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「こんにちは院長」
馬車を乗り継ぎ漸く生まれ育った孤児院へ着くと、真っ直ぐに責任者である院長の元を訪ねた。
「ああ、一月ぶりですねフゥディエ。変わりはないですか」
他の部屋より僅かに広く、そして機能的だがどこか味気なく殺伐としている院長室のデスクに座りフゥディエを見つめる年嵩の女性。
この孤児院の院長である。
「はい、おかげさまで」
「それは良かった」
フードを取ったフゥディエは黒髪黒目を院長の前に晒すが、彼女の瞳に嫌悪は浮かばない。
更に言えばその瞳には感情らしいものは何も浮かんでいない。
掛ける挨拶もフゥディエを気遣うものであるが、声に温かさは全くなく型通りと言った感じだ。
しかしそれはフゥディエだけでなく全ての人間に等しく同じ反応であり、だからこそフゥディエはこの院長が好きだった。
フゥディエを他と平等に扱う人は滅多にいない。
それがどんなに素っ気ない態度だとしてもフゥディエにとっては堪らなく嬉しいものだ。
何より、院長が孤児院に来てから大人達から虐げられることがなくなったのだから、彼女は大恩人で救世主でもある。
幼い頃、院長の心は氷で出来ているのだと子供達が声を潜め深刻そうな顰め面で噂していたが、仲間に入れては貰えないフゥディエは離れた場所でその話に心の中で同意していた。
冬の寒い朝に水溜りに張る氷は美しく輝いていた。
こんな自分を蔑むことのない院長の心は確かに氷のように美しいかもしれない、と。
院長は生きる為に必要な色々なことを教えてくれた。
教養の授業にはかなりの力を入れており、そのおかげでここの卒院生らはマナーが良いと皆働き先でも評判である。
出自の為に世間の目がより一層厳しいことを憂慮した、院長の親心だと今なら分かる。
かくいうフゥディエも幼い頃は他の子供より更に厳しく躾けられた。
挨拶に始まり言葉遣いや食事、立ち振る舞いにダンス、読み書き計算、国の歴史と宗教、フゥディエが受けた様々な授業は全て院長自ら教鞭を振るった。
厳しい中にもしっかりとした愛情が感じられ、フゥディエも期待に応えようとどの授業も必死に受けた甲斐あり今こうして城勤めが出来ているのだ。
「院長、これ今月分です」
貰った給金の殆どが入った袋をデスクの上に提出する。
彼女は何も浮かばない目を少し細めると、それをそっと手に取った。
「はい確かに。いつも助かります」
フゥディエは城勤めになって以降、貰った給金の殆どをこの孤児院に寄付している。
それというのも、孤児院を卒業し城勤めを始めた頃フゥディエは院長に呼び出され重大な話を打ち明けられた。
国から出る孤児院の運営資金が大幅に減額されたというのだ。
普段は感情の浮かばない目を哀しげに伏せる様に不謹慎ながらフゥディエの心は浮き立った。
恩人である院長が他でもない、いつでも不要扱いしかされない自分に頼ってくれているとなれば俄然張り切るというものだ。
恐らく嫁に貰ってくれる男性はいないだろうから生涯独身だとして、老後の為になるべく貯めておきたいなどと若い娘にしては世知辛いことを考えていたフゥディエだが、それを投げ打つのに戸惑いはなかった。
しかしそれも少し前までの話である。
今のフゥディエには『仲間』の三頭犬が居る。
彼等にお腹いっぱい食べさせてあげるだけの資金は欲しいのが本音であるが、院長に減額を伝えるのは憚られる。
給金の入った袋を恨めしく見つめていると、いつもはそれをさっさと仕舞ってしまう院長の手が止まった。
「そういえば、もうすぐテルーニの日ですね」
ゴホン、と咳払いで始まった言葉にフゥディエは瞬きをする。
テルーニとは彼女達の国の独自の風習で家族だったり恋人だったり、愛する異性に贈り物をする日である。
言われてみれば道中の街はそのイベントにちなんだ装飾が施され浮かれた空気が漂っていた。
「テルーニ?」
「ええ、テルーニです」
不思議なのはテルーニという単語が院長から飛び出したことである。
院長に夫や恋人がいるという話は今まで聞いたことがないし、嫌われ者のフゥディエに好き好んで声をかける異性はいない。
そんな恋愛と縁遠い二人の間にテルーニの日が話題になることに違和感を覚えた。
「貴女もそろそろ年頃ですし、異性に贈り物の一つや二つしたいでしょう。今回は半分で結構です」
そう言って唐突に半分だけ返された給金の袋に戸惑う。
「いえ、でも、私にはそんな相手は……」
「だったら日頃の感謝を込めて身近な方に花束でも贈ってはいかがでしょう」
テニールの日には恋人や家族に、花束やお菓子等を贈る風習がある。
感謝をしたい異性など居ようはずもないフゥディエには院長の勧めにどうすればいいのか分からない。
「とにかく貴方の大切な殿方に何かテルーニの贈り物をすること。いいですね?」
そう言い放つと強引にフゥディエの背を押し部屋から追い出してしまう。
フゥディエは半分の給金を手にしばし途方に暮れる。
しかしいつまでもそうしていてはノロマなこの脚では帰る頃には暗くなっている。
「やいフゥディエ!」
ずりずりとようやく孤児院の外へと辿り着いた時、子供特有の甲高い声が響いた。
「おいお前この俺様に挨拶もせずに帰ろうとするな!」
振り向けば十を過ぎていない少年がこちらへ駆けていた。
「ロキ、久しぶりだね」
肩で息をしている少年に嬉しそうに目を細めるフゥディエ。
少年の方はキッと彼女を睨みつける。
「うるさいこの馬鹿!」
随分な言い草であるがフゥディエは気にすることなくニコニコとロキを見つめ続ける。
彼は赤ん坊の頃からこの孤児院に預けられている子供である。
ロキが孤児院に現れた当時、フゥディエの待遇は既に改善され過酷すぎる重労働を一日中押し付けられるようなことはなくなったが、それでも遊び相手の居ない彼女は他の孤児より時間を持て余していた。
必然的に赤ん坊の世話などの大変な役割りは未だにフゥディエへと回ってきた。
彼女の方も孤児院の手伝いは幼い頃から自身の仕事として当然と思っていたので、小さな子供の世話はお手の物だ。
一つの部屋に集められた赤ん坊の世話を彼女は付きっ切りで行ったが、その中でもロキは人一倍手のかかる赤ん坊であった。
誰よりも元気よく泣き喚き、誰よりもそれが長く続き、誰よりも食べ、誰よりも夜泣きが多かった。
顔を真っ赤にして泣く合間にミルクを飲ませ、満足したようにうつらうつらと微睡み始めたと思いベッドへと降ろそうとすれば、下ろすな抱き続けろとばかりに泣く。
機嫌の悪い時は一晩中どころか一日中ロキを抱き続ける羽目になった。
孤児院の職員ですら匙を投げたくなるような手のかかる赤ん坊を毎日毎日あやした。
フゥディエにとってそんなロキは思い入れの深い子供である。
「フゥディエの癖に生意気だぞ!」
今よりまだ幼い頃はフゥディエによく懐いていたが、自我が芽生え始め周囲の関係性が見えるようになってくると彼も他の子と同じく彼女を蔑むようになった。
それどころかよく食べるロキは他の子より一回り大きな体に成長し、チビ達のガキ大将として率先してフゥディエを馬鹿にしていた。
成長していくに従いこちらを見る目が冷たくなるロキに対し悲しみは降り積もる。
しかしそれと同時に仕方のないことだと諦めている。
感情に素直な子供が黒い自分に懐いてくれる訳はないし、だからと言ってどんなに蔑まれようと自分が赤ん坊の頃から世話をしていた子供を嫌いにはなれない。
「お前なんだよその脚! 」
脚を負傷してから随分と経つが、その間一度もロキ会っていなかった事に気付く。
「ちょっと転んだだけ。すぐ治るよ」
医者からは一生このままだろうという診断を受けたが、子供のロキにそんな話をしようとは思わない。第一興味もないだろうと思ったが案の定ロキは不機嫌丸出しでそっぽを向いた。
「そんなこと聞いてねぇし。ただその脚じゃペェルの実を俺様に献上出来ねぇじゃねーか」
ペェルは崖の上に生えている木の、更に天辺に少しだけ実る高価な実である。
大人でも難しいペェルの実をもぐのは脚が丈夫だった孤児院時代の数少ない特技であり、唯一孤児院の子供もこの時だけはフゥディエの周りに集まった。
彼女の数少ない輝かしい栄光の記憶である。
「そうだねゴメンね」
どうにか片脚と腕だけで登れないかと考えてみるが、どのみち今は山まで行く時間はない。
「………別にいいけどさ」
話は終わりかと思ったが、何やら言いたげに忙しなく視線を彷徨わせているロキ。
待っていてあげたいが、停留所に次の馬車が来る時間が迫っておりもどかしく思う。
次を逃せばあと三時間は馬車は来ないのだが。
そうすると彼らの餌の時間が遅くなる。
「あの、私もう行く……」
どこか気まずさを感じながらも立ち去ろうと切り出すが、その言葉を遮るようにロキは何かをバッとフゥディエの目の前に差し出した。
「か、勘違いすんなよ! たまたまそこで見つけて、要らないから捨て場所に困ってたらお前を見つけただけだからな!」
そう言って押し付けられたのは、小さな白い花の付いた大量の草の束であった。
「これは?」
「お前それ、よく集めてただろ!」
確かにパンに練ればよい香りと仄かな甘味が加わるこの草を昔よく採集していた。
しかしそれは手伝いの一種であり、とっくに孤児院を出ているフゥディエには必要のないものである。
「でもこれって、えっと、その………ドライフラワー?」
この草は採取したその日の内にパンに練りこんで焼いてしまわねばならない。
萎れてしまえば甘みはえぐ味に変わり、とても食べれたものではなくなるからだ。
それを乾燥させるとなると、それは苦いだけの枯草といえよう。
「お前がなかなか現れないから、捨て場所がなくて枯れたんだろ!」
たまたま見つけたとつい先程言っていたばかりであるのに、自分が来ないから枯れてしまったとはこれ如何に。
「と、とにかくちゃんと捨てとけよ!」
何かの問答だろうかと首を捻っている内に、ロキは顔を真っ赤にさせ怒鳴り付けると走り去ってしまった。
残された草の束を片手に戸惑う。
フゥディエにゴミとして押し付けたとロキは言ったが、言葉通り捨てるのはなんだか違う気がする。
もしやこれは自分の為に集めてくれたものなのではないか。
そう思い至った時、フゥディエの体温がカッと上昇する。
でも、しかし、そんな筈……いくら自己防衛に否定の言葉を頭で紡ごうと、口元がだらし無く緩む。
ふわふわとした高揚感に包まれ、普段ならば苦痛を感じる長時間の馬車の揺れも忘れいつの間にやら街へと戻って来ていた。