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視点が途中で交代します。
案内されたのはダブルベッドが真ん中を支配するこじんまりとした部屋。
アクスと二人きりの空間になると、詰めていた息を吐き出した。
「緊張したねぇ」
「うむ」
基本的にアクスはフゥディエ以外の人間には興味がなく大人しく後に続くだけで緊張などとは無縁だが、フゥディエの言うことには取り敢えず頷く癖があった。
「でも無事に泊まれて良かったよ。ここの女将さん、とってもいい人だったね」
「うむ」
「あんな素敵なお母さんがいてあの男の人は幸せ者だね」
「む…うむ」
“男の人”の話題は気に入らなかったが反応をしないように受け流す。
「着替えなきゃ風邪引くね。ほらアクスの替えの服……はっ、 そう言えばアクスと部屋が一緒だ」
逃亡中、片時も離れることがなかったので案内された部屋にも違和感なく一緒に入ってしまった。
「大変だ、部屋もう一つお願いしなきゃ。空いてるかな。空いてなかったらせめてベッド二つの部屋にして貰わなきゃだね」
「うむ…いや、待て。もしや我とフゥディエは別れて寝るのか?」
思わず頷きかけたアクスだがフゥディエの語る内容が最重要な案件だと気付いた。
「え…そりゃ勿論」
「何故だ!?」
確かに野宿では冷える森の中で三頭犬姿のアクスの懐に包まって眠っていたのだが、それは止むを得ずでありいくら性知識の乏しいフゥディエでも未婚の男女が同じ寝床で眠るのは良くないとなんとなく分かる。
孤児院でもある程度の年齢になると部屋は男女別になりそれが常識だと思っていた。
だが知識がない故に改めて考えると何故ダメなのか上手く説明が出来ずに言葉に詰まる。
「フゥディエは我と眠るのが嫌になったのか?」
「そうじゃないけど、折角宿屋なんだからアクスだってベッドで一人でゆっくり寝たいでしょ?」
「我よりもそのベッドの方が心地良いと言うのか! 我の毛皮よりそのベッドの方が柔らかいというのか!? ちゃんと水浴びもしてるし、そなたにいつ撫で撫でされても良いように全身舐めてピカピカにしているのだぞ、それをこんなどこの誰が寝たかもしれないベッドなんかに負けたというのか、我は、我はフゥディエ専用なのに……」
興奮した様子で一頻り嘆くと、ガックリと肩を落としてしまった。
「あの、でもアクスの正体は三頭犬じゃないんでしょ? 人型の方がアクスだって楽だろうし」
「そうか、本物か。我の術が未熟で紛い物だからダメなのだな。ならば我は本物を極めるぞ。フゥディエの犬に我はなる!」
いじけた状態から何やら奮起したアクスはお馴染みの三頭犬へと伏せの状態で変化した。
と、同時に部屋の扉からノックの音が鳴り始める。
「ちょ、アクス。誰か来たから元に戻って」
小声で訴えるも戻る気はないようで伏せをしたまま微動だにしない。
尚も鳴り止まぬノックに焦り、フードを被るのも忘れて部屋の中が見えぬよう細心の注意を払い扉を最小限だけ開けた。
ノックの主は先ほどの宿屋の青年だ。
「あ、あ、あ、あの、これ!こ、こ、こ、こ、これっ!」
激しい吃りと共に差し出されたのは大きな桶。中にはお湯のようで温かな湯気が出ている。
「きょ、今日はも、もう大衆浴場も、り、りん、臨時休業だから、店からのサービスです。み、身を清めるのに、どうぞっ!」
フゥディエが何か返す間も無く、桶をその場におくと走り去ってしまった青年。
とても部屋やベッドの要望を言える隙がなかった。
その異様な様子に自分がフードを被っていなかった事に気付き申し訳なさが込み上げる。
どうやら随分と怯えさせてしまったらしい。
気落ちしつつ桶を部屋に入れるとアクスが前足と蛇の尾でずりずりと中央まで運んでくれた。
さっそくセットで付けてくれている手拭いをお湯に浸してアクスを拭いていく。
先ほど本人も言っていた通り毛艶もよく綺麗なものだ。
三つも顔があるのは少し大変で人型なら簡単なのにとチラリと考えたが、人型のアクスを拭く己の姿を想像してないなと考えを打ち消す。
アクスはフゥディエの湯拭きが余程気持ち良いのか、腹を見せた体勢で三頭ともダラリと締まりなく舌を垂らしていた。
アクスが終わると次に考えるのは自分のことだ。
密室で異性と二人きりの状況で服を脱ぐというのは大いに抵抗がある。
しかし今のアクスは三頭犬の姿であまり異性という感じではない。
それに野宿の際はアクスの近くで身を清めていたのだ、部屋だからとはいえ今更な気もする。
何と言ってもホカホカのお湯というものはサバイバル続きの中ではとても贅沢な代物だ。
刻一刻と冷めていくお湯の誘惑にフゥディエは抗いきれずに服に手をかけた。
ワンピースの裾を持ち上げ、ふと六つの目がこちらを捉えていることに気付き後ろを向くように頼む。
紳士然とした様子で三頭ともきっちりとフゥディエに後頭部を見せた。
川や泉で身を清める際もこうして良い子で待っていてくれるのだ。
ただ、蛇の尾の存在をフゥディエは忘れていた。
紳士な三頭の代わりに蛇の尾は彼女に危険が起こらないかをしっかりと常に見張っていた。
結局部屋替えもベッドの分散も断固反対のアクスの要望を飲み、三頭犬姿でダブルベッドをデンと占領してしまったアクスに通常通り包まれて眠ることになったのだ。
*****
嵐吹き荒れるこの日、宿屋の一人息子ランディは恋に落ちた。
相手はふいに現れた旅装束を纏った一人の女性客。
今までだって肉屋の人妻エミリーさんや花屋の看板娘トレーシーに仄かな恋心を抱くことはあったが、それはとても小さくふわふわと掴み所のない可愛らしいものだった。
しかし今回の恋はそれらとは全く異なりランディの心を握り潰してペースト状にしてしまうような強烈で激しいものだ。
こんな山間部の田舎町ではまず居ないだろう美貌の少女。
精巧に作られたビスクドールのように完璧なパーツと配置の顔立ち。
肌も透き通るように白く、赤く色付く唇が妖艶なのに桃色の頬は幼さを感じさせる。
そんなアンバランスさがなんとも言えぬ魅力を醸し出している。
しかし最大の魅力といえば、あの古臭いフードから覗く警戒心たっぷりの黒い瞳と、桶を持って行った時に見たさらりと流れる黒髪だろう。
あんなに不吉で心惹きつけられるものを今まで見たことはない。
一時期町の友人達の間でひっそりと黒のインクを染み込ませたミサンガを身に付けるのがブームになっていたことがある。
不吉を身に付ける恐怖と罪悪感に友人は興奮していたが、案の定すぐに親に見つかり叱られていた。
当時はあんな汚い色の何がそんなに良いのかいまいち理解出来なかったが、今なら気持ちが分かる。
黒は綺麗で蠱惑的だ。
それが美少女とセットになればもう犯罪的なほどの魅力だと思う。
あの子が自分の隣に居てくれれば、どんなに心が満たされるだろうかと妄想に浸ってうっとりする。
しかし残念なことにあの少女には連れがいた。
こちらも町ではまず見ないスマートで綺麗な男だ。
並べばまるで対の人形のようにお似合いの二人。
十把一絡げの自分では到底太刀打ち出来そうにない。
はぁぁぁ……。
母親に言い付けられた玄関の掃除の合間に、箒に寄りかかり長い溜息を吐き出す。
それと同時に玄関の扉に取り付けているベルが来訪者を知らせる。
「邪魔するぞ」
「あ、ダンさん。らっしゃい」
顔馴染みの登場にもランディの心は晴れることなく再度溜息を吐き出した。
「どうしたランディ。珍しく悩みか」
「そうなんだよ。実は俺さ、その、あの……」
目の前の顔馴染みは、歳が五つほど離れており性格も兄貴肌なのでいつもあらゆる相談をさせて貰っている。
「おやダンさんじゃないか」
流石に恋の相談というものは照れ臭くもたついてる内に母親がベルを聴きつけやって来てしまった。
「どうしたんだいこの嵐に。昨日降りて来たばかりじゃなかったかい?」
「いや実は家の雨漏りが酷くてな。この嵐で屋根の一部も飛んでっちまって。仕方ないから今日は宿に泊まらせて貰おうかと。部屋空いてるか?」
「まぁあのボロ小屋じゃあね。そういうことならお客じゃなくて避難してきたご近所さんとして泊まってきな。ダンさんから金は取れないからね」
「いや、それではあまりにも悪い」
「いいってことよ。気になるなら、ちょっくら朝の仕込みでも手伝ってくれたら助かるよ」
「ではすまないがそうさせて貰おう」
このダンというのは不思議な男だ。
戦争が終わった数年前にふらりと町に現れたのだ。
聞くと近くの山で小屋を建てて一人で住んでいるのだとか。
素性も分からぬ怪しい男に狭い町の人間は最初大きな警戒心を持っていたが、ダンの陽気で面倒見の良い性格に段々と打ち解けるようになっていった。
明らかに訳ありのダンだが猟師として生計を立てており、今では立派な町の住人の一人として受け入れられている。
社交的で親切なダンに誰もが好感を持つ。
そうなると皆口々に町に住むことを提案した。
だが誰の勧めにも言葉を濁し、何故か彼は絶対に町に住もうとはしない。
頑なに不便な山の中のボロ小屋で生活している。
ランディにはその理由がなんとなく察せられた。
ダンはきっとこの町にずっと居つく気はないのだ。
その証拠にたまに旅に出ると言ってふらりと数週間姿を見せないなんてこともある。
旅の目的は特にないらしい。
ただなんとなく気が向いた時に出かけるのだと前に本人が語っていた。
時々港町の海産物だったり都会で流行っている本などを土産にくれたりするので、場所の取り留めもないのが分かる。
まるで手に届かない何かを捜し求めているみたいだ。
ダンはいつか旅に出たきり帰って来ない気がしてならない。
だからこそ、彼が居る内にこの胸の内に起こった摩訶不思議な現象を相談したかったのに。
他の誰でもダメだ。
ダンなら、ダンならきっとこの恋について真剣に考えてくれるに違いない。
しかし彼は母親に連れられてさっさと行ってしまった。
客室のある二階の階段を見上げ、ランディはもう一つ大きな溜息を吐いたのだった。




