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……もしかしてこれはキスというものではなかろうか。
そんな疑問が頭を掠める。
いや、キスとは愛しい人とする愛の確認行為だった筈だ。
色恋にはとんと疎いフゥディエなのであまり知識はないのだが、キスのことはミーナがショーン自慢をする中に含まれていた。
確か甘酸っぱくどこか切ないとのことだ。
それを聞いたフゥディエは首を傾げた。
キスが甘いのはなんとなく理解出来る。
直前に何か甘いものを食べていたからだろう。
ただ酸っぱいとはどういうことか。
ショーンは酸っぱいものが大の苦手で酸っぱいものを食べるくらいならば死んだ方がマシだと豪語するほどだ。
そういえばショーンは幼少時代は歯磨きが嫌いだったことを思い出す。
大人になった今でもそうなのだとすれば、ショーンのキスが酸っぱいのはつまり、そういうことなのだろう。発酵的な何かに違いない。
そんなショーンとのキスを嬉しそうに語るミーナを見て、彼女のショーンへの愛は本物だと感心したものだ。
万が一にもあり得ないが、フゥディエにはショーンとのキスは無理そうだ。
その時は自分には関係のないことだと思ったが、まさか今ここでしかもヴァルとキスを体験するとは思わなかった。
ミーナの言っていたものとは随分と違う。
甘くもないし酸っぱくもない。
胸が締め付けられたりもしなければ、うっとりと脳が蕩けそうにもならない。
共通しているのは心臓が爆発しそうなほど煩く鳴るところくらい。
もちろんフゥディエのは恐怖によるものだ。
何故自分はヴァルとキスをしているのか?
心臓のみならず頭も爆発しそうなほど混乱する。
ヴァルの舌らしきものがフゥディエの口内を好き勝手に暴れ回る。
歯列をゆったりとなぞり内頬の感触を楽しみ、蛇のように舌に絡みつくヴァル。
死ぬほどねちっこいそれだが、その柔らかさと温かさに驚かされる。
普段は温かみなど一切感じないヴァルの熱すぎる温度は混乱を更に広げる。
そもそもこれは本当にキスなのか。
フゥディエ相手のキスなどヴァルだって絶対の絶対に嫌なはずだろうし、キスとは唇と唇を合わせるものでこのように激しく舌を絡めるなんて聞いた事はない。
全身の毛が逆立つようなゾワゾワとした寒気が走り、ただただ不快である。
気持ち悪い。
今すぐに抜け出して口内を水でゆすぎたい。
だというのに、乗り上げられたフゥディエは身体の力が少しも入らずヴァルの好きなようにされるがままだ。
ようやく口内が解放される頃には身体から骨が抜けたようにくたりと地面に凭れた。
ヴァルの柔らかな唇が最後に名残惜しげにフゥディエにチュッと吸い付き、どちらのとも分からぬ銀の糸が伸びて途中で断ちきえる様子は死ぬ程恥ずかしく消えてしまいたくなった。
ようやく不快感と息苦しさとワケの分からない感覚から解放され、酸欠の為ボンヤリとした頭で目の前のヴァルを見つめる。
フゥディエは間違いなくヴァルから死ぬ程嫌われていた。
フゥディエの方だって勿論ヴァルのことは死ぬ程嫌いだ。
キスも死ぬ程気持ち悪かった。
だからお互いの今の感情は一致しなくてはおかしい。
フゥディエの今の気分は史上最悪だ。
なのに、この男ときたら、何故こんなにも恍惚に笑っているのか。
考えていることが全く理解出来ない。
行動の予測も立たなければ回避もままならない。
不気味過ぎる生物を前にフゥディエの頬に恐怖の涙が一筋落ちる。
「フゥディエ、よく聞け。お前を生かすも殺すも私次第。大人しく私のモノになるならば、ドレスに屋敷に宝飾品、世の女全てが羨むような贅を与えてやる」
また訳の分からないことを言い始めた。
ヴァルの言葉全てが恐怖に他ならない。
「抵抗するならば無理にでも手に入れる。お前の大好きな暗い地下牢の中、私以外の誰とも接触させない。そこで私の子を何人も孕み産むだけの人生を送れ」
うっとりと語るヴァルの話など最早聞いも意味がない。
今考えるべきことはどうやってこの場を逃げ切るかだ。
ヴァルに地面に抑えつけられている今の状況では逃亡は不可能に近いが、それでも何か希望はないかと頭を巡らせる。
「寒い地下牢は嫌だろ? 私とて毎夜地下牢に通うのは避けたい。まぁ夜明けまで二人ずっと温め合うというのも悪くはないが」
どうすればヴァルの油断を突けるだろう。
焦る気持ちを無理に落ち着かせようとするが、呪詛のような言葉が耳を汚して集中出来ない。
「まともな人間の生活を送りたくば、今すぐ此処で私を受け入れろ」
ドロリと熱い視線がフゥディエを捕らえる。
「ヒッ!?」
ヴァルの顔が再び迫ったかと思えば今度は首筋を舌が這った。
ヌメッとした熱い感触に全身の鳥肌が立ち上がる。
あまりの不快さに身をくねらせるが、手首を押さえつけられ先程よりもずっと抜け出せそうにないほど頑丈だ。
首筋を舐められ、たまにキツく吸われる。
そのうちにヴァルの手はフゥディエの下働きの制服の胸ボタンを外しにかかった。
「ヴァル様!? お、お止め下さい!!」
脱がせて一体どうするつもりだ。
もしや全裸にして大衆の面前で晒されるのだろうか。
ヴァルならそれくらいの嫌がらせは呼吸をするように簡単にやるだろうと緊張にごくりと喉を鳴らす。
残念ながらフゥディエには、性の知識というのが幼児程度にしか備わっていない。
未だに赤ん坊は神の采配により妻となった女の腹に自然と宿るものだと信じている。
孤児院出身ならばその辺りの知識は逆に豊富になりそうなものだが、院長はそれを許さず徹底した貞操観念を植え付けどんな性の情報もシャットアウトするという間違っているだろう教育を施した。
しかしどんなに大人が耳を塞ごうとしても子供たちは何処からか性知識を持ち帰るものだ。
しかしフゥディエには友達が一人もいない。
そういった知識も幸いなのか残念ながらなのか彼女までは回ってこなかった。
その為16にもなって、子作りの存在すら知らないでいるという奇妙な娘が出来上がっていた。
知識はないが、裸を異性に見せることには大きな羞恥を掻き立てられる。
そんな行為の強制に焦りながら、目の前にあるヴァルの頭を退かそうと押す。
すると夢中で首筋を舐めていたヴァルがのそりと顔を上げた。
その表情は不機嫌そうなのに瞳だけは熱に浮かされたように熱く獰猛だ。
「抵抗するな」
「痛っ!!」
突如、首筋に歯をたてられた。
あまりの激痛に身体を仰け反ろうとするがビクともしない。
(も、も、もしかして、喰い殺される……?)
猛獣が餌に喰らいつくような行為に震えが止まらない。
そのまま首を噛みちぎるつもりなのかもしれない。
どんどん強くなる痛みにその考えが当たっているような気がしてならない。
普段ならば突拍子もない考えだと判断出来るが、今のヴァルだったら本当に人間も食べそうなほど凶暴でイカれている。
(せっかく、せっかくアクスと逃げられる筈だったのに……一時でもアクスと共に自由が手に入るかもしれなかったのに)
ヴァルに良いようにされてこんなつまらない死に方を迎える自分が悔しくてならず、涙がボロボロと溢れる。
(第一、私がここで死んだらアクスはどうなるの? 一生牢に閉じ込められたままなの? 痛い思いをしたり寒い思いをしたりひもじい思いをしたりするの? そんなの…そんなのダメ……)
強烈な痛みの中で、自分が居なくなってからのアクスへの不安が過ぎる。
地上に釣られた魚が水を求めるように詰まる胸に呼吸を送ろうと口を開いたり閉じたりする。
そして緊張で張り付いた喉から絞り出すように声を上げた。
「や……い、やだ………こんな、ところでっ」
どうにか飛び出した声はそれだけ。
しかし止まぬ衝動に心の中で絶叫した。
(こんなところで死にたくないっ! あの子を置いて死にたくないっ!)
止めどなく流れる涙。
アクスを残さなければならない己の不甲斐なさに悔しさや怒りで泣けてくるのだ。
「泣くな」
ふと、首筋から痛みが引いたのが分かった。
不思議に思いヴァルを見上げると、柔らかい笑みを浮かべフゥディエの涙を指でそっと拭ってきた。
溢れんばかりの優しい仕草。
殺される瀬戸際でのこの不可解な行動は逆にかなり怖い。
恐慌状態だったフゥディエの全ての機能は一時停止した。
「私も少し気にはなっていたが、そなたは女だ。初めてが地面でというのはいくらそなたでも酷というものだろう」
「え……わっ!?」
突然地面から起き上がったかと思えば、唖然としたままのフゥディエをヒョイと持ち上げる。
そのまま闇の中を出発し始めたヴァル。
暫くは固まっていたフゥディエだが、途中で逃げ出さなければと気付く。
しかし暴れようにもヴァルの腕にガッチリとホールドされて動けない。
物心ついてから誰かに抱えられての移動というのは初めて。しかもヴァルの足取りはかなり急いている様子で、次々と景色が流れる。
健脚を失ってから走ることのなかったフゥディエには刺激の強いスピードであり、本能的に振り落とされるのを恐れてしまい全力で暴れることが出来なかった。
移動中、誰にもすれ違う事はなかった。
人を避ける為にテルーニ前夜である今日を逃亡日に決めたのだし、深夜に森へ潜っていたのだから当然といえば当然だ。
「ここなら文句あるまい」
そう言って開けたのは懐かしい豪華な扉。
「そうやっていつも素直でいれば私とて少しは優しくしてやれるものを」
えらく機嫌の良さそうなヴァルは己の自室へと足を進めた。




