雪化粧
見渡す限りの白が、すべてを覆い尽くし他には何もないことを示している。
びゅうびゅうと音を立てて吹き交う風は、細かな白を孕んですべてにたたきつける。
夜であるにもかかわらず、見渡す限りのその白が、空に浮かぶ月明かりを反射して薄明るさを保っている。
その明かりに照らされて、轟々と吹く風に舞上げられた白がきらきらときらめきながら、また遠くを白に染め上げようと空高く舞っていく。
それは、ひどく絶望に似ていた。
自我、というものを覚えた瞬間、彼女は誕生していた。
自分が何者で、どういう存在なのか、生まれ落ちた瞬間にもうそれらの知識は備わっていた。
まるで誰かに「そう在れ」と云われたかのように、初めから定められた約束事のように、彼女はそれに一片の疑問すら持たなかった。
雪女であることを。
自身に、暖かい血潮など通わないから、他に温もりを求めるのだろうか。
雪の冷たさも、風の凍てつきも、この身を何ら煩わせることはないのに、この心だけが凝って、寂しさに似た寒さにうち震えている。
人でない身でありながら、人のように人恋しがるこの思いは一体どこからくるのだろう。
少し不思議に思って首を傾げるも、すぐに雪女とはそういうものなのだと理解する。
一面の銀世界は美しいけれど、他には何もない。見るもの総てが真白に染まり、他の色は何もない。一見完成されているように見えて、ひどく不完全なこの世界では、満足できないのだから。
山から降りることは、少し不安だった。麓にゆけばゆくほど、気温は上がり私は心許なくなる。けれど、薄くなる雪に、見えてくる土や岩の色に、新鮮な喜びを感じた。
生まれ落ちたばかりの私には初めて見る総ての色が美しく、煌びやかに見える。
けれど、それも一つの集落に出るまでだった。山より遙かに少ない雪に、不満を覚える。雪は私には家であり親である。
これではよくない。
不快に思えば後は簡単だった。山から風が雪を運んで、集落全体を白で飾ってくれる。 五月蠅すぎるほど見えていた地の色が雪で隠されて、僅かに見えるだけとなり、完璧な調和が生まれていた。これが美しさ、というものだろう。白だけでも駄目。他の色が多くても駄目なのだ。
あまりの美しさに見とれていると、視界の端に動くものをとらえた。 其方に顔を向ければ、驚愕に顔を歪ませた男が立っていた。
周りをきょろきょろと見回していることから、景色の美しさに驚嘆しているのだろうと分かる。私は嬉しくなって、男に声をかけた。
「美しかろう?」
男は驚いてこちらに振り返り、私に気づくと陶然として頷いた。
「ああ……美しいな」
男の目がしっかりと私を見据え、ゆっくりこちらに近づいてくる。
百姓であるだろう男は、三十手前、といったところだろうか。なかなかに好い顔立ちをしている。
初めて見る男に、私はとても興味を抱いた。このまま別れるには余りに惜しい。
この男なら、私の心を暖められるかもしれない。
これを山につれて帰れば、私は独りではなくなるかもしれない。
思いつきが私を微笑ませ、男は魅入られたように視線を外さないまま私の正面に立った。
これが人の体温か。触れてもいないのに、目の前に立つ男が発する熱が、私にじりじりと伝わる。
この身を竦ませるには十分だ。
恐る恐る、指を男の頬に滑らせる。
ああ、なんて熱いのだろう。
熱を持たぬ氷のこの身では、この男を受け入れることは叶わないだろう。
少し触れただけの指先は熱を分け与えられ、じんじんと痛むような熱は、そのままこの胸を締め付ける。
これ以上触れれば、この身を保つことが難しくなりそうだ。
でも。この男がほしい。
美しいと言ったとき、きっとこの男は景色ではなく、私こそを美しいと言った。
生まれて初めて出会った男。
生まれて初めて、私に熱の熱さを教えた男。
私は男に口づける。
そのままふうっと息を吹き込めば、男の熱は急速に失われて、私と同じ冷たさになる。
動かなくなった男を風で山に運び、私は初めて充足感を得た。 凍りついて、すっかり白くなった男に絡みついて、私の心は満たされた。
男は私を見つめたままの姿でその時を止め、永遠に私だけを見つめ続ける。
触れてもその熱で私を怯えさせることのなくなった体は安心を与えてくれる。
山にいるのは私一人きりではなく、美しい彫像が一体。
この広く真白い山で、この男だけが色彩を持ち、私の目を引き付けてくれる。
そこで、唐突に気づいた。
これではまだ山の白が多すぎる。
これでは、美しいとは言えない。白は多すぎても駄目なのだ。
私は最早何の熱も持たない彫像と化した男に激しく口づけをして、男の身体をまさぐる。
口づけても熱を分けてくれない男は、私の胸を締め付けもしない。ただ、そこに彫像が在る、という所有の喜びがあるだけだ。
満ちていた筈の私の心はまた寂しさによく似た寒さに戦慄きだす。
始めに男が与えてくれた、この身を溶かすほどの熱。
それが堪らなく欲しくなって、私はまた集落に降りてゆく。
私が山に戻る度、彫像は増え続けていく。
真白い山に、幾つかの美しい彫像が並び立ち、その間を白が吹き抜けていった。
びゅうびゅうと音を立てて吹き交う風は、細かな白を孕んですべてにたたきつける。
それは、ひどく絶望に似ていた。