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今日も牢へ食事を運ぶべく食堂へやって来た。
先日パウンドケーキをトレーから除くのを忘れていたことを思い出したのか、運の悪いことにメインディッシュであるステーキが抜かれている。
フゥディエの反応を愉しみにしているのが丸わかりな意地の悪いニヤけ面を下げる食堂の中年男から、無表情無言でトレーを受け取る。
何度かの抗議でどんなに言っても抜かれている一品がトレーに戻されることがないのは学習済みだ。
寧ろ「ならば食うな」と全て取り上げられる可能性が非常に高い。
だったらわざわざ反応して愉しませてやる必要もないので、なんのリアクションもしない。
興ざめとばかりに舌打ちする男を無視して目立たない一番隅の席を目指す。
普通の人間の十倍の時間をかけてようやく辿り着いた席に座りトレーを置き、先ずは一息ついて若干冷めているスープを口に運ぶ。
“ああ、このキノコスープ美味しい、あの子達にも食べさせてあげたい”
しかし汁物を運ぶのは難しいので断念し、大人しくちびちびと自分の胃袋に収める。
大分食堂に人が少なくなってきたのを見計らいパンに目をやる。
城勤めは体力勝負なので食事の量も多く、今日は大きめのコッペパンが三つ付いている。
その中の一つを真ん中から割きあいだにマッシュポテトを挟んだ。
残りの二つも今日のオカズを詰めてコッソリ鞄に隠してあるバスケットに入れればミッションコンプリートだ。
二つ目の作成にとにかかろうとした時、食堂が静まり返っていることに気付いた。
いくら人が少なくなったからと言えど、これはあり得ない。
顔を上げこの異変の原因を探ろうとした時にはもう遅かった。
かっちりとした軍服を颯爽と着こなす男が迷いのない足取りでこちらへやって来ていた。
本来一般の食堂を利用するような身分ではない筈なのだが、この男はよくここへ顔を出す。
そうして決まってフゥディエの前で足を止めるのだ。
「随分と下品な食べ方だ。流石は化物。マナーも知らぬのか」
作成したマッシュポテトパンに目をやり冷たく言い放つ男。
冷え冷えとした声に血の気が引く。
この場の全員が緊張しこちらへ注目しているのがピンと張った空気から分かる。
震えそうになる身体を抑え立ち上がり、深々と頭を垂れた。
「ヴァル様、大変お見苦しい物をお見せしました。直ぐに下げますので」
彼等の食事をなるべく早く安全な場所へ退避させようとするが、それより先にヴァルの手が伸びた。
「その必要はない」
トレーがテーブルの上から払われる。
――――ガシャン
「これで片付いた」
無惨に床に散らばる食事。
更に見せつけるようにその上を靴で踏みつけられる。
ヴァルの冷めた視線に周囲の声を潜めた笑い声。
溢れそうになる何かを胸の中に留め、下を向いて恐怖が過ぎ去るのをひたすら待つ。
やはり嫌がらせには反応をしないのが一番。
「つまらぬ」
例に漏れずヴァルも反応を示さないフゥディエに痺れを切らしたようで、不愉快そうに鼻を鳴らすとさっさと立ち去った。
“はぁ、助かった………”
通り過ぎた大きな嵐に密かに安堵を漏らす。
ヴァルは去ったが未だにフゥディエを注視する人間が多く、治らぬ恐怖で震えそうになる身体を必死に抑え床の片付けに取り掛かる。
“今日は美味しいご飯をあの子達に食べさせてあげられなくなっちゃった”
見るも無惨なその様子に胸が痛くなった。
大まかに散らばる食べ物を回収し、拭く物を借りに向かう。
「おらよ化物のお嬢ちゃん!」
先程の中年男に顔面に雑巾を投げつけられると、ヴァルが去って緊張が解かれた周囲からドッと笑いが起こった。
あまりの惨めさにフゥディエは消えたくなったが、それでも彼女は黙って床を拭く。
ここを出ても行くところがないからだ。
ヴァルはこの国の王弟であり現在の騎士団長を務める、あまりに高すぎる地位の男である。
フゥディエはそのヴァルに蛇蝎の如く嫌われている。
彼に嫌われるということは、この城に自分の居場所はないというのと同義だ。
いや、下手するとこの国のどこにもないのかもしれない。
だから嫌がらせや陰口はあるものの、未だにこの城で働けているのは奇跡に近い。
そもそも本来は近付くことさえ出来ない立場で、嫌われようがないのだが。
******
城勤めを始めた当初なんの因果かフゥディエはヴァルの部屋の清掃を任されていた。
王族に関連する業務を行うのは自身も貴族で行儀見習いとして城へ上がっている執事や侍女といった者が殆どである。
それを何故ただの下働きが行えるのか。
しかもよりによって孤児であり更には不気味な黒を持つフゥディエなのかとその妬みは凄まじいものであった。
一人針の筵で味方の居ない日々は孤独で辛い。
それでも帰る場所のない彼女は前を進むしかなかった。
幼少時代を思えば、命の危険を感じないだけ易しい。
大量の仕事を押し付けられるとか、ミスを擦りつけられるとか、転ばされるとか、水を掛けられるとか、陰口を言われるとか、精々そんなものだ。
そのようなことは嫌われ者のフゥディエにとっては慣れっこである。
そして周囲の嫌がらせにも上手に対応することが出来るようになった頃、とうとうフゥディエはヴァルに出会した。
彼のベッドのシーツを取り替えている時に鉢合わせしてしまったのだ。
下働きは基本王族や城に出入りする貴族達の前に姿を現してはいけない。
フゥディエが任されている部屋の清掃だって本来はきちんと教育を受けた侍女の仕事である。
いつものように予め聞いていたヴァルの予定に合わせ部屋が空いている時に仕事を済ませようとしていたのだが、ふと背後に気配を感じ振り返るとヴァルがそこに居た。
女性が見惚れるような端正な顔立ちに王族然とした気品。
短めのブロンドの髪と切れ長のブルーの目がとても美しい。
今まで見てきた誰よりも圧倒的なオーラを纏っており、すぐにこの部屋の持ち主である王弟だと気付いた。
噂によると彼の剣の腕は凄いらしい。
騎士団長の地位は王弟という身分故だというありがちな陰口も、彼の剣技を一目見れば押し黙る他ないとか。
今では誰もがヴァルが実力で騎士団長の地位を掴み取ったのだと認識している。
性格も生真面目で下の者にも厳しいが、それ以上に自分にとても厳しくストイックだという。
そんな王弟が感情の読めない表情で目の前に居る。
シーツを交換しようと彼のベッドの前で佇むフゥディエを無言で見下ろしていた。
これは同僚らの嫌がらせだと瞬時に理解した。
ヴァルも不気味な下働きなんかが自分の寝床を整えていたなど、知りたくはなかっただろう。
この不快な姿を晒してしまった自分はこれから一体どうなるのか。
減俸? 鞭打ち? まさか、クビ?
フゥディエは震え上がり身を小さくして平伏した。
「も、申し訳ありません!」
フゥディエは更に失態を重ねたことに気づく。
王族より先に声を発してしまったのだ。
これがどんなに礼を欠いたことなのかは知っていたが、口から出た声を消すことは出来ない。
これから降ってくるであろう厳罰に怯え、頭を下げたままヴァルの反応を待った。
「いい、仕事を続けろ」
そんな声に思わず勢いよく顔を上げる。
未だフゥディエを見下ろすヴァルだが、別段怒っている様子は見られない。
「少し休みたい。早急に頼む」
その言葉に慌ててシーツ交換を再開させた。
彼のベッドは見たことがないほど大きいので、シーツを替えるのも一苦労。
王族を長く待たせることなど出来るわけもなく、右に左にせかせかとまだ元気な脚を懸命に使い手早く仕事をこなす。
「大変お待たせ致しま———っ!?」
ようやくシーツをピンと張ることに成功したフゥディエはヴァルの居るだろう方向を振り返り、悲鳴を上げそうになった。
ヴァルはいつの間にか至近距離まで近付いて来ており、こちらに手を伸ばしていたのだ。
思わず後退りし、ベッドに躓きその上に尻餅をついてしまう。
見上げると、影が掛かり表情の見えないヴァルの手が更に伸びている。
王族のベッドに腰を下ろしてしまった失態よりも、得体の知れないヴァルの不気味さへの怯えが強くフゥディエを支配する。
「あ、あ、あの、何か……」
不気味な手がこちらに到達する前に有りっ丈の勇気を振り絞り声をかけた。
その甲斐あり、彼の手はピクリと停止する。
「……いや、すまない。珍しい色だったのでつい気になった」
先程まで影に隠れて見えなかったヴァルの顔はどこか気まずそうだ。
不気味さが撒布したことに驚きながらも、自分の黒を指摘されて青ざめる。
「もし私の髪と目に、ご不快な思いをされたのでしたら申し訳ございません」
普段ならば短めのショートにした髪をすっぽり隠すように頭に三角巾を被せ伏し目がちにしているのだが、誰も居ないこの時間は油断して頭に何も被せていなかった。
「不吉な色だが、不快ではない」
止まっていた手が再び始動され、フゥディエの頬にかかる髪にするりと触れた。
今度は不気味さは感じないものの、その驚愕の行為に固まる。
まさか自分の髪に触れる者がいるなんて、しかも相手は雲の上の存在である王族だ。驚かずにはいられない。
上から下へと感触を確かめるように動くヴァルの手は、最後に頬を掠めようやく離れる。
「立てるか?」
未だベッドから動かないフゥディエに、何事もなかったかのように言葉をかけるヴァル。
その声に意識を取り戻した彼女は、上質なベッドの上で小さく身体を跳ねさせ急いで立ち上がる。
「失礼致しました! 」
きっちり90度に腰を曲げたフゥディエ。
くすりと小さな笑い声が耳に届いた。
「よい、この頃以前にも増して部屋が綺麗で助かっている」
恐る恐る覗いたヴァルの表情は穏やかであった。
今日一番の驚愕がフゥディエの身体を貫く。
城に上ってから、いや、幼い頃の一時以外でそのように優しい表情を向けられたことなどなかったからだ。
黒い髪に触れ、黒い瞳に向かい優しい言葉をかけるこの方はなんと稀有だろうか。
つい今し方感じた恐怖も忘れ夢見心地でヴァルを見つめたが“早急に”と言付かっていたことを思い出し何度も頭を下げながら慌てて退出した。
部屋から出た後も、まだ頭がぼんやりしていた。
その日一日フゥディエは幸せな気持ちで過ごす。
立場があまりに違い過ぎるので他の城勤めの女性達のように恋心などという大それたものこそ抱くことはなかったが、今の一瞬の対面で確かにヴァルを尊敬し少女らしい憧れを持った。
しかしまさかそのヴァルに心底嫌われ、そして—————自慢の脚を奪われることになるなど、この時のフゥディエは思いもしなかった。