13
シェイルと顔を合わせたのはあの時以来だ。
思い出したくない記憶の断片を拾い集め一つ一つを繋ぎ合わせると、シェイルがヴァルの甥であり王太子殿下だという事実が浮かび上がる。
足の怪我が少しずつ回復していく中でそれに思い至った時、自分の仕出かしたことに今更ながら恐くなった。
王太子に掃除を手伝わせたり、気軽に笑いあったりと知らなかったとはいえ信じられないことばかりしてしまった。
極め付けに彼を欺き怪我を負わせたのだ。
右脚だけで済んで幸運だったと今なら言える。
「僕はあの時の事をまだ謝っていない」
「王太子殿下が謝罪なさることなど何もございません。私の方こそ数々の不敬をお詫び申し上げます」
頭を下げたまま決してシェイルを見ようとはしないフゥディエには、今の彼がどんな表情をしているのか分からない。
「……顔を上げてくれないか。フゥディエの顔を見てきちんと謝りたい。そして、あの頃のように、もう一度君と過ごしたいんだ」
「あの時の私は王太子殿下を謀った罪人です。当然の罰を受けただけであり、王太子殿下がお気になさる必要は全くございません。それでもお慈悲を頂けるというのであれば———」
シェイルとの楽しかった一時が思い起こされ声が震える。
「どうか、どうかこの醜い私のことを王太子殿下のお記憶から消去なさってくださいませ」
「フゥディエ……」
シェイルはフゥディエの名を苦しそうに呟いたきりじっとしていたようだが、しばらくするとザリザリと随分と重そうな足音を鳴らして立ち去った。
フゥディエはずっと地面に向けていた頭を、シェイルの足音が聴こえなくなって大分経過してからようやく上げた。
当たり前だが既にシェイルはそこにはおらず、日暮れの暗闇が広がっているだけだ。
じわりと胸に切ない痛みが走る。
元々王太子に声をかけられる身分ではないのは当然として、シェイルを偽り自分の欲を通そうとしたあの時からフゥディエに彼と接点を持つ資格など消滅した。
だから今現在感じている胸の痛みさえも本来ならば烏滸がましいことであるが、感情というものはコントロール出来るものではない。
痛む胸に手をやり静かに目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのはシェイルとの楽しかったやり取りと、脚を斬られたあの日のこと。
そして最後に見えるモノはー——
「……よし、行こう」
ゆっくりと瞼を上げて前を見る。
失ったものもあるが、今のフゥディエにも得たものだってある。
三頭犬を胸の中に懐き、フゥディエには力強く一歩を踏み出した。
シェイルとのやり取りに意外と時間を使っていたらしく、日中は使用人で賑やかな廊下も今は静まり返っている。
そろそろ三頭犬もお腹を空かせる頃だろうと少しスピードを上げる。
薄暗い廊下をひたすら進んでいくと、ようやく地下牢へと続く階段が見えてきた。
ケーキの箱を持ち直し、彼らの喜ぶ姿を思い浮かべ緩む口元を引き締め更に懸命に進む。
あまりに急ぎ過ぎた為だろう。
背後に迫る影に全く気付かなかった。
「……シェイルとの密会は楽しかったか? この淫乱が」
唐突に聴こえてきた言葉に思わず肩が跳ねる。
聞き憶えのあるその声に恐る恐る振り返ると、そこには予想通りの人物がこちらを鋭い眼光で睨みつけていた。
「っ……ヴァル様っ」
飛び出しそうになった悲鳴を飲み込み、慌てて頭を低く下げる。
「休暇は満喫したのか?」
「は、はい」
何故ここに? 何故今日が休暇だと知っているのだろう?
そんな疑問をぶつけることも出来ず、なるべく刺激しないように大人しく頷く。
「ほう、それは良かったな」
鋭い眼光はそのままに口元に薄っすらと笑みを浮かべて相槌を打つヴァル。
なぜヴァルとこんなどうでもいい日常会話をしているのか。
あまりに激しい違和感に気味の悪さを感じ背筋に寒気が走る。
「さぞ、充実していたのであろう。今日は三人もの男を誑かしたのだから、どうしようもない淫乱なお前も流石に満足したのだな」
「え?」
フゥディエにはヴァルの放つ言葉の意味が本気で理解出来なかった。
三人? 誑かす? 淫乱?
この男は何を言っているのだろう。
誰かと間違えているのではないだろうか。
色々と疑問が浮かぶが答えは出そうもない。
唯一分かるのは、今日は特別にヴァルの機嫌が悪いということだ。
一体何を言われ何をされるやら。
ヴァルは顔を青くさせ身構えるフゥディエにサッと視線をやり、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「ふん、その箱を持ったままということは、どうやらシェイルにテルーニの菓子は受け取って貰えなかったらしいな」
抱えているケーキの箱を見て何やらフゥディエを詰っているようだが、肝心の彼女にはやはりヴァルの言葉は理解出来ない。
「街で購入した菓子などシェイルが食べるはずなかろう。第一お前が贈ったものなど誰が受け取るというのだ」
なんだかショーンに言われた台詞に似ている気がする。
彼もフゥディエからテルーニの贈り物を受け取る人間は居ないと言っていた。
実際その通りであろうが、一日にそう何度も指摘されると気落ちする。
しかもヴァルは何をどう勘違いしたのか、フゥディエが王太子にテルーニの贈り物をしたと思い込んでいるらしい。
「まさか未だにシェイルに未練があるとは驚いた。自分の立場をよほど理解できていないらしい。あれほど痛い目を見たんだ、いい加減自覚してはどうだ。お前のような化物を受け入れる人間など居はしない」
よくもポンポンとそのように罵詈を吐き出せるものだ。
確かにフゥディエを受け入れてくれる人間は居ないかもしれない。
だが、彼女を受け入れてくれる魔物ならいる。
牢に囚われの身になっている彼らならば、フゥディエに好意を惜しみなく与えてくれるのだ。
ヴァルの攻撃など彼らを想うことで簡単に乗り切ることが出来る。
フゥディエはヴァルによる言葉の暴力が過ぎ去るのを、お土産のケーキの箱を守るようにギュッと抱え身を小さくさせて待った。
そんなフゥディエの様子にヴァルの視線はより一層きつくなる。
「なぜお前はいつもそうなのだ、なぜいつも違う者ばかりっ」
ヴァルが怒声を発する。
声に怯んだフゥディエはビクッと肩を震えさせ息をのむ。
その隙にヴァルは手を振り上げ彼女の抱えていたケーキの箱を薙ぎ払った。
「っ……!」
しっかり持っていたはずの箱が地面へと転がり落ちていくのを目にして声にならない悲鳴を上げた彼女は、慌てて拾い直そうとするがそれより早くヴァルがその箱の上に足を置いた。
「やめてっっ! お願い、やめて下さい! お願いしますっ!!」
―――ぐしゃり
フゥディエの必死の懇願もむなしく、ヴァルは思い切り箱を踏みつぶしてしまった。
「ああ………」
ヴァルの足の下で無残に潰れている箱の前にへたり込むフゥディエ。
せっかく彼らの喜ぶものをと思い買ってきたケーキが。
繊細な彼らにこんなグチャグチャなものを土産にできるわけない。
「お前は大人しく独りでいろ」
呆然と足の下のケーキの箱を見つめるフゥディエを見下ろし吐き捨てたヴァルは箱を更に蹴り上げ遠くへやると、大股で元来た道を引き返していった。




