水と剣の物語 5話「神楽をめぐる冒険」
1、
氷室は、水剣神社に近い公民館の縁側に座る。目の前には、一面に金色の稲穂が揺れている。
秋晴れの空から澄んだ風が吹いてくる。稲田の中を抜けた風は、氷室のメガネにかかる前髪をふわっと撫で上げる。トレーナーにジーンズという姿の今日は、日曜である。傍らには、陽介が腰掛けている。襟付きの長袖シャツにジーンズ姿である。氷室はスニーカーを履いているが、陽介は裸足に下駄履きであった。
陽介は、手にした紫色の細い包みを開ける。相変わらずの無表情で突き出すのは、一本の笛である。氷室が受け取ると、自分も取り出して吹き口に唇を当てる。稲田の上を、涼やかな音色が風となって吹きすぎてゆく。氷室も、陽介の奏でる旋律を追って、笛を口に当てる。ゆっくりと眼を閉じると、澄んだ音色が高らかに響き渡る。
水剣神社の祭礼は、10月の声を聞く頃に行われることになっている。これが終わると、さあ稲刈りだということで、辺りの家々からトラクターやコンバインが農道へと出動することになるわけである。近隣の農家にとっては、最後の大仕事を始める前の景気付けといったところであろう。
子供達にとっては、夏休みが終わって気合を入れるのに好都合なイベントである。学年や学校の枠を超えて、わっと騒げる機会はめったにない。学校から帰ると夕食後にすぐ奉納神楽の稽古である。土曜の午後と日曜はまるまる潰れる。決して楽ではない。しかし、小学生や中学生は結構夢中になっている。年上の者を通して、いずれやってくる新たな世界が覗けるからである。
子供達が学ぶのは、古くから伝わる神楽舞の所作や楽器の旋律である。年下の者が、年上の者に教わることになっている。たいてい、小学生が大太鼓と神楽舞、中学生が鼓、高校生が笛を担当する。それぞれが、かつて習い覚えたことをその通りに伝えてゆくのである。
ただし、最近では高校生が受験や部活で忙しくなるので、笛は青年団が吹くことが多い。その青年団も、だんだん規模が小さくなっている。若者が都会へ出ていってしまうからである。それでは獅子舞の人数が足りない。獅子頭を振るのが1名、胴を背負うのに最低3人は必要である。年配のベテランに笛を吹いてもらえばいいのだが、どうしても稽古のために土日を休むわけにはいかない。若い笛吹きの確保は急務だった。
そこで白羽の矢が立ったのが、陽介と氷室である。試しに笛を教えてみると、陽介は実に器用に吹いた。鼓しか打ったことはない。ただ、大人のすることを見て覚えたのだという。問題は、京都から陽介宅に移り住んで間もない氷室である。だが、意外なことに、氷室は大人達よりも巧みに吹いてみせた。だが、どこで習ったのか聞かれても、彼は微笑してみせるだけで答えなかった。
「どうや、まー(もう)、覚えたろう。」
背中から声をかけたのは、陽介の祖父、但馬龍造である。陽介は幼い頃に両親を失い、この龍造ひとりに育てられた。両親はこの辺りを襲った台風による水害で行方不明になったという。
「たいしたことあれへん。」
祭囃子を奏でつづける陽介の代わりに、氷室は振り向いて答えた。龍造が作業着姿なのは、田の稗を抜いていたからであろう。
「坊んたあはどこったよ(子供達はどこへ行ったかな)」
龍造はかなり古い方言を喋る。京言葉にどっぷり浸かってきた氷室には、かなり聞き取りづらい。それでも、半年も寝起きを共にしている。なんとか意味を取れるようにはなっていた。
「境内へ遊びに行た。」
「ええんかよ、稽古せんでも。」
「去年やったから知ってる言うてたで。」
「お前らが守りせんならんのやでな。」
「分かってるがな。」
子供達がさっきまで叩いていた太鼓は、縁側に差し込む低い秋の日を浴びて静まり返っている。鼓が転がっている。中学生たちも、神楽舞の子供達と遊んでやっているのだろう。きゃあきゃあと騒ぐ声が、微かに聞こえてくる。
「ほうせやあ(そうしたら)、俺は田んぼ行ってくるで。」
「ああ。」
陽介は、ようやく笛から口を離して答えた。振り向きもしない。
「日が暮れる頃には、もう1回通して帰るよ。」
公民館のガラス戸の向こうに作業着が消えると、軽トラックのエンジン音がぶるぶると聞こえた。
2、
子供達は、早い夕食をすませると公民館に集って太鼓の稽古を始める。大人達は先に来て待っている。酒が入っていることもたまにある。教育上、よくないといえばよくない。しかし、子供はこうして「大人ってこんなもんだ」という現実を学んでいく。思春期に入って妙な挫折や幻滅を味わってグレるよりはマシというものである。
陽介と氷室は、部活からの帰りに、ここへ直行する。10月の末には地区大会があるので、かなり忙しい時期ではある。だが、笛を習うということで、顧問の許可が下りた。笛を「舞台での生音」として用いる効果が期待されたのである。
そんなわけで、2人は夕食を後回しにして公民館へやってくることになる。その頃には、大人達の口伝による稽古が始まっている。
「お日さんこいこいこい、お日さんこいこいこい……」
ちょっと聞くと意味不明だが、これらは皆、笛の旋律と太鼓のリズムを示すものである。全体的なリズムは小太鼓の軽快な連打で取れるが、大太鼓のタイミングは小学1年生や2年生には難しい。
たとえば、この「お日さん~」の場合。
「お・ひさん・こいこいこい」
●・ ○ ・● ● ●
「お日さん」は「お」で1拍打って「日さん」で1拍休止。「こいこいこい」で半拍の3連打。「お日さん、お日さん」と続けば、1拍打・1休止の連続である。このリズムを覚えさせておいて、笛の旋律を「お~ひひゃ~ひゃろひ~ひ~ひい」と続ければ、その声の強弱で子供達は打つタイミングに気付く。
だが、もっと訳のわからない口伝もある。
たとえば、「岡崎ざんざりこが味噌こぼした」。
「お・か・ざ・き・ざん・ざりこが・み・そ・こ・ぼし・た」
●・○・●・○・● ・ ○ ・●・○・●・○ ・●
これはもう、声の強弱で判断するしかない。
さらに、歌の意味はすでに語路合せの域を超えている。関西人の氷室などは、「岡崎ザンザリコって誰や~! 」とツッコミたくなるところである。もっとも、笛を吹いているのでいつもそのタイミングを逃してしまうのであるが……。
平日は、稽古を1時間ほどやったところで休憩をとる。その後に30分ほどおさらいをやって、子供達はお菓子とジュースを貰って帰る。氷室達は遅い夕食をとらなくてはならないので、休憩に入ったところがちょうどいい一区切りとなる。だが、ここ数日の間に、氷室にはその前の一仕事が残されるようになっていた。
「おい、メガネの坊よ。」
そろそろ顔見知りになりはじめた近所のおじさんが、氷室を呼び止める。「メガネの坊」とは、最近ついた氷室の呼び名である。この辺りでは、その家の息子や孫にあだ名をつける習慣があった。この呼び名は、家の主が死ぬまで続く。因みに陽介は、両親がいないので「但馬んとこの孫」と呼ばれている。氷室は居候なので「どこそこの息子、孫」という呼び方ができない。そこで、とりあえず「メガネの坊」と呼んでいたのが定着してしまったのである。
「坊んた(子供達)に稽古つけてやっとくれんかい。」
氷室のつける稽古とは、神楽舞のことである。やったことがないのになぜ頼まれるか。それは、振りを教えるわけでないからである。
「ボク、立ってんか」
氷室に招かれたのは、ササラ役の子供である。ここでいうササラとは、日本中世の屏風絵で田楽師が鳴らすものとは形が違う。短い竹の棒の先を箒のように裂いたもので、凹凸を刻んだ木の棒をこすって音を出す。この2本の棒を持って獅子に立ち向かうのが、この子供の舞である。
まだ6~7歳の子供は、身体が柔軟なわりにバランス感覚が未熟である。片足で立ったり、滑らかに動いたりするのはあまり得意でない。これは、身体の重心のとりかたと呼吸に問題がある。氷室は太極拳を身につけているので、この辺りの感覚に優れていた。数日前、なかなかうまく舞えない子供にコツを教えてやったところ、その場で動きが見違えるほど変わったのである。
「肩の力が抜けてへんねん、こお息を吐いてやな、こお腰を回したったらな、ほれ! でけた!」
歓声が上がる。メガネのお兄ちゃん、ボクも、と声がかかる。じゃれてくる子供とちょっと遊んでやる。今日の夕食も遅くなりそうである。
後ろの陽介に振り返ると、眼を閉じたまま壁にもたれて座っている。起きているのか寝ているのか分からない。その頭の上にかかる時計は、すでに8時を指している。
3、
祭の世話役の家は、その間、「宿」と呼ばれる場所になる。奉納神楽はここを出発して祭囃子と共に神社までを歩く。土曜は午前中に学校があるため、舞うことができるのは「新楽」と呼ばれる1回だけである。日曜は「本楽」と呼ばれ、神社の拝殿の前で数回舞った後、再びここへ帰ってくるのである。
襖は床の間まで部屋3つ分ほど取り払われている。その床の間には本番で使われる大太鼓が錦で飾られ、幣を手向けられている。床の間と仏壇を隔てる襖の前には竹の棒が吊るされている。幾つもの傘や、鶏の形をした帽子、そして鼓がぶら下がっている。傘は横笛のかぶるものであり、帽子は鼓打ちのものである。
どれもこれも、この1日が終われば、神社の倉庫で防虫剤と共に1年間眠ることになる。それは、たった1度の舞台の為に稽古を続けて出番を待つ役者にも似ている。
太鼓の子供たちは昼前にやってくる。さっそく女性達が化粧させていく。小さな顔に白粉が塗られ、頬と唇に紅が差される。緋色の錦が着せられる、緋色の傘をかぶると、そこには獅子に挑む稚児が3人誕生する。
やがて、浴衣姿の中学生達が集まって畳の上に車座に座る。やがて始まる雑談の内容は、アニメやポップス、時として女の子の話題。支度を始めるのは、大人達から声がかかってからである。支度といっても、稚児たちほどたいしたことはない。風呂敷に包んで持ってきた家紋入りの裃を身につけるだけのことである。そして、鶏帽子と鼓を手に取れば、あとは出番を待つばかりである。
氷室と陽介がやってくるのは、その後ぐらいである。大人達と共にすぐ裃を身に着ける。広々とした畳の間に全員がぐるりと輪になって座ると、下座で「宿」の主が祝辞を述べる。上座に座った神主役の老人の合図で太鼓が縁側から下ろされる。
稚児が太鼓の前に2人、獅子の前に1人、片足伸ばして蹲踞する。鼓と笛がそれを挟んで対面して尻床几に座る。神主役が御幣をふって祝詞を上げる。長く伸ばした声が途切れると同時に、氷室も陽介も笛を口に当てる。
笛の最初の旋律が高らかに奏でられる。獅子が稚児たちを睨み据える。稚児たちが一斉に立ち上がる。鶏たちの手が一斉に鼓を打つ。小太鼓が軽妙な調子を取り始める。稚児たちが最初のバチを太鼓に叩きつけると、ササラがシャッと鳴って獅子を威しつける。
水剣神社の祭礼は、こうして始まる。
「宿」で一通りの神楽舞が終わると、一行は水剣神社へと歩き始める。このときも、笛や太鼓は鳴り続ける。この旋律は、「道行」と呼ばれる。神主を先頭に、太鼓がかつがれ、稚児が続き、その後を笛、鼓、獅子が続く。このとき、太鼓を叩くのは大人の役目である。なぜならば、小学校低学年の稚児では、背が太鼓に届かないからである。
このとき辛いのは笛や鼓である。恐ろしく長い田んぼ道を同じ旋律を奏でながらひたすら歩き続けなければならない。
(めっちゃきついわ~……)
笛を吹きながら氷室は思う。稲田の中を果てしなく続く道である。澄んだ空高く太陽がさんさんと照る。暖かい風が土と稲の匂いを運んでくる。隣を歩く陽介をちらりと見る。うっすらと目を閉じて「道行」の単調な旋律を奏でている。陽介はなんともないかもしれないが、水剣神社での舞を勘定に入れるとなかなかにきつい。これで謝礼は1000円札1枚である。中学生ならいざ知らず、高校生にとってはどう考えても割に合わない。
だが、地元の人間である陽介はともかく、去年まで京都で暮らしていた氷室も、それなりに納得している。別にアルバイトでやっているわけではない。
京都の人間は金銭に細かくケチだと言われる。氷室も例外ではなかったはずである。どうも、水が変われば人も変わるものらしい。
4、
「おかしいな……」
陽介が傘を脱いでつぶやく。見上げる空を氷室も眺めてみる。灰色の雲がうっすらと流れていた。境内に高く生い茂った銀杏と、神社を囲む杉の木々の彼方である。さっきまでのさんさんたる陽光はもはやない。長い長い「道行」の果てにたどりついた水剣神社で、最初の舞いが終わった後である。
「天気予報見て来いひんかったなあ……」
氷室がぼやいて間もなく、大粒の雨がぽつり、ぽつりと降り始めた。やがて、たらいをひっくり返したような大雨になる。こんなとき、神楽の一行は祠の前の拝殿で雨やみをする。ちょうど休憩時間にあたっていた。こんな雨がそうそう降り続くものではない。
拝殿の中では、再び年齢層別の雑談が始まる。もっとも、高校生は氷室と陽介だけである。当然、会話は二人だけのものとなる。気楽といえば気楽である。第3者に分からない話をしても一向に構わない。
「おかしい……」
再び陽介がつぶやいた。天気予報を云々しているのではないらしい。氷室は何となく気付いた。
「何がおかしいん?」
「これは、伊勢神楽なんだ。」
「伊勢神楽やからどないしてん?」
「伊勢神楽は、太陽を呼ぶ神楽なんだ……」
「せやから言うて、雨ぐらい降るやろ。」
「これ見ろ。」
陽介が指差す先を見ると、境内一面が波立っている。
「これがにわか雨か?」
水剣神社の境内は、高台の上にある。山を背にして、2つの川に挟まれている。2つの川は境内の手前で合流しているが、どちらも浅い渓流である。そう簡単にあふれるわけがない。仮にあふれて境内が水に使ったとすれば、この地域一帯が水没したことになる。
「まるで台風やん……」
「そうだな……」
普段は抑揚のないのが、陽介の声である。だが、明らかに何らかの感情が爆発したのを氷室は感じた。
そのとき、突如として「道行」の旋律が始まった。氷室がはっとして振り向くと、神楽の列がしずしずと拝殿を降りていく。
「まだ降ってるやん……!」
降りしきる雨の中、陽介と氷室抜きでの神楽が始まった。「道行」の単調な旋律が延々と繰り返され、それに合わせて稚児たちも獅子も軽快に舞う。雨は笛吹きの傘に当たって滝のように流れ落ちる。鼓の少年達はずぶ濡れである。稚児たちの衣装はほとんど綿入れと言っていいので、水を含んでぶよぶよになっている。
そんなになっても、舞は終わらない。境内の水かさは増してゆく。あっという間に神楽舞は水の中に沈んだ。
「陽介……」
はっと気付いて隣を見ると、陽介の姿はない。
陽介の名を叫んでみても、その声が自分でも聞こえない。拝殿の屋根に降る雨は滝となって視界を遮る。神社から見えていたはずの山々も、カーテンのように揺れる雨に隠れて見えない。境内の向こうから押し寄せる水は、もう氷室の足元まで迫っていた。
5、蛟龍
深い水底で、神楽舞は続いていた。笛の調べも鼓の響きも、もう聞こえない。しかし、笛吹きも鼓もその楽器を構えたままである。稚児たちはひたすら太鼓を打ちつづけ、同じ場所でササラを擦り続けている。獅子も、1歩進んでは退き、また1歩進んでは退くばかりである。
神楽舞に向けて沈みながら、陽介は浴衣と裃に手をかけた。
「邪魔だな……」
銀光が縦横に閃く。陽介の細い身体は、数条にちぎれた布に覆われるばかりとなった。その手にあるのは、冷たく光る両刃の剣である。
「さて、と……どこだ!」
普段の低い声からは想像もできない一喝。陽介を中心に、音のない水の中に衝撃が走る。
「そこか……。」
真下から、垂直に突進してくる影があった。剣を逆手に構えて待つ。暗い水の中に光る2つの眼。その間めがけて切先を突き立てる……思わぬ方向からの一撃に吹き飛ばされた。くるりと身体を捻って体勢を整える。視界を横切る影が見える。その姿はぼんやりとしてよく分からない。だが……長い蛇体と大きな顎……。
「蛟龍か。」
陽介のつぶやきに応えるように、蛟龍は陽介の体にするりと巻き付いた。動きがしなやかな割には、かなり大きい。陽介の胴と腕を締め上げるように3度巻いても、まだ尾と首の部分が長々と余る。その頭がぐるりと陽介の正面までやってきた。
「水の一族だな。何の用だ。」
蛇体に対しては不恰好に大きい頭である。ぎょろりと睨みつける両眼に、感情はない。ただ、薄暗がりの中に狂暴な光だけが揺れている。陽介の身体が、折れそうなまでにぎしぎしときしむ。
「……是非もないか。」
陽介が歯を食いしばる。ほとんど肉のついていない痩せた肩が微かに震える。蛟龍の身体が膨れ上がる。顎が上下にばっくりと開かれた。陽介の頭に覆い被さる。今にも噛み砕こうとするかのように……
水の世界が陽介の咆哮と共に揺れた。蛟龍の身体が散り散りに吹き飛んで水の中を舞う。陽介の見開かれた目には、いつもの冷たい色はない。暗い瞳が、さっき引きちぎった蛇体を追って油断なく動いている。背後から迫る影! 振り向きざまに一刀両断にしたのは、蛟龍の巨大な頭である。
「そこまでじゃ!」
幼く澄んだ声が威厳を秘めて凛と響き渡る。蛟龍の身体の破片が水の流れに溶けて消える。流れに任せて揺れる長い黒髪……その彼方に見えるのは、少女の白い裸身である。清らかな白い光が辺りを包む。その光に照らされて、小さな影が現れた。少年のようである。年の頃は14歳前後であろう。乙女の前にひざまずくようにうずくまっている。やはり、長い黒髪が水の流れになびいている。光を避けるように身体をかがめているので、その華奢な裸身はぼんやりと青く霞んで見える。
「……澪。なんのつもりか。申してみよ。」
澪と呼ばれた少年は押し黙っている。顔を伏せているので、表情は分からない。だが、肩や背中のこわばった様子から、納得のゆかない叱責を受けているらしいことは陽介にも見て取れた。
「黙っていては分からぬ。」
少年は答えない。少女は再び叱りつける。
「澪!」
「……しかし、姫……」
「待て。」
陽介の低い声が、澪と「姫」のやりとりを遮った。
「澪は許してやれ。宿命に従っただけだ。」
「おぬしは甘い。」
「許さなかったら、どうするつもりだ?」
水を蹴って、陽介は「姫」のそばにふわりと降り立った。ただし、言葉に詰まる「姫」は放っておく。相手は澪である。
「お前は、水の一族として僕を襲っただけのことだ。」
「あなたは、剣の一族なんですよね……あの剛力、そうですね……」
澪は、おずおずと尋ねる。陽介は、無言でうなずいた。澪は陽介の目の前までふわふわと浮かび寄る。
「では、なぜ姫はあなたと……。敵同士ではありませんか。」
「だが、もともとは同じところから生まれたものだ。」
首をかしげる澪に、「姫」は哀しげに微笑んだ後、ようやく口を開いた。
「……ここがどこだか知っておるか? 水剣神社というのじゃ……」
6、
「坊、『お日さん』吹け!」
突如として、龍造の荒々しい訛り声が、水面を打つ豪雨の轟きをものともせず響き渡った。陽介が自ら水中に沈んでから間もなくのことである。水剣神社の拝殿は、完全に孤島と化していた。辺りは一面、水に沈んでいる。視界は降りしきる雨で真っ白であった。氷室が振り向くと、拝殿のほかに唯一沈んでいないのは祠しかない。拝殿からはまだ20ほど石段を登らなければならない高さにあるが、その半分はもう水の底に沈んでいた。
氷室が振り向くと、龍造はいつもの作業着姿である。。
「まんだ(まだ)甘いでだちかん(だめだ)。」
さっきまで陽介がいた辺りに座って古い方言でぼやいた。
「神楽は、ただの舞い踊りでないわい。」
「ただの神楽やなかったら、何やねん。」
龍造は答えない。黙って氷室の背後に立つ。拝殿の床を踏み鳴らす音が聞こえる。小太鼓の拍子だった。
「お日さんこいこいこい、お日さんこいこいこい……」
氷室は、思わず笛を口に当てる。がらがらと鳴る声に合わせて、氷室は神楽舞の旋律を高らかに奏でる。笛の高い音が、耳を聾する雨音を切り裂いた。
お日さんこいこいこい、お日さんこいこいこい……
やがて氷室は、龍造の踏むリズムが8ビートに近いことに気付いた。笛の調べは次第に軽やかになる。かしこまった伝統楽器の旋律は、いつのまにかどこにでも流れているロックやポップスに近づいていく。
荒れ狂う雨音が、次第に安らいできた。真っ白に曇った視界が微かに晴れる。ぼんやりと、彼方の稜線が霞んで見える。拝殿の周りは一面の水に満たされている。
やがて、雲が薄れた。ちぎれちぎれて稜線の彼方へと押し流されてゆく。白くなった空がほんのりと明るくなった。
お日さんこいこいこい、お日さんこいこいこい……
龍造の歌声に応ずるように、鉛の円盤のような太陽が姿をあらわした。水面が静かに光り始める。やがて、まばゆい陽光が小波に砕けるようになった。再び真っ青に晴れあがった空に、笛の音が突きぬけてゆく。
お日さんこいこいこい、お日さんこいこいこい……
打ち寄せる波の音が遠くなっていく。
水剣神社の由来を知った澪は、じっと黙って考えていた。姫は語り続ける。
「この神社も神楽も、水の一族と剣の一族が手を携えてもたらしたものじゃ。」
「何のためにでしょう?」
「水の力だけでは実りはもたらせまい?」
陽介が姫の言葉を受けるようにつぶやいた。
「僕たちは夜の闇、光の作る影に生きる者だからさ……」
「私たちは、昼の光の中に出てはいけないのですか?」
「最後に豊穣をもたらすのは太陽の光じゃ。我々は、それまで命を育むことしかできん。」
突然、姫の言葉は笛の調べに途切れた。澪は首をかしげる。
「聞こえぬか?」
「何も聞こえませぬが……」
「この笛の調べよ……」
やっと澪も気付いたらしく、目を閉じる。
「楽しいのう……」
「……楽しゅうございますか?」
「楽しくはないか?」
「……楽しゅうございます。」
「邪魔をして悪いが……」
うっすらと、ゆっくりと眼を開けた澪と姫は、陽介を見つめる。
「そろそろ、眼を醒まさせてくれないか?」
澄んだ空から降り注ぐ秋の陽が、まだ青い銀杏の葉の間から降り注ぐ。氷室は「お日さん」の最後の旋律を奏でていた。この旋律が終わると神楽は小休止に入る。太鼓とササラの稚児たちは、手にしたバチや鳴り物を高々と太陽にかざす。ゆっくりと腰を落とし、片足伸ばしての蹲踞の姿勢をとる。その両手は美しい弧を描いて、バチとササラを地面に突き立てる。笛を構えたまま、氷室は会心の笑みを浮かべた。猛練習の成果である。あとでうんと褒めてやろうと思う。
隣をちらりと見ると、陽介は笛を膝の上に置いて、神楽の再開を待っていた。その眼は、まるで眠っているかのように閉じられている。
とろとっとっとと軽トラックのエンジン音が止まる。龍造の姿が境内の向こうから現れた。石段を上がってくる。がちゃりがちゃりとジュースのケースを抱えている。神楽が終わる頃を見計らって、ちょっと遠くに1軒だけある酒屋に行ってきたのだ。因みに、大人たちのビールは「宿」への「道行」が終わるまでお預けである。
神主役が御幣を振って祝詞を上げる。
「東西、東西、東西、天下泰平、五穀豊穣……露洞姫様へ太神楽舞、始められ候……」
静かに笛の旋律が奏でられる。稚児たちがするりと立つ。鼓の手が一斉に動く。太鼓が鳴る。ササラが獅子を威す。笛の高い音が尾を引くと、やがて太鼓の乱れ打ちが始まり、バチの先の朱布が燃える。
神楽は今、最高潮の時を迎えていた。
(完)