光
モニターにその姿が映し出されると、マサムネは絶句した。
それまでの緊張やちょっとした興奮は一瞬で吹き飛んだ。
アリスの裸体は、それは美しかった。マサムネが今まで幾度となく想像したイメージとは比べ物にならないほどに。
しかし、その刻印が全ての言葉を亡き者にしていた。
胸、腹、背中、脚、二の腕……。
顔にはなかった。
始めはそこにもあったようだが、その男が周囲に気付かれぬよう避けるようになったらしい。
アリスは語った。
それは高校に入って二ヶ月が過ぎた頃。
永らく続いた雨がやみ、久し振りの晴れ間を見せた昼休み。友人と渡り廊下を歩いているところで声を掛けられた。
その人は一つ上の先輩で、校内でも有名な男子生徒。目の覚めるような容姿、家柄がよく、あらゆることに余裕を感じさせる大人の雰囲気を持ち、勉強もできれば誰にでも優しく接することのできる性格と、全てに恵まれたような人だった。
その人はアリスの前に立つと、自分の名前を告げた後でシンプルに「好きです。俺と付き合ってくれませんか?」と告白した。
その人のことはアリスも知っていたが、その時特別好意を抱いているわけではなかった。だけど、嫌な感じはしなかった。むしろ評判どおりの好青年といった風で、突然の告白にも関わらず迷惑よりも好印象を抱いたことを覚えている。
そして、友人の強い勧めもあり、そのまま押し切られる形でアリスは交際の申し出を受け入れた。
そこにはやはり、どこかでマサムネのことを忘れようとする意識も働いたのだろう。
女子に人気の高い彼。最初は戸惑っていたアリスも、付き合ううちにまんざらでもない気持ちになっていく。
勉強を教えてもらい、いろいろな相談にも乗ってくれて、デートもすべて彼がリードしてくれる。中学の頃とはまったく違った毎日に、ひょっとしたら本当にこのまま何もかも忘れ、新しい道が拓けるかもしれない。
そんな風に思え始めた、ある日──
異変は起きた。
それは付き合い始めて最初の夏休み。花火大会のデートで起きた。
その日、彼に浴衣を着てくるよう言われていたアリスは、だけどちょっとしたトラブルによりそれを叶えられず、私服を着る破目になった。
事前に連絡を入れたのだが、返答はない。仕方ないので、そのまま現地に向かった。楽しみにしているであろう彼に事情説明と謝罪、それと埋め合わせの用意をして、彼の前に立った。
だが彼は、私服でやってきたアリスに対し、何ら問答をすることもなく突然に拳を振るった。
横っ面を殴られ、アリスは吹き飛んだ。世界が回り、頭が真っ白になった。
何が起こったのかわからない。頬に広がる鮮烈な痛みと、鼻と口から流れ出る血。
驚いて顔を上げると、そこで彼と目が合った。
彼は静かにアリスを見下ろしていた。
ぞっとするほどの冷たい瞳。
右手が握られていて、それで自分は殴られたのだと知った。
頭の中でさまざまな思考が流れ、そしてアリスは理解した。
自分が置かれた立場を。
そして、自分の運命を──
アリスの話を聴きながら、マサムネは頭がどうにかなりそうなほどの強い怒りを覚えた。
あまりに強い怒りに目の前の景色が歪み、アリスの姿も歪んで見える。
何よりその怒りは、自分に向けてのものだった。
俺がこの事態を呼んでしまったんだ。
俺が全ての元凶を作ってしまったんだ。
その男はその後、ことあるごとにアリスに暴力を働いたと言う。
しかしそれは、男が気分でただ闇雲にやったものではなかった。
それはまるで、アリスを調教するように。自分から逃げられないように。そして、自分に都合のいい存在に、自分に従い続ける人形になるように。すべて計算してやったものだった。
それからの一年のことを、アリスはよく覚えていないと言う。
その男は普段、とても優しく紳士的にアリスのことを扱った。学校の中や街中では仲睦まじい普通のカップルとして誰の目にも映り、実際にそこだけ切り取ればそのとおりだったのだと言う。
しかし、何か男の思う一線を越えてしまうと、すぐに暴力が飛んできた。そこに言葉はない。何ら問答も生じない。まるで雷に打たれたように、気付けばアリスは傷を受け血を流していた。
記憶が曖昧なのは、恐らくその一年をアリスは自分の意志で過ごしていないからだ。
頭のいいアリスはかえって男の考えをすぐ理解してしまい、その調教を的確に吸収していったに違いない。言葉は必要ない。繰り返し拳を振るわれる必要もない。一発鞭を与えられれば、次には男の思うとおりになっている。
そうして一つずつ、確実に、アリスはその男の人形として作り変えられていったのだ。
記憶が曖昧なのは当然だ。
何故ならこの一年、アリスはただ男の暴力から逃れるよう、ただ男が優しい彼氏であるように、叩き込まれた反射だけで生きてきたのだから。
だけど、アリスが男のすることを受け入れてしまったのには別な理由がある。
それはアリスが独りだったということだ。
親には心配を掛けたくない。兄弟はいない。学校の友達はみなその男のことを信頼しているし、下手に巻き込んでしまうわけにもいかない。
そして俺は……。
誰か頼れる人はいない。一人で逃げ出す力もない。
ならば……と、そう考えるのは無理もなかった。
最後にアリスは、「今日は儀式の日だった」ことを告白した。
今日となったクリスマスイヴの夜に、その男と初めての交わりを迎える。
男は来春に高校を卒業し、その後は海外の大学に進学することが決まっていた。
アリスはそれに付いてきて欲しいと言われていた。
その答えを、今夜返すことになっているのだと言う。
答えは決まっている。そして答えたならば、もう戻れない。
だからその前に、マサムネを殺して、殺して、殺して……。
自分の中から最後の甘えを消し去るための、心を殺してその男の本当の人形となるための儀式だったのだと。
アリスが話し終え、静かに口を閉ざす。
するとマサムネは、自分がこの世でもっとも深い井戸の底にいるような気持ちになった。
ゲームで再会したのは偶然だと思っていた。
今年の秋に久し振りにログインすると、アリスはそこにいた。嬉しくなって、その時は細かいことなんて何も気にしなかった。大方アリスも暇を持て余して再開するようになっていたのだろうと、そんな都合のいい夢を見ていた。
だけど、そうではなかった。
アリスはずっと待っていたんだ。
待って、ずっと俺に助けを求めていたんだ。
なのに俺は、そんなことはまるで気付きもせず、再会した後も中学の頃と何ら変わらずどっち付かずのままで……。
だからアリスは、また独りで決めてしまった。
独りで遠くへ行こうとしてしまったんだ。
「俺はどこまでバカなんだ……」
アリスに聴こえない声で吐き出す。情けなさのあまり涙が出そうになった。
パソコンの画面には、自分の身体を抱くようにして立つアリスの姿が映し出されている。
かつて誰よりも近くにいたアリスが、今ではどんな場所よりも遠い手の届かない所にいるように思えた。
全て自分が招いた結果だ。
情けないにもほどがある。
「……だけど」
同時に、マサムネの心には別な感情も生まれ始めていた。
深くて暗い井戸の底。
だけどそこに、光が射した。
それは、アリスがもたらしてくれた光──。
最後の最後にアリスが俺にくれた希望の光だ。
「アリス──」
マサムネがその名を呼ぶ。
するとアリスは、恐る恐る顔を上げる。
傷だらけの身体。涙で汚れた顔は、未だかつて見たことのないひどく臆病で弱り果てたもの。
だけど、マサムネのよく知る、人間のアリスの顔だった。
「今からそっちに行く」
この光は絶対に消してはならない。
もう二度と間違えてはならない。
だから、マサムネは言う。
例え二人がどんなに遠く隔てられていようと、一足飛びに踏み込んで深く相手に届くように。
アリスのハートにきちんと響くように。
「──大丈夫。お前には、俺がいる」