。
自身も若い娘なのだが、なにぶん古びたフードを頭からスッポリ被る彼女は不審者の出で立ちだ。
小柄で明らかに非力そうな為辛うじて警備隊に通報されていないだけで、彼女が若い娘達の中に入るのはどうしたって戸惑われる。
しかしこうしている間にもどんどん陽は沈む。
意を決した彼女は店へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい……ませ」
入って来た客に弾んだ声で挨拶する可愛らしい店員は、フゥディエの姿を目に留め一瞬言葉を詰まらせた。
様々な菓子が並ぶショーウィンドウの前までやって来た彼女は、店員の娘の顰めた眉間の皺に気付くことなく夢中で菓子を確認する。
他の客は彼女を見て嫌そうな顔をして店から出て行ってしまった。
「あの、こ、これ、この茶色いやつ下さい」
たっぷり時間をかけてようやく購入する商品を決め、店員の娘へとおどおどしつつ声をかけた。
店員の娘は突如現れた不審者の声が意外に高いことに驚いた。
「はい、こちらのガトーショコラですね」
茶色の円形で上に砂糖らしきものが塗してある甘そうな菓子は、がとうしょこらと言うらしい。
名前を覚えようと何度も脳内でがとうしょこらを反芻させながら大きく頷く。
「どうぞ」
汚い袋から取り出された金を受け取り、引き攣る笑顔でケーキを差し出す店員の娘。
「ありがとうございましたぁ」
大事そうにケーキを抱え脚を引きずりながら出て行くフゥディエの後ろ姿に、二度と来るんじゃないぞという念を送りつつ挨拶をした。
フゥディエの方は一仕事終えとても満足していた。
ブレスレット代の残りの金は彼らの為に甘いモノを買うと決めていた。
折角テルーニの贈り物をするのだから、どうせなら喜んで貰えるものも贈りたいと思ったのだ。
これだけ大きくて甘そうな菓子ならば彼らもきっと喜んでくれるに違いない。
フゥディエの為に給金の半分を受け取らなかった院長と孤児院のことは気になるが、それでも生活に必要のない……しかもあんな高価な物を初めて買った彼女は自分の大胆な行動に興奮していた。
がとうしょこら、がとうしょこらと頭の中でリズムを付けて繰り返しながら、弾んだ心地のまま歩く。
「ねぇ知ってるかい? あの山の中のどデカいお屋敷。あれって王弟殿下の所有物らしいよ」
夕飯の買い物途中の主婦達の井戸端会議。
その中で飛び出した王弟殿下という言葉に、弾んでいたフゥディエの心がヒヤリと縮まる。
「ああ、知ってるとも。もうすぐ完成する屋敷でしょう。なんでも国中の大工を集めて造ってるらしいよ。ウチの甥も大工でね、そりゃ凄い規模の工事だと騒いでいたよ」
「しかし王弟殿下はなんだってあんな辺鄙な所に屋敷を建てるんだろうねぇ」
どうやら話題はヴァルの新しい屋敷についてであるらしい。
「なんにせよ公共事業で国民に金を回してくださるなんて立派なお方だねぇ」
「えぇ本当本当。それになんといってもあの素敵なお姿。なんでも隣国の姫君も王弟殿下に夢中だって言うじゃないか」
「私もあと少し若ければねぇ。妾だって夢じゃなかったのに」
「あははは、あんた不敬罪でしょっ引かれちまうよ」
あの恐ろしいヴァルであるが、国民の支持率はとても高い。
それも貴族と平民、どちらからもだ。
つくづく彼を敵に回したフゥディエがこの国で生き残っていることに奇跡を感じる。
冬の訪れを感じさせる冷たい風がフゥディエとローブの間を吹き抜け、ぶるりと身震いする。
“早く帰ろう”
フゥディエの帰りを待ってくれている彼らに無性に会いたくなり、歩みを再開させた。
「素敵と言えば王太子殿下も忘れちゃいけないね」
「今年で14歳だったかしらね」
「ええ、ここ最近とてもご成長なされてね」
「そうそう、うちの娘もすっかり王太子殿下に熱を上げてて」
既にヴァルとは別の話題に移った主婦達を背に彼らの元へと急いだ。
ようやく城へ辿り着いた頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。
一旦城の敷地内にある宿舎へと戻り買い込んだ食料を仕舞う。
ロキの枯れ草も枕の横に大切に置き下働きの服に着替えると、胸にケーキの箱を抱えポケットにブレスレットを入れ意気揚々と地下牢へと向かう。
「ちょっとそこの。これ捨てといて」
途中同じ下働きの女性が声をかけてきて、バケツを眼前に突き出した。
彼女の顔は覚えてなかったが向こうはフゥディエのことを知っているらしく、バケツを押しつけるとツンと顎を突き出し踵を返した。
こうして突然仕事を押し付けられることはよくあるのだが、気持ちが地下牢だけに注がれていたフゥディエが突然の事に驚き上手く反応出来ずにいる内にもう女性の姿は見えなくなった。
残された手元のバケツの中には黒く濁った水が並々と入っている。
この近くに汚水を流せるような場所はない。
仕方なく行き先を外へ変更するフゥディエ。
遠くなる道程を、彼らの喜ぶ姿を想像することで踏ん張り、片手にケーキの箱、片手にバケツを持ち脚を引きずる。
折角のケーキを崩さぬように、されど汚水も廊下に零さぬように。
なかなか体力と精神力の居る作業に疲労は蓄積される。
ふーふー言いながらようやく外へと続く扉を開けたものの、目立つ場所に水をぶちまけて怒られでもしては敵わない。
向こうの茂みの方で捨てようと暗がりの中を移動。
「居たっ!」
水を捨てている最中に男の声が響いた。
しかもその声の主なのか、ガサガサと忙しい雑音を鳴らしこちらへ近付いて来るのが分かる。
周りにはフゥディエ一人しかいない。
自分に何か用事があるのは確かなのだろうが、逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。
何の用かは知らないが今日はもう三頭犬の元へ行かせて欲しい。
しかしそう言う訳にもいかずこの場から逃げられないでいると、とうとう声の主はフゥディエの目の前にやって来てしまった。
余程急いで駆けて来たようで、膝に手をつき肩で息をする男。
「はぁ、はぁ。今頃から、草むしり?」
「……? 草むしりは、今日はしない予定です」
乱れた呼吸のまま何か良く分からない質問をされ首を傾げる。
庭師の手の回らない城の隅の方にしつこく茂る雑草を刈るのはフゥディエの仕事であるが、今日は非番だ。
「本日はお休みを頂いておりますので、また明日から再開予定ですが……お急ぎで除草しなければならない場所があるのですか?」
休みは休みだが、どうしても草を毟れと言うのならばやるしかない。
クビになるわけにはいかないのだから。
「これから地下牢へと餌を運ばなければならないので、少しお時間を頂けますか?」
「いや、すまない。違うんだ。いつも城の草むしりをしている君が今日は居ないからつい気になっただけだ」
つい気になっただけでここまで走って来たのかと訝しく思っていると、男が漸く顔を上げる。
それを見たフゥディエは息を呑んだ。
「っ……お、王太子殿下……」
さらさらの金髪に綺麗な青い目。
ヴァルに甘さと幼さを足したような面立ちの美少年に息を呑んだ。
多くの女性が赤面するだろう王太子と対面したフゥディエの顔は逆に青ざめる。
震えそうになる身体を抑え地面に跪き頭を下げた。
「顔を上げてくれ」
「いいえ、王太子殿下がご不快な思いをなさいますのでどうかご容赦下さい」
地面をジッと見つめたまま、蚊が鳴くような声をどうにか絞り出す。
夕方の冷えた風と共に王太子がザリッと地面を踏み締める音が届く。
「脚、もう元には戻らないそうだね」
「その節はお見苦しみものをお目にかけ、申し訳ございません」
「…………僕を恨んでいるかいフゥディエ」
「滅相もございません。全ては私自身の咎です」
グッと喉から声を出すのに失敗したような音が響く。
フゥディエは只々小さくなり王太子が過ぎ去るのを待った。