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「……なんだ、その姿は」
唖然としたまま、恐る恐る目の前で揺れるフゥディエの黒い尻尾に触れるヴァル。
「本物か?」
「んっ」
指で撫でられる感覚に大きく反応し思わず声が出る。
「……面白い」
驚愕の表情が徐々に底意地の悪そうな笑みへと変わる。
玩具を弄る子供のように無邪気に尻尾を握っては放しを繰り返し始めた。
鬱陶しいヴァルの行動にフゥディエは眉を顰める。
「んんっ、それ、イヤ……」
「自分の意志で動かせるのか」
ヴァルの手から逃れようとうごめく尻尾を掴み実に楽しそうに笑う。
「早くちょーだい」
いつまで経っても自分の求めるモノを与えず悪ふざけをするヴァルに対して苛立たしげに要求すると、動きがピタリと止んだ。
「っ、は、ははは……くはははは!」
突然ヴァルが爆笑し始めた。
可笑しくて堪らないといった笑いにフゥディエは苛立たしげに睨みつける。
「まさか本物の化物とはなぁ。化物を受け入れる人間などまず居まい。つまり俺の元以外に逃げ場はどこにもないということだ。実に愉快!」
何が面白いのか、いかにも悪役といった感じの高笑いが広い室内にいつまでも響く。
この状況で爆笑する姿は常軌を逸していたが、フゥディエは少しも動じることなく不満げに唇を尖らす。
「ねぇまだ?」
「っは、そう焦るな。すぐにイヤというほどくれてやる」
尻尾へとそっと唇を寄せる。
そしてそのままパクリと口に含んでしまったではないか。
舌の柔らかい感触が尻尾を辿る。
尻尾の先端をジュルリと激しく吸われると、身体の内にぞわぞわとした感覚が湧き上がる。
「んん、早く」
「ヴァルだ……ヴァルと呼べ」
「ヴァルちょーだい?」
「っ、ああ」
もどかしさに堪らず催促をすれば名を呼ぶ事を要求してきた。
正直目の前の男の名など心底どうでも良かったが、抵抗したところで長引くだけだと判断して呼んでやれば切羽詰まった声を漏らす。
「好きと…愛してると……言え」
一体それを言うことになんの意味があるのかは分からなかったが、取り敢えず従う。
「ヴァル好き愛してる」
かなり無感情に吐き出した台詞だが、ヴァルの身体は大きな衝撃を受けたように大きく揺れた。
そしてぎゅっとキツく抱き締められる。
ようやくかと思ったが、ヴァルは蕩けそうな心底幸せを読みとれる笑みでフゥディエの黒髪を優しく撫で始めた。
「もっと、もっとだ」
「ヴァル好きヴァル愛してる」
もっともっとと幼子のようにせがむヴァルに対してうんざりしつつも言葉を紡ぐ。
しかしどうしたことか胸に靄がかかった。
「ああ、私もだ。私も愛している。もっともっと聞かせてくれ」
「……ヴァル好き愛してる」
———絶対、あり得ない。
紡ぐ度に気分が悪くなる。
心の奥底で悲鳴が聴こえる気がした。
「誓え、私の妃になると」
どうでもいい。
とにかく腹が空いているのだから早くしてくれ。
でないと何かに気付いてしまいそう。
フゥディエが答えとしておざなりに頷くと、ヴァルの顔はいよいよ溶けそうなほど喜びに満ちた。
「屋敷を、用意した。寝室となる最奥の部屋は特に豪華で堅牢無比な造りだ。そこでそなたに一生を送らせよう。二度と他の男の目には晒さぬようにな」
「それはイヤ」
これからの結婚生活を語る新郎のように幸せそうな笑顔だったが、フゥディエのスッパリとした拒絶に表情が一気に凍りつく。
「毎日同じものばかりでは飽きてしまうじゃない。私はお腹が減ってるんだよ」
苛立ちと違和感に耐えられずに鬱陶しく張り付くヴァルの身体を引き離し少し距離を取る。
心底うんざりしたため息を漏らす。
「やっぱりもういらない。気分が悪いの。他のヒトに貰うことにするから」
散々焦らすだけ焦らして一種類で我慢しろと制約を掛けてくるヴァルなど必要ない。
見切りをつけたフゥディエはこの場をさっさと立ち去るべく、やたらと巨大なベッドから降りようとした。
しかし当然それをヴァルが許すはずもない。
「最初からわかっていた。やはりお前はどうしようもなく淫らな女だ」
淫らという言葉を知識として知らないフゥディエは反応を返さず、掴まれた腕に掛かる力の強さに眉を顰める。
「常に閉じ込め見張っておかなければ、すぐに他の男を惑わそうとする」
先程の上機嫌はどこへやら、嫉妬の禍々しい炎を瞳に宿しフゥディエへと襲いかかった。
「ふわふわと飛んでいってしまう前に縫い付けてやる」
ヴァルの大きな手がフゥディエのあらゆる場所を蹂躙する。
腹が満たされるのかという期待と共に違和感———いや、嫌悪感もぐんぐん大きくなる。
本当にこのままでいいのだろうか。
確かに腹は空いているが、何か重要なことが抜けている。
焦る気持ちの中で、ふとある物を目の端に捉えた。
それはフゥディエが先程まで着ていた下働きの制服。ヴァルが無造作に放ったその服のポケットから零れ落ちたのであろう、ブレスレットの黒い石に目を奪われる。
(あれは……あ、なに? え、わたし、私は…なにを…)
混乱の中に弾けるように鮮明に浮かんだのは、三つの頭を持つ愛すべき犬だった。
(アクス……アクス、なんで、忘れてたんだろう)
空腹を満たす欲に支配され、守るべき存在も忘れ人格さえも変わっていた。
しかもよりにもよってヴァルなどを相手に欲望を満たすために心にもない言葉を紡いでしまった。
「フゥディエ、お前はもう私のモノだ」
「ひっ」
自分の意思とあまりにもかけ離れた発言の記憶と、今のヴァルの怒りに支配された強引さに恐怖が蘇る。
それと同時に立派に生え揃っていた角や尻尾、背中の羽根が徐々に小さくなる。
「い、いや……いやっ!」
「今更普通の人間に擬態しようがもう遅い」
完全に元の姿に戻ったそれに、大した反応もなく冷たく言い捨てる。
「羽根を捥いでやろうかと思ったが、そうだな。最も有効的な方法はやはり……」
這い回るヴァルの手が最終的に行き着いたのは、上手く動かない相棒をいつも支えてくれる右脚だった。
懐から取り出した立派な装飾の施された小刀の刃が脚首へと向かう。
「ひっ!」
脚首に当てられた刃の冷たさに悲鳴が漏れる。
「片脚を奪ったところで変わらずちょこまかと動き回るお前のなんと憎らしい事か」
すっと脚を撫でられ鳥肌が立つ。
「浮気は許す者が悪い。初めからこちらの脚も奪ってしまえば良かったのだな。すまないフゥディエ。私の愛情表現が乏しいばかりに寂しい思いをさせていたのだな」
ヴァルの言葉の半分も意味を理解出来ないが、今からしようとしていることは嫌でも分かり全身の血の気が引く。
「少し痛みを伴うが我慢しろ」
グッと刃に力が入るのを感じ、フゥディエは目を固く瞑った。




